柔らかな髪を何度も何度も撫でつける様にかき混ぜて、それでも満足がいかず坂井は溜息をついた。 陽は既に高く、けれども曇天で薄暗い。見上げても光の見えない雨の止み間は、余計に心を重くした。 「苦しいんだが」 後ろから抱え込まれて、何故か二人でテーブルとソファの間に挟まるように座っている。いい加減足の痺れた下村が 溜息混じりに訴えたが、坂井はそれをさっと無視してまた髪を撫でる。撫でられすぎて既に髪はあちらこちらを向いて跡 形もない。それに今度は大げさに溜息をついた。 「溜息をつきたいのは、こっちのほうだろ」 不機嫌さを隠そうともしない坂井の声が耳にかかる。僅かに肩を揺らして答えると、坂井は一層激しく頭を撫でた。 下村が怪我をした。 くだらない喧嘩を止めに入ったのが事の発端だった。・・・らしい。 その場に坂井は居なかったので、正確なところは今ひとつ定かではなかったが、少なくとも周りで見ていた人間の目 にはその様に写ったということだ。 時々下村は普段は見向きもしないような、そういった小さな事に目を止めては、結局自分に被害を被って帰ってくる。 それでも合理的な部分はしっかりとしていて、傷の深い時は桜内の所へ寄ってから帰ってくるのを忘れない。 そんな風に冷静ならば、どうして怪我をしないように自衛が出来ないのだと言うと、やっぱり下村は平素の素振りで適 当なことばかりを言う。大概キレて坂井が言い募れば、どうしてそんな事を坂井が言うのか分からない、というような顔 をする。 全く手のつけられないバカなのだ。 坂井がその傷を見たところで、何も感じないと信じて疑わないのだ。 しかしだからといってそういった事柄を上手に隠されてはたまらないと思うから、坂井は止める代わりの腹いせに、下 村が嫌がるような事を引き合いにだいしてこうしてわざとやってやる。 そうして少しは学べと思うのだが、やはり何度でもこうして怪我をして帰ってくる。 気に入らないことに、痛そうな素振りもあまり見せない。 それが余計に気に入らないのだ。 そういった遣り切れない思いや、腹に据えかねる不満はこうして下村の嫌がることをわざとすることで何とか解消して いるわけだが、果たしてそれが下村に分かっているのかいないのか。 どう考えても目の前の頭の中にそういった高尚な感情の関連を、繋げるだけの伝達物質が入っているかは甚だ疑問 だ。 それでもいつかは気がつくかもしれないという、儚い願いでもって坂井は今日もこうして下村の頭を撫でている。 そういして坂井が何がしかの復讐をしている間、存外下村は静かにしていることが多いので、そういう部分ではもしか したらと坂井の心を悪戯に浮き立たせたりするのだが、振り返ってこちらを見る顔を見てしまうと、そういった希望も楽 観も遠い世界の事となってしまうのは毎度の事ではあったが。 「・・・お前、俺がどうしてこんなことするか、意味分かってるのか?」 今まで聞かずにいれば腹も立つまいと、ずっと黙っていたのだが、坂井はとうとう耐え切れずに問いかけた。 下村の頭が左右に揺れ、肩に沈んだそれがゆっくりと持ち上がりこちらを振り返る。 一つ一つの動作はゆったりとしているのに、隙が無い。どうしてこう一々が素っ気無いのかと思うが、それがどうした って下村の性分である以上、坂井の身ではどうしようもない。ただ黙って見ているだけだ。 「意味」 まるで棒読みの声に、似合った目でもって下村が返した。抑揚の無い声は、平坦で厳しい。 道端に転がるチンピラ相手に好んで使うような声だった。 辛うじて見える横顔をじっと見る。差し込んだ陽のせいで幾分か眩しげに細められ、けれどもその鋭さは変わらない。 意図の読めない感情の行過ぎるのを坂井はただ見ていた。