風の凪いだ海の水面が、遠くを行く貨物船の航跡に沿って白いラインのような漣を、ささやかに描いている。 それを目で追い、吸い込めるだけの海風を肺に満たしてそのまま空を見た。 春の気配を少しだけ含んだ空気が、ざわざわと心の端のほうをざわめかせる。それが春先に起き出す虫たちのよう に心地よく、日差しは緩やかに額を暖めた。 思うまま伸ばした手足をアスファルトに投げ打って、もうこれ以上ないくらいに目の前を青で埋め尽くしながら、下村は 先ほど放ってしまった上着を引き寄せた。それをそのまま上掛けのように体に被せ、気休め程度の暖を取る。本当なら こんな事は気にする性分ではないのだが、今となっては自分以上に気にする人間が居るのでいい加減は出来ないと思 うのだった。 そのまま頭の後ろで組んだ手を枕に目を閉じる。目蓋を通して降りかかる太陽は、暖かな血の流れを目の裏に映し て鮮やかに様々な図形で脳裏を楽しませた。そうしてしばらくの間無為にその様々な図形を眺めていると、段々と頭の 後ろがぼんやりと重くなっていくのが分かる。 ああ、眠いのだな。 まるで人事のようにポツリと言葉が浮かんだ。それはそのままゆっくりと緩やかな円を描き、言葉は姿を変えやがて 舞い落ちる桜の残像へと変わっていた。 公園の桜だ。 この街で見る、初めての桜だった。 そこだけ夜空を切り取ったように、真っ白な花房は満面に咲き誇り、舞い落ちる花びらは銀幕に降るノイズのように視 界を埋め足元を埋めていた。 春の夜に桜たちはまるで内輪話をするように密やかにざわめき、風が鳴れば途端に歓声は高まってこちらを圧倒し た。 夢の向こうの現で見る、桜の木々は見も知らぬ他人のように素っ気無くありながら、しかし近寄れば驚くほど華やか に迎えてくれる。驚いて顔を上げれば、祝福の宴はあっという間に身を包んだ。 そういえば、なんだか不安そうな顔をしていたな。 頭の中に桜が咲けば、まるで当然のように浮かぶ顔があった。 深く刻んだ、眉間の皺。 あっけにとられた、幼い顔。 信じられない疑念の顔。 呆然とした、かわいい顔。 思いつくまま並べ立てた顔の、どれもがやわらかい縁取りで心を和ませる。その縁の題名は、どれも本来であればあ っさり否定されそう なものばかりだけれど、何よりも正直に名づけたものばかりだ。 そんな風に胸のうちでそっとつけた気持ちの名前を、今更言う気はないけれど。 それでもこうして思い出す度に自然と微笑んでしまうのは、きっと何よりも大切に思っているからだと、そう思う。 そういう事、ちゃんと伝わっていればいいが。 人を鈍感だ、神経がないだと年中罵って憚らない顔が蛇足のように思い出される。お前こそよっぽど無頓着なくせに と言えば、返ってくる言葉の金利は昨今の銀行より余程よく、そうなれば最終的に払わされる代償が大きくなるのは下 村だった。最終的にあまり反論が賢くないと悟り、最近ではとりあえず面倒な時は手を出すようにしてる。もちろん商売 物の顔に跡を残すような愚行はしない。実質的なダメージよりもそのまま体よく乱闘にでも発展すれば、その後に残る 体力が激減し、下村にとって都合がいいからだ。 そんな訳でこんな埠頭で一人寂しく太陽に曝されているのは、昨晩はその作戦も見事に失敗し、つもり積もった金利 をきっちり徴収された上、また朝っぱらから続きを始めようとするとんでもなくめでたい頭を殴り飛ばして出てきたからな のだった。 しかし自分の家から出奔してしまったのはどうにも失敗だった。これでは行く場所もなくなってしまった。宛がないわけ ではないが、ヘタにまた金利を増やすのも業腹だ。そうなれば行くところなどなく、仕方なく下村は吹きっ曝しに甘んじて いる。寒くないと言えばかなり嘘だが、大概あまり気にする性質ではないのでどうでもいい。そこら辺に双方の意思の相 違があっての諍いだが、分かっていても変えられないのが性分だ。勝手に納得でも何でもしてくれ。 投げやりな気分で深く意識を沈みこませながら、表層から沈殿する様々な情報の波が徐々に螺旋を描いて静寂に変 わる。その隙間を縫うようにして入り込んできた無粋な音に、下村の意識は強引にまた表層へと引っ張り出されてしま った。 「下村!」 声と同時にガシャンと不吉な音が重なった。その後にドスンと重い音が続く。驚いて体を起せば、こちらに走り寄って 来る坂井とその後ろで金網に突っ込んで見事にひっくり返っているバイクが見えた。 「お前、バイク―――」 「お前!