サンジは煙草を噛んで潰しながら、どうしても上げられない視線のやり場に困ってそこへ逃げた。 サンジの質問に答えず、ゾロは無言のまま玄関へ入ってしまった。そうなればサンジはその後を追うしかなく、そうし て後からサンジがついて来ている事を承知しているはずのゾロは、いっこうに振り向く素振りも見せず、またやはり答え る様子もない。サンジはその背中に一つ、そうすることへの理由と言い訳を考えながら黙って後に続いた。 ゾロが答えないからついていく。 お前が答えないから。 そのまま二階へ上がり、自室の扉を開いて消えようとしたゾロの後を追ったはいいが、とうとうその後が続かなくなっ た。ゾロはとっくに靴を脱いで部屋の中へ上がりこんでしまった。サンジが後ろにいる事などお構いなしだが、しかし入 るなとも言われていないと、軽く自分を律し、だがそれ以上の行為がどうにも踏み出せないサンジは土間口に止まって 佇んだ。 締め切っていた室内は夏の湿気を多分に含んでむっとしていたが、しかしそれも大きく開いた窓から入り込み、サン ジの背中に抜けていく風に攫われてすぐに消えていた。夏の朝の匂いを含んだ風は清々しく、自然と力が抜けていく。 「入らないのか」 ゾロの言葉は、まるで風そのもののように、サンジの耳を掠めた。 まるで声ではないような不思議な感覚に、サンジは返事をしてもよいものか迷わなければならなかった。 「こっちへ、来いよ」 ピクンと指先が痺れた。 確かに自分に向けられた声に再び緊張する。勢いのままここまで来てしまった自分の今までの一連のセリフを思い出 し、今更ながらに動揺する。急にゾロはどう思ったろうかと心配になった。 なんか、とんでもない事を言ったような気がする。 しかし足は勝手にふらふらと靴を脱ぎ上がりこんだ。 玄関から台所、奥の部屋へ続く引き戸の前に立つと、ゾロが窓際に座って表を眺めているのが見えた。 無防備に背中を見せて座っている。風に揺れる金色のピアスが、チリリと涼しげな音をたてた。 こうしてゾロと二人きりになるのは随分と久しぶりだった。言葉を交わすことさえも。そう思えば余計に緊張は募り、頑 なに強張った頬の辺りがかみ締めた歯に痛んだ。 いくら自分の気持ちを自覚したところで、勝手の違う相手に身が竦む。 相手は如何にも男なゾロである。言ったところで気味悪がられるか、最悪信じてさえもらえないかも知れず、そうなれ ばきっと自分は笑って冗談だと言ってしまうだろう。 恐い。 ゾロはそんなヤツじゃない。相手の本気を計れないような不甲斐ない男ではない。 しかしだからといって事体が好転している訳ではない。むしろ逃げ道をすべて塞がれ、孤立無援の四面楚歌だ。 サンジはぎゅうっと両手を握り締め、ただゾロの後姿をじっと見ている他なかった。 「船、出たみたいだな」 ポツン、とゾロが呟いた。その声に顔を上げる。風に乗って甲高い汽笛がサンジの耳にも届いた。 ああ、エースを見送っているのだ。 初めて気づいたゾロの行動の意味に、サンジは知らず息を詰める。丁度ここからならば、港を発つ船影が見えるだろ う。 不意に先ほどエースが残した言葉と意味深い笑みの残像が脳裏をかすめ、青空を切り取った窓の向こうに目を馳せ た。 「ゾロ」 声は自然と突いて出た。その唐突さに逆に自分で驚いてしまう。 なんでもいい、ゾロの頭の中からエースを追い出してしまいたかった。 きっとゾロは今、エースの事を考えている。エースと過ごした日々の事。その度にかわした言葉、その声、仕種。きっ と自分が知らない二人の時間を、吹き上げる汽笛の中に見ているに違いなかった。 先ほどまで足を止めさせていた竦んだ気持ちが忽ちに消え、それよりもゾロの心を占めているエースの存在がただ 憎らしかった。 そうして今まで厳密に蓋をし、決して表に出さずにおいたゾロに対する感情が急速に自分の内を満たしていくのをは っきりと感じながら、サンジは想うほどに苦しくなる呼吸を少しでも逃すように浅く呼吸を繰り返した。 「なんだ」 棒読みの返事の中には、邪魔をするなという無言の牽制を感じ、サンジはぎゅうと眉を顰めてずかずかとゾロに近寄 った。 そのままサッシについていた腕を取り、窓の外からその関心を奪うように引き寄せる。窓枠に腰掛けていたゾロは半 分腰を浮かす恰好でサンジと向き合うこととなった。 