しかし下村はそれきり黙って何も言わなくなってしまった。 じっとこちらを見る視線は逸らされない。けれどもその口は頑なに閉ざされたままだ。 互いに黙り込んでしまい、それでも坂井は撫でる手を緩めない。下村は漸く考えるような色を目に浮かべ、何度か忙 しなく瞬いた。 「・・・手のひらが、かゆいとか?」 本当にこいつは、始末におえない馬鹿なのだと坂井は本気でそう思った。 全然分かってない。 お前も。 多分、俺も。 「馬に笑えと言ったところで、笑い顔は作れても、本心から笑っているわけじゃないだろう」 桜内は手元に引き寄せていた分厚い何かの本をソファに放り投げた。ボフンと重さのあまりバウンドし、そのままズル ズルとソファの下に落ちても、桜内はいっこうに頓着しない。 坂井も倣って放っておいた。 「どういう意味です?」 持ち込んだ昼飯を口に押し込むと言葉の半分は咀嚼に打ち消されたが、桜内は大楊に頷いた。そのまま一旦は煙 草に手を伸ばしたものの、一応目の前の人間が食事中だという事に気がついて手を引っ込めた。 「元々ないものは、出し惜しみも出来ないって話し」 坂井が夢中になってかきこむコンビニ弁当のプレートから、桜内はきゅうりのスティックをひょいと取り上げてポリンと 齧った。 「・・・虫になった気がするぜ」 「じゃあ、食べないで下さいよ」 人の昼食つかまえて、なんて事言うんですか。しかし坂井の抗議もどこ吹く風で、まじまじときゅうりを眺めた後、桜内 は一応全部を口に入れた。 「・・・そういう感情が元々ないって、言いたいんですか」 ゴクンとお茶を飲み下し、一息つくのと同時に呟いた。 桜内がチラリと視線を寄越す。口元は無駄にモグモグとまだ動いている。沈黙は同意で、坂井は大げさに溜息を吐い た。 「感情はあるが、自身に向かないという意味では、正しい」 足元に落ちた本をテーブルの上に拾いあげながら、桜内は面倒そうに答え、正面に座る坂井と目を合わせた。 桜内は斜に構えるというよりは、話題とは少し離れた場所を見ている様なところがある。そういう時は大抵からかわれ て終わり、ということが多い。つまりこんな風に正面から目を合わせられればそれは真剣の証で、そうなれば返って厄 介なのかもしれなかった。しかし人間の洞察力、それもある種の性質を持った人間に対する観察眼は的確で鋭く深い。 そう思えばどうにかここまで桜内を引き出した事は賞賛に値するといってもよかった。 「興味の方向性が、お前とは違うということだ。ただ厄介な事は・・・」 漸く坂井が食事を終えた事を確かめ、桜内は再び煙草を手に取った。きちんと話しを続ける意思のあることを告げて いる。坂井はプレートに蓋をかぶせてテーブルの隅によせ、お茶を含んだ。 「それを自分で自覚しているってことだ。だから無闇に確かめようとする」 「何を」 「自分の存在を」 坂井は目を瞠り、口を閉ざした。今までそうは思っても否定していた事だった。それを目の前にあっさりと広げられ、 否定の言葉も出ない。しかし桜内はそんな沈黙など初めから了承済みだと言わんばかりに先を続けた。 「自分に興味がないから、分からなくなる。確かめるために手っ取り早い方法を取るところは、如何にもあいつらしいだ ろ?」 ゆらりと何度かたゆいながら、煙が天井に向かって消えていく。桜内はそれを目で追いながら、何度か忙しなく瞬い た。 「・・・どうしてそんなこと」 漸く零れた言葉に、なんの意味もなかった。 分かっていたことだ。 どんなに思っても、あいつの位置には追いつけない。どこか超越してしまったような表情を、時々見せるその横顔は 坂井の知らない誰かの顔だった。