どこ行ってたんだよ!」 皆まで言わせず、問答無用に怒鳴った坂井は、驚いて見上げる下村の前で大きく息を乱し肩を怒らせた。崩れた前 髪の隙間から、つり上がった目が覗く。相手を射殺せるほどのその鋭さに下村は魅入り、しかしそれとは裏腹に声は冷 淡だった。 「どこって、ここに居るだろう」 平気な顔で言葉尻を取られ、途端に坂井が苛立った表情で舌打ちした。しかし下村が至極冷静な面持ちを崩さずに いれば、それも長くは続かず、坂井は振り切るように空を仰いで息を整え、何度か大きく深呼吸を繰り返すとやっと視 線を下村に戻し、先ほどとは打って変わった情けないような目でふにゃりと相好を歪めた。 「逃げられたかと思った・・・・・・」 そのまま倒れこむように下村に伸し掛かり抱きついた。残らず体重をかけられ重かったが、それは言わずにおいてや る。それくらいの価値が今の顔にはあったと思ったからだ。 「・・・無茶苦茶だ、お前。いくらなんでも付き合いきれねぇぞ」 「分かってる・・・ごめん。押さえが利かなかった」 だって久しぶりだったからさ、と肩に埋めたまま坂井が囁く。こんなところは媚びがなく、本心からの言葉だと分かって いるから結局下村も長くは怒りが続かないのだ。 しかし体の負担は感情と違ってはっきりと禍根を残す。未だに間接がぎしぎしと鳴って、少し不自然な恰好をするだけ で鈍く痛んだ。 ぎゅうと背中を掴んで離さないその手が微かに震えているのは分かっていた。またくだらない妄想を発展させて、最終 的には下村の結婚式を邪魔しに来るところまでストーリーは進んでいたに違いない。それが冗談でなく本気の杞憂であ り、終いにはそういう時にはどういった方法がいいのかと宇野に相談していたらしい。それを聞いた時には流石にこち らこそ本気で頭の具合を心配したものだが、今になれば満更でもないと思う辺り、自分も相当に具合が悪いと思って下 村はくくっと笑っていた。 その気配にある程度の譲歩を感じたのか、坂井がおずおずと顔を上げた。潤んだ目に光が差し込んで眩しいくらい だ。触れるほど近くで見合いながら、下村はもう一度はっきりと笑った。 ああ、あの時の顔だ、と思った。 不安そうな顔。今目の前にある現実が、消えてしまわないように祈る顔。 坂井はいつもそんな顔ばかりを下村に見せる。 下村の知っているたくさんの坂井の表情の中で、あまりその顔は好きではなかった。 でもお前にそんな顔させているのは、きっと自分なんだな。 そんなつもりは毛頭なくとも、結果的にそうしているのは下村だった。 しかし下村がどんなにそれをなくそうとしたところで、結局坂井自身が乗り越えなければ消す事など出来はしない。 下村が出来る事など、精々坂井の傍に居てやる事。 消えるはずなどないのだと、思わせてやる事くらいだったのに。 また安易にそんな顔をさせてしまった事に内心舌打ちし、そうだ、そこが坂井の地雷だったと思い至った。 これでは神経がないと言われるのも道理だった。 「そうだな、一つお願いを聞いてくれれば、許してやろう」 「な、なんだよ・・・?」 顎を引いて明らかに恐れている坂井の頬を両手で包む。あまり暖かくはないが、坂井はそうして触れる事で相手を確 かめようとするから、これで間違ってはいまい。 どんな酷いことを言われるかと、内心戦々恐々としているらしい坂井の目を真っ直ぐに見ながら、下村は鼻先にくちづ けた。 「花見。今度はお前が誘えよ?」 去年は俺が誘ったろ? そう言ってにっこりと笑えば、坂井は目を白黒させて驚いた。そんな風ではもうあんな顔は出来まいと得意げな気分に なる。 ほら、きちんと消えたろうと誰かに言ってやりたいのを堪えて、下村は坂井から手を引き、足元で皺くちゃになってい た上着を取り上げた。 「帰ろーぜ。こんなところに居ちゃ、風邪ひいちまう」 自分の事など平気な顔で棚に上げて、下村はさっさと立ち上がる。まだ膝立ちのまま動かない坂井の横をすり抜け た。 どこまで行っても噛みあわないのは、坂井と自分とでは考えに決定的に齟齬があるからなのだろうか。それともどちら か一方が間違った答えを持っているからなのだろうか。だからいつまで経っても、こんな風な結果しか出せないのだろう か。いつか二人の思いが、寄り添うときが果たしてくるのだろうか。 そう思えば自然と首は項垂れた。暗澹たる気分が胸を覆う。下村は悔し紛れに腕を振り、出来れば今顔を見られたく はないとその場を立ち去ろうとした。 