「何でエースと行かなかった?」 答えのない問いはお互いに疲弊するだけで、かわされればそのまま逃してしまうのが常套だ。そうすればお互いに嘘 をつく事も、疲れる事もなく終わる。しかし今のサンジにとってそれは出来ない相談だった。 それを確かめない事には先に進めない。サンジは掴んだ手に力を込める。 ゾロの本意を知るまでは、引き下がるわけにはいかなかった。 気温の上がり始めた空気にあわせ、ゾロの腕は薄っすらと汗ばんでいる。しかしそれ以上にサンジの手の平には緊 張と方向性を失いそうな嫉妬で暑さとは関連の無い汗がじわりと浮かんだ。 「・・・元々エースと行く気はなかった」 真っ直ぐこちらを見上げるゾロの目は、いつもと変わらない静謐に満ちている。ともすればこちらの思惑を見透かされ そうで、咄嗟に目を逸らしてしまいそうになる弱気を叱咤し、サンジは首筋を伝う冷たい感触をぐっと堪えた。 「結婚するんじゃなかったのかよ。・・・あの朝だって、お前ら」 それ以上はとても言えず、サンジは唇を噛んで言葉を濁す。 今でもはっきりと憶えている。 半分開いたドア。何気なく覗いたゾロの部屋の中で、一つの布団の中でエースはゾロの手に恭しくくちづけていた。 思えばあの時感じた、わけの分からない腹立たしさや苛立ちは、ただ単純に嫉妬であったと今なら言える。 ゾロへの気持ちをはっきりと自覚し、認めた今であるならば。 ゾロは一瞬何を言われたのか分からない様子できょとんとし、ついでかあっと耳元まで朱に染めた。 「なっ、あ、あれは違くてっ」 慌てて舌の回らないゾロの様子が忌々しい。そうして言い訳しようとする頭の中にはエースがいる。 途端にサンジは頭の中が嫉妬で真っ黒に塗りつぶされるのを感じて、鋭く舌打ちした。 「どう違うんだよ、なあ。朝っぱらから裸で同じ布団の中にいて、手にキスなんかして。どう見たってあいつと寝ましたっ て言ってるようなもんじゃねえかよ!」 突然喚きだしたサンジに驚いてゾロが目を瞠った。言い訳のために用意された言葉は悉く四散する。サンジは自分 の怒鳴り声に触発され、余計に感情が昂るのを感じた。 「大体お前、どうしてここに居るんだよ?エースと行けば、楽しい事が待ってるんだろ?お前が望んでるような事がたくさ んよ!」 こんな風に問い詰めるために来たはずではなかったのに、口を開けば嫉妬深い男の世迷言ばかりが口をつく。掴ん だ指が深い場所から湧き上がる怒りで微かに震えた。 「お前はエースが好きなんだろう?!」 違う、そんな事を言いたかったのではない。 頭のどこかで冷静にそう思うのに、感情はそれに従わない。 しかしゾロはそうしてサンジが激昂すればするほど、余計に静かな目でサンジを見た。 「ぅわっ!」 突然胸に感じた強烈な圧迫に、声を上げてサンジは背中を床に打ち付けた。痛みに肺から空気が抜ける。何が起こ ったのか分からないサンジは慌てて目を上げると、窓枠に腰掛けたまま、片足を振り上げているゾロと目が合った。そ れでようやくゾロに蹴り倒されたのだという事に思い至った。 「な・・・」 「おい、サンジよ」 すっくと立ち上がったゾロが、サンジを跨いで立ちはだかり、こちらを見下ろしている。 静かだとばかり思っていたその目の中に、揺らぐような怒りを見てサンジは口を噤んだ。 口調は常と変わらないのに、そこには抑えきれない怒りの片鱗を覗かせていた。 「なんでてめぇにそんな事、言われなきゃなんねぇんだよ。俺が」 完全に仰向けの位置から肩を浮かしてゾロを見上げる。段々と吹き上がる様に強くなる感情の波に、サンジはゴクリ と唾を飲み込んだ。 「俺とエースの関係に、お前が関係あるのかよ?」 ゾロが本気で怒りを見せると、その様は燃え盛る炎ではなく、冷え冷えと凍りついた氷の様だとサンジは初めて知っ た。 声は限りなく穏やかなのに、口調は厳しく容赦ない。完全に暖かな感情を閉め出した目は、冷たくガラスをはめ込ん だようにサンジを映していた。 サンジは呼吸もままならず、ひゅうっと喉が高く鳴った。 「誰と寝ようと、お前には関係ない」 しかし、その言葉にサンジは瞬間的に感情が沸騰した。 「関係なくねぇ!」 こちらをひたりと見つめたままのゾロに、サンジ怒鳴るがしかし胸はますます苦しくなるばかりだ。 