それを見たくなくて、させたくなくてどうにかこちらに引き込もうと躍起になって。 それなのに下村は、怪我をして帰ってくる。 その度に坂井が何を思うかなど、おかまいなしに。 「でもべつに自傷行為ってわけでもないのが、面白い」 顔を上げると、桜内と目が合った。煙草は何時の間にか灰皿に消されている。白い霞が少し煙っていた。 「・・・面白い事なんて、全然ありませんよ」 大きく落ち着けるように息を吐く。抑制を欠いた感情が出ないように勤めて声は低かった。 「怒るな。そういう意味じゃない」 まるですべて分かっているというような言い方が勘に触ったが、外れていもいないせいで怒るに怒れない。桜内は一 瞬だけ口の端で笑って天井を仰いだ。中途半端な同情を受けたようで気分が悪かったが、少なくとも悪意があっての事 ではなく、表情の裏にはきちんと好意や理解がある。分かっているから坂井とて相談などとおそろしく恰好の悪い事をし ているのだ。 桜内は何かを思い悩むように何度か口を開き、閉じてから顔を坂井に戻した。 「止めさせたいのか」 「出来れば」 無理なのは最早分かっている。しかし最終的に何を望むかと言われればそれに尽きる。坂井は正直に頷くと、桜内 は何度か指先で顎を擦った。 「出来ると思うか?希望でなく」 桜内と話していると時々カウンセリングを受けているような気分になる事がある。普段の会話では気にならないのだ が、こと下村の話題に至ると、時としてそう感じる事がある。本当に時々、ではあったが。 「・・・無理でしょう」 大きく広げた手のひらで顔を覆いながら、坂井は本心を吐いた。 分かっている。それでもあれがこれ以上傷を増やすのを見ていたくはないのだ。 まるで平気な様子で、知らぬ間に血の跡をつけて帰ってくる。その度に胃の辺りが竦むような思いを味わうのはもう真 っ平だった。 「うん」 否定も肯定もしない。まるで医者のような返事に苦笑が漏れる。 桜内は正しく医者なのだから。 坂井は指の隙間から見えるテーブルの端をじっと眺め、気を落ち着ける事を最優先に引き伸ばしながら、伸し掛かる 背中の闇に耐えなければならなかった。身動きもとらずにこうしていれば、途端に暗い考えばかりが浮かんでくる。足元 から引きずり込まれるような錯覚が足首を掴んで離さない。 「だが下村のあれは自傷じゃない」 顔を上げる。桜内は真っ直ぐにこちらを見ていた。昼の最中にありがなら、しかし桜内の目はどこまでも暗く底がな い。 心の闇の切れ端を不意に見せられたような気がして、坂井は咄嗟に肌が粟立つのが分かった。 桜内の生い立ちを知る者は少なく、坂井も昔大きな病院に居たという事くらいしか知らなかった。そんなことよりも、今 の桜内とその腕の良さを知っていればそれでいいと思っていた。 人を知ろうと思う時、その過去を知る事ですべてを知ったような錯覚を起すことがある。それならばいっそ知らない方 がいいと坂井は思うのだが、しかしそれはイコール過去がどうでもいいと否定している訳ではない。 すべての過去を含めて、初めて今の知りえる人になるのだから。 「下村にとっては、べつに確かめる必要はないんだ。必要なら、自分で腕でも切れば済む」 「じゃあなんで――」 「渦中に飛び込むのか、か?」 ポツン、と窓ガラスが音をたてた。小さな水滴が浮いている。それはあっという間に増えて一面が水の流れとなり、風 に煽られた雨は騒がしく部屋を振るわせた。 「多分下村にとって必要なのは生きている証よりも、この世界に繋がっている証なんだろう。だから傷は、自分以外から 与えられたものでなくてはならない」 雨雲に遮られて日の光は室内から消えていた。暗い翳りは表情を消し、坂井はそれに少し感謝した。 