しかし振り残した腕を捕まれて、引き戻された。今度は坂井の上に下村が伸し掛かるような体勢だ。これでは腰が痛 くてかなわないと思ったが、坂井の目がまた切羽詰ったようなものに変わっていて苦情は引っ込んだ。 「お、怒ってるか?」 こんな縋るような目をしておいて、そんな事をよく言えたものだと一瞬だが苛立った。上手く気持ちを切り替えられず 眉間に皺が寄る。しかし坂井は怯まずグイッと両腕を掴んで引き寄せられた。 「だから、許すって・・・」 「そうじゃなくてっ」 ではなんだ、と目で問い返す。坂井は目を逸らしはしなかったものの、どこか気まずそうに言いよどむ。そういった態 度が余計に相手を刺激するのだと思うが、しかし動転しているらしい坂井にここへきて冷静さを求めるのも無理な気が した。 「お前のこと、信用してねぇわけじゃないんだ。そうじゃなくて、そうなじゃくて、俺は」 捕まれた腕が痛いくらいでも、どうでもよかった。 やはり坂井にこんな顔をさせるのは自分なのか。それならばいっそ離れてしまえば、と考えてしまうのは独りよがりな 言い訳なのだろうか。 ただお前に、笑っていて欲しいだけなのに。 「坂井」 目は逸らさず、真っ直ぐに。言葉の意味が真っ直ぐに伝わるように。 下村は一瞬だけ躊躇し、しかし最早選択肢はないのだと思って口を開いた。 「よし、お前レンタルビデオ屋行って、『卒業』っていう映画借りて来い」 「・・・は?」 「お前のストーリーに、決着をつけてやる」 「決着って・・・」 「『正しい花婿の奪い方』だ!」 「―――あ・・・って、それ誰に聞いた!?」 途端に跳ね上げた目元は真っ赤に染まっていた。羞恥でそれ以外が吹き飛んだらしい。 満足して微笑めば、坂井はどうも違う意味でもう一度赤面しなおした。 「だからほら、もう行くぞ」 ぐいっと捕まれた腕ごと引き上げて立ち上がらせる大人しく従った坂井が、そのまま抱きついてきた。 「おい・・・」 いくらなんでもここでは目立つ。あまり考えていなかったが、今は立派に昼日中なのだ。下村は今更のように気付いて 辺りを見回すが、幸い花冷えの海辺にはどんな形の影もなかった。 少しずつ漣を立て始めた水面が目に入り、眼を細める。雲のない空は遠く青く、向こうで海と接している。空と海とは 限りなく同じ色なのにやはりそうして見れば境ははっきりとしていて、一見同じようであっても結局は同一では有り得な いのだと思った。 目を眇め、下村は不意にはっきりと浮かんだ答えを綴った。 坂井が常に感じている不安を、下村は上手く理解できない。 多分坂井も下村が感じている事をすべて分かっているわけではないだろう。 でも、それでも青の美しさは変わらない。たとえ同じでなくとも、青であることに変わりはないのだ。 決して交じり合う事のない青。 それでもそのどちらも間違ってはいないのだから。 坂井があの表情を見せる度、きっとこの先も下村は辛く思うだろう。分かり合えない事に坂井が苦しむかもしれない。 それでも、二人の気持ちが確かに同じであるのなら、きっと、いつかは。 「花見に行こう、下村。去年みたいに、二人で」 「ああ」 「本当あの時、俺すごく嬉しかった」 「そうか」 「でも、少し・・・・・・恐かった」 「恐い・・・?桜が?」 不審に思って顔を上げる。坂井も倣って肩口から顔を上げた。 「お前が桜に連れて行かれるかと思った」 そういえば、そんな事を言っていたような気がする。 風に散らされ辺り一面を隙間なく埋め尽くした花びらの間から見た坂井の目は、少し怯えていたように思う。 あの時は、荘厳な花の気にあてられたのだろうと思っていたが。 下村はしばし声を失い、無言で坂井を見た。その様子に坂井は身じろぎし、目を伏せる。己の失言を恥じたような様 子に、下村は痛みを感じて目を細めた。 「じゃあ、こうしようぜ」 体に回っていた腕を解かせる。坂井が顔を上げた。不思議そうな目がこちらを見返している。 「手、繋いで行こう」 手を。振り解けないよう、ぎゅっと繋いで行こう。 「そうすればはぐれないだろう?」 そう言って、微笑んだ。 坂井は目を瞠って黙り込み、しかしすぐに目元を緩めた。 「ああ・・・。そうだな。桜の道は複雑だから」 そう言って微笑んだ坂井の顔は、まるでふんわりと綻んだ先初めの桜を思わせた。 どこまで行っても溶けない、空の青と海の青を背負った花は、今はただ下村のためだけに咲いていた。 2003/03/15 終 バイク・・・。 坂井・・・バイク・・・。 |