やわらかく触れた先の指が少し震えていた。 寒くないのにどうしてだろう。そんな風に考えて、理由が分からず問いかけた。するとお前は困ったような顔をして、寒 いからじゃないんだと答えたけれど、それではどうしてそんなに覚束ないのかと続けて問おうとした唇は、そのまま黙っ て塞がれた。 いつだってお前はそんな風に、俺には理解できない事を無理に押し付けたりはしなかった。 そうしている事で俺たちの間にあった危うい空気を壊したくなくて、きっとお前はそうしていたのだろうけれど、俺はそ れが少しいたたまれなくて、そしてそんなお前がどうしようもなく愛しかった。 お互いに分かり合えないことで、お前が苦しんでいる事は知っていた。 それでもどうにかお前は俺の傍に居ようとするから、俺はそれが嬉しくて、それ以上に苦しかった。 本当は、出会わなければ良かったと思う。 お前を好きにならなければ良かったと思う。 この手の中に、いっそお前を閉じ込めてしまいたかった。 激情にまかせて叩きつけられた肩がジンと痛んだ。その上縫い付けられるように渾身の力で押さえ込まれ、苦痛は勝 手に喉から呻きとなって零れいていた。それに嗜虐的な表情を浮かべればまだ良かったかもしれない。しかし坂井はそ うはせず、ただただ悲しそうに目元を歪ませ、あまつさえ涙さえ浮かべて見せた。 ずっと溜め込んだ不安や鬱屈を、こんなところで晴らそうとしているのではない事は、下村にも十分分かっていた。そ んな風に陰鬱な方法を取る男でない。どんなに非道になろうとしたところで、根本にある真っ直ぐな気性は歪めようもな く、そんなところまで徹底的に自分とは異なるのだと思って下村は大きく息を吐いた。 だからこそ、下村は坂井から離れたかった。これ以上自分がいることで、坂井が歪んでいく事が耐えられなかった。 本当は誰からも愛され、大切にされ、ただ幸福であるべき存在を、辱めるような扱いしか出来ない自分など、坂井の 傍に居る必要など微塵もない。 分かっていたはずなのに、求める坂井の要求に応じ、その特別な笑顔を占有できる悦楽に酔った。 触れる手の暖かさや、穏やかな吐息、滑らかな肌の手触りを自分一人のものにしたくて、本来あるべき姿を偽った。 今にも零れそうな涙を目の縁にためて、子供の様に許しを請うその目をこの手の中で愛したかった。 だが、そうしてはいけなかった。 拒むべきだった。 欲しがる心の無知を知って、冷淡でもいい、その手を跳ね除け、残酷な言葉を投げかければよかった。 坂井が狂う、その前に。 坂井はゆっくりと、まるで見せ付けるかのように下村の腕をロープで戒め、その端をベッドの柵へ括りつけた。 タオルを何重にも巻いた手首は、やんわりとして痛みはないが解ける気配は微塵もない。 黙々と慣例のように作業を続ける坂井を、下村はただ黙って眺めていた。 その間坂井は一度も下村とは目を合わせず、また声もない。 それなのにその目からは絶えず雫がこぼれ落ち、頬からシャツ、床に至る隅々にシミを作った。 それがあまりにも悲しく、しかし胸を痺れさせ、下村は身動き一つ出来ずにいる。 望んで離れようとした自分が、そうさせまいとする坂井に恍惚とするその矛盾と卑劣さを感じながら、やはり離れなけ ればならないのだと、下村に思わせた。 初めの変化は、微々たるものだった。 下村がホステスたちと話をしているのを嫌がる。 店でも下村を独り占めしようとする。 しかし坂井は元々独占欲の強い性質であったから、それほど気にはしていなかった。桜内あたりに揶揄られても、笑 って済ます程度のことだった。 それが段々とエスカレートし始めたのは、下村が桜内の家から朝帰りした頃からだった。 その時、坂井は一人で下村の家で帰りを待っていたのだ。 それから何かと理由をつけ、坂井は下村の家に居座るようになった。 店の行きも帰りも必ず一緒だった。 定期的な店舗巡回へ行くにも、半ば口げんかになるまで言い合わなければ、店を出られなくなっていた。 その頃一度だけ、気をつけろ、と忠告されたのを憶えている。 秋山は坂井がカウンターを離れた隙を狙ったかのように下村を呼び、小さな声でそう言った。 坂井は周りが見えなくなる時があるから、気をつけていてやってくれ、と。 その時下村は、坂井の身の安全の事をいっているのかと思って頷いた。続けて秋山は何かを言おうとしたが、坂井 が戻ったのでそのままその話題は立ち消えた。 あの時秋山は、何を言いたかったのだろうか? ぼんやりと考えていた下村の目の前で、坂井はしゃがみ込んで下村のシャツのボタンに手を掛けた。一つ、一つ、丁 寧に外していく。 下村の衣服を奪って、ここから出られなくするためだ。しかしそれにも逆らわず、坂井の好きなようにさせておく。 坂井の異常さが決定的になったのは、下村の義手を捨てようとした時だった。 それには流石に驚いて、下村は激しく坂井を問い詰めた。 あれは大切な貰い物だ。お前が勝手に扱っていいものじゃない。 そう言うと坂井は泣き出した。泣き出して、風呂場の洗濯物籠から義手を二つ取り出した。 そうして代わりに下村の靴を捨てた。残らず、全部。ベランダから投げ捨てた。 本当はあの時に、どうにかしなければならなかったのだ。 ボタンを外し終えた坂井は、今更のように戒める腕のせいで、シャツが脱げない事に気づいて暫し動きを止めた。どう するか迷っているらしい。何度かシャツとロープの先の柵を交互に見、そのまま動きを止めてまた考えている。安易に 服を破ろうとしない坂井に、下村は余計に愛しさが募り、今すぐにでも抱きしめてしまいたい激情に一瞬気が遠のい た。 しかしもう坂井の背中を抱く事も、抱かれる事も許されるものではなかった。 一度切り出した決別は、二度と翻る事はない。 下村はじっと唇を噛み御しがたい心の振幅を押さえ、坂井から目を逸らす事で何とか耐えた。 ふと、頬に触られる。 目を上げると、坂井がこちらをじっと見ていた。 この部屋に入って、初めて覗き見た坂井の目は、表面は涙に濡れ、驚くほど静かに澄んでいる。 下村はそのうつくしさに思わず見惚れ、目を逸らせなかった。 「お前が、俺だけのものだったらよかったのに。そしたら俺は」 ひゅうっと坂井の喉が鳴った。 まるで空気が漏れているかのようなそれが、泣き声だと気づいたのは後になってからだ。 「そしたら俺は」 そのまま坂井は下村の裸足の足元にかしずいた。その甲へ、恭しくくちづける。 その滑らかな暖かさに、下村はビクリと肩を揺らした。 そのままゆっくりと遡るように唇は足首を辿り、徐々に上へ昇ってくる。 そこにあるもには、期待と絶望と恍惚と苦痛と至上の愛だ。 出会わなければ良かった。 お前を好きにならなければ良かった。 永遠に語られる事のない愛の言葉は、坂井の手の中で永遠に閉じ込められた。 2003/04/18 終 |