理解できなければ、すればいい。訳知り顔で今そう言うヤツがいれば、間髪いれずに殴っている。傍に居たいと願っ たところで、それは即ち相手を理解している事だと何故言える?坂井が分かっている事など、そう多くはないのだから。 「くだらねぇ・・・。馬鹿だ、あいつ。そんな事」 強く瞑った目の裏で、無作法な感情が行き来する。正面から見据えられる桜内の目が恐かった。 ただ一方的にぶつけてきた感情を恥かしく思う。そうなれば翳りは痛みを伴い冷たい塊が胸を塞いだ。そう感じるの は下村に対する嘲りだ。切ないなどと坂井が言うのはただの身勝手だ。胸が痛んだところでそれはあくまで予想の範疇 で、今更理解したふりなど酷く滑稽に映るに違いない。傷を増やす事に対する一々くだらな言い訳だが、でも本当は言 い切れない。いったいどうして下村を否定できる?理解出来ないと苦しむ事と、途切れそうになる自分の存在を必死で 繋ぎ止めようとする事の、どちらがより尊いかなど誰にも分かりはしないのだから。 「俺はあいつがあんまり一生懸命だから、時々辛くなる。でもお前は違うだろう」 見れば桜内は煙草をくわえて外を見ていた。雨の勢いは風に左右されて時々緩む。隙を突いたように静かになる室 内に呟きはぎりぎりの線で坂井に届いた。 「お前なら、くだらないとか馬鹿だとか、そんな風に言いながらあいつの傍に居てやれるだろう」 気分の乗らない言い訳のようなのに、何故だか声は泣きそうだ。相槌も忘れた坂井に、桜内は自嘲気味に頬を歪ま せた。 「俺ももう若くない。一生懸命はもう飽きた」 捨て鉢な気分ではなく、しかし疲弊が少し浮かんだ横顔は僅差で勝る憂いに見えたが、しかし本心は他のところにあ るのだろう。嫉妬がないとは言わせない。誰よりも本当は分かっているからこそ、繋ぎ止める手立てを講じたいと思って いるのは易々と正解を言って見せた桜内であろうに、決してそれは言わないのだ。 「あいつが本当に欲しいものって、なんだろうな?」 ハッとして桜内を見た。相変わらずな横顔に、達観したような表情を浮かべている。何もかも見透かされているようで 座りが悪いと思いながらも、確かに分からないのだ、と思った。 「・・・俺、帰ります」 「ああ、オダイジニ」 ヒラリと片手に手を振って、外を眺める目はそのままだ。気のない素振りは精一杯の気遣いのように見えた。その横 顔に一礼し、慌しくテーブルを片付け部屋を飛び出した。 勢いの衰えない雨に視界を遮られながら、それでも視線はその向こうを追っていた。 海の真ん中で浮いている、クラゲみたいだ。 ポツリといつか下村が言った。 二人とも酷く酔っていて、浜辺を歩いて家まで帰る途中だったか。 まん丸に近い月を僕に歩きながら、海も道も皆驚くほど明るく、光は水面に反射して二人を青白く照らした。 下村は坂井の数歩先を歩きながら、余所見をして海を見ていた。辺りは静かで漣が足元まで届いては引いていく。 目を瞑れば潮騒は目前に迫り、途端に海の中にでもいるような心地になって下村に「そうだな」と返した。 下村は一拍置いて振り返り、考えるように目を眇めて「そんな感じだよな」と呟いた。 あの時の振り返った下村の顔を今でも覚えている。 笑いながら、きっと泣いていた。 お前は本当に一人きりで、周りの何者にも頼らず一人きりで立っている。 本当はあの時、お前は何を言いたかったのだろうか? 勢い込んで部屋に飛び込むと、下村は窓枠に座って外を眺めていた。雨に冷やされた冷たい風が吹き込んでいる。 外へたらされた腕が、雨に濡れて光っていた。 「・・・よお。どうした」 勝手な侵入者を咎めるでもなく下村は振り返った。以前人伝に手に入れた鍵を使って入り込んでも、その出所さえ気 にした様子もない。昼日中からぼんやりとしていた罰の悪さもないのか、座った腰を上げようともしなかった。 「何かあったのか?」 何も言わずに突っ立ったままの坂井に、下村は漸く不審気に眉を寄せたがそれきりだ。濡れた腕を拭こうともしない。 坂井は一度大きく息を吸ってから大またで窓際に歩み寄った。 「おい?」 やっと感情のこもり始めた下村のセリフは置いておく。勝手に掴んだ右腕は肘の辺りまで滴るほど濡れていた。捲り 上げた袖も肩まで湿っている。冷えた布は体温をあらかた奪ってひんやりと冷たかった。 「坂井?」 いつもは煩いくらいに口は滑るのに、今に限って言葉が上手く継げなかった。行動ばかりが先に立つ。拭うためのタ オルを探すのももどかしく、面倒になって着ているシャツで代用した。 「おい、濡れるって・・・」 ごしごしと乱暴に扱うのに辟易としたのか、どうにか腕を取り戻そうとするのにも従わず、綺麗に指先まで雨を取る。 水を含んで重くなれば布を移動し、あっという間にシャツの前面色は変えていた。 「いいって、坂井っ」 すっかり乾いた腕をどうにか取り戻した下村の顔は不安げだった。何も話さないのがそんなに珍しいのか。まるで見 も知らぬ他人を見るような目に、自嘲気味に笑い返した。 「どうかしたのか?何か――」 湿った袖口ごと引き寄せ抱きしめた。下村が息を詰めるのが分かる。驚きに背中が何度か揺れた。それを宥めるよ うに撫でさすりながら、耳元に頬をすり寄せると、小さく下村が息を吐いた。 それきり何も言わなくなったのを幸いに、ここぞとばかりにぎゅうと抱きしめる。重なった下村の体温が酷く低く、どれ ほどああしていたのだろうかと思った。 必死になったふりをして、必死な下村を知らなかった。引きとめようと躍起になって、逆に下村の手を引き剥がしてい たのは俺の方だ。 ただお前を求めるばかりで、この世界に繋がろうとするお前を、意味も分からず引きずり落とそうと。 「下村」 少し下村が首を傾げた。返事の代わりの吐息が細い。安心しようにも取れるそれに、坂井は背を撫でる手で答えた。 「下村、俺は・・・」 ごめん、もすまん、も違う気がした。下村はきっとそんな風に思っていやしない。坂井に責任を転嫁させようなどとは思 いもよらないだろう。いや、そもそも坂井が必死に行ってきた事の意味を、知りはしなかったのだから。 ざわざわと喚きだし、止まらないほどに感じる感情はなんだろうか。本心から言えば破壊の衝動に似ているそれを、 上手く言い表す言葉を知らない。もしかしたら一番近い言葉はまったくの逆の意味かもしれないのに、今はそれが正し いような気がしてならないのだ。 坂井はぐっと目を閉じ、息を吐いた。嗚咽が漏れそうになり感情が高ぶってコントロールが一切聞かない。このまま倒 れてしまいそうなほど気が高ぶって頭の中が真っ白になりそうだった。 それでも、正しいと思う。この感情の名前が、そうであると。 「俺は、お前を一生逃がさねぇ。お前が嫌がって逃げても、どこまでだって追い込んでやる」 ピクリと下村の肩が腕の中で跳ねた。目の前で口を開けていた窓を、腕を伸ばしてピリャリと閉める。湿った空気は 遮断され、漸く温まり始めた腕の中の体温はますます人のぬくもりを取り戻し始めていた。 「お前の手は、どこまで行っても俺と繋がってると思っとけ。・・・言っとくがな、切って捨てても拾って届けてやるからな」 物騒な事を言いながら、声はどこまでも甘く蕩けている。憶えずそうなっているのだが、訂正するのも馬鹿らしい。 ダラリと投げ打たれた下村の右腕を取り、手首の辺りにくちづける。唇にその肌はグラスのように冷えていた。 こちらを見ていた下村の顔が驚きに凍りついている。当然だ。 身勝手を笑えばいい。なんならこの傲慢を憎んでも。それでもそう思えばもうお前はこちら側の人間だ。 世界の端に一人でふらふら突っ立ってねぇで、さっさと俺を殴りに来ればいいさ。 「だから・・・」 ふうっと吐息のように下村が呟いた。強張った頬が痛々しい。坂井は黙ってその口元見つめた。 「だからお前は、怒るのか」 指一本のピアノのように、たどたどしいのはお互い様だ。下村はゆらゆらと揺れる目を瞬き、つかまれた腕と坂井の 顔を交互に見た。 「傷を作ると、怒るのか」 「そうだ」 「・・・そうか」 そう言って下村は俯いた。途端に隠された表情がもどかしい。瞬時に殴られるか蹴られるかと思っていた坂井は少し 拍子抜けしてその前髪の辺りを凝視した。ふらふわとして落ち着かない前髪が、鼻先をかすってくすぐったい。気を取ら れそうになってそれを吐息で蹴散らしながら、掴んだ腕も放さずに、腰に回した腕も放さない。このままいっそ閉じ込め てしまいたいのだと、諦めて白状したい気分だった。だがその前に判定を下すのは他ならぬ下村で、その肝心の下村 は俯いて動かない。落ち着かない気分はそわそわとして首の後ろ辺りが緊張で毛羽立った。 「分かった」 妙にはっきりとした口調で下村が言った。同時に顔を挙げ、坂井を見上げる恰好になる。思わず見惚れそうになって 慌てて正気を保ちながら、坂井はじっとその唇が紡ぐ言葉を黙って待った。 しかし言葉は結局紡がれず、代わりのように頬に触れたあえかな感触は、少し冷たくやわらかな下村の唇だった。 「し、下村?」 もう一度、今度はこめかみの辺りにくちづけられる。くるりと回した下村の左腕が坂井の肩を回りこみ、硬い指先が耳 朶を撫でた。触れるために見えなくなっていた目が、少し離れて目前に曝される。眩しげに細められた目は、驚くほどや わらかく潤んでいた。何も答えない唇は、微笑を刻んで結ばれている。わずかに傾げた首の辺りを、陽を含んだ様な髪 が覆っていた。覗き込むようなその仕種の艶やかさに驚き、またそうして微笑む下村に言葉を奪われる。これはどうし た事かと、ただただ坂井は絶句した。 「・・・手を繋ぐっていうのも、悪くない」 また抱き寄せられ、吐息を吹き込むように耳元に言葉が触れた。溜息のように儚く、しかし低くかすれた声は確かに 下村の声に他ならない。坂井は一瞬体中の血管が一気に竦むような錯覚に囚われ、指先が痛いほど痺れた。 「あ、赤い糸でもいいけどさ」 冗談めかして本心の哀願のような言葉を吐いて、あんまりな例えだろうかと頼りなく呟いた。下村はきょとんとしたよう に目を瞬いた。 「そういうのも、悪くない」 しかし呆れもせずそうして満足そうに微笑んだ下村の目はあの夜の顔に限りなく似ていて、でも決定的に違う何かを 含んでいた。 それがどうしようもなく愛しく、坂井はただ感極まって縋るように下村を抱きしめた。 「じゃあ、お前も、傷一つ付けるなよ?」 「下村・・・」」 「俺ばっかりじゃ不公平だ」 「分かった」 糸が切れたら困るしな。クスクスと耳元で囁かれる甘い睦語に坂井はどっと押し迫る歓喜の感情を無理やりに抑えな ければならなかった。そうしなければ、今すぐにでもメチャクチャに下村を抱いてしまいそうだった。 「もう少し、こうしてていいか?」 赤くなった顔を見られないように、肩口に下村の頭を押し付ける。下村はまたクスクスと笑った。 「・・・もう少しだけでいいのか?」 「出来れば、ずっと」 その後坂井が怪我をして帰ると、今度は下村が「いやがらせ」と称して坂井の頭を撫でまわすようになり、坂井を大層 喜ばせた。 2003/03/22 終 |