完全にサンジを拒絶する目は、サンジの激昂も届かず、無機質にこちらを見下ろしていた。 「・・・関係なくなんて、ない。だって俺は・・・俺は」 勢いで告げそうになる想いを、サンジは咄嗟に引き止めた。果たして本当に伝えるべきなのだろうか。ゾロがここを出 て行く引き金は、なにもエース一人ではないのだ。 もしこの一言が、その引き金になったら。サンジを拒むために、ゾロが姿を消したなら。 ぞっと背筋が凍りつく。ゾロがエースと行かないというのなら、言わない方がいいのではないか。再び胸に吹いた臆病 風に、サンジは従いそうになる。 だが、そうして自分の心を隠し、今までのようにゾロの傍に居ることが出来るのだろうか? 何もなかったかのように、ただの友人の顔をして。 そしていつかゾロが誰か一人のものになった時、自分は笑っている事が出来るのだろうか。 友人として祝福する事が。 「だって俺は、お前の事が好きなんだ・・・」 出来るわけがなかった。 静かな目がじっとこちらを見つめている。サンジは浮かした肩を再び床に落とし、自嘲に頬を歪めた。 「俺はエースに嫉妬してた。お前がエースに連れて行かれちまうと思って、今だってバカみたいに突っ走って来た。お前 に触れる奴、本当は全員ぶっ飛ばしてやりてぇくらい・・・・・・お前に惚れてる」 ごんっと床に頭を打ちつけ、苦笑いを漏らす。目を閉じて、ゾロの顔を締め出した。嘲笑も嫌悪も今は見る勇気がな い。沈黙に絶えられず、無意識に手は煙草を探して懐を弄った。 「っぐぇ」 しかし、その動作も途中で中断せざるえなくなる。 「な、何??」 驚いて目を見開く。見上げればゾロはサンジの腹の辺りにどかっりと座り込んでいた。ゾロの体重で腹が圧迫され、 呼吸がままならない。どうしてこうも予想外の奇抜な行動ばかりをとるのだと、サンジは目を白黒させた。 「俺も」 「は?」 「俺も好き」 「・・・は?」 口調は先ほどから変わっていないのに、なんだかゾロが変な事を言う。 サンジは言葉の意味を理解できず、目をぱちくりさせた。 ぽかんとしてサンジは口を開けて黙り込む。酷く落ち着いた顔をしているゾロの顔を見ていると、その顔が突然近づ いた。 そうして気づいた時には、唇にほんの一瞬やわらかな感触を感じていた。 「ぞろ」 「おう」 「ゾロ」 「なんだ」 ぼんやりしながら少し首を上げる。 ゾロはケロリとしていて、普段と変わるところがない。サンジは片手で目をごしごしと擦った。 「俺、今寝てた?」 「寝てない」 「俺、耳が変みたいだ」 「それより顔が変だ」 平然として言うゾロに、サンジは少し冷静になり、ようやく続けて起こった出来事に頭を巡らせるに至る。 ゾロが、好きと言った。 ・・・・・・・・・誰を? 「っぎゃああああ!ゾロがおかしくなった!」 「うわっ」 凄まじい腹筋で上体を跳ね上げたサンジの上から、ゾロは勢いよく弾かれ仰け反って倒れた。そのまましたたか頭を 打ち付ける。 勢いで起きたものの、それは続かずサンジはへたりと腰が抜けたように座り込んだ。 「・・・ありえねぇよ。ありえねぇ」 「何が!」 後頭部を抱えながらゾロが起き上がる。突然の暴挙はお互い様だし、サンジに謝るほどの余裕はない。 向かい合って座り込んだサンジは肩を落として呟いた。 「・・・だってそれじゃあ、俺たち両想いになっちゃうじゃねぇか!」 「そうだな・・・おぅ?」 へこんでねぇか・・・とゾロが頭を擦りながらぶつぶつ言っている。そこへサンジが突然覆いかぶさるように抱きつい て、ゾロはびっくりしたように声を上げた。 「・・・これは夢か?」 「夢でいいなら、それでも」 「い、いいわけあるか!」 肩を掴んで目を合わせる。必死の形相のサンジにゾロの動きがはたと止まり、ついでぷっと吹きだした。 「あっはっは!」 「わ、笑うなよっ」 腹を抱えそうなほど爆笑するゾロに怒鳴り散らしながら、しかしサンジは夢見心地で何度もゾロの言葉を繰り返してい た。 ゾロが俺を好きだと言った。 あのゾロが。 笑いに涙の浮かんだゾロの目が、こちらをじっと見上げている。その中にいつもと変わらぬやわらかな色が浮かんで いる事に気がつき、背筋の力がすっと抜け、自分がどれほど緊張していたのかをサンジは改めて思い知った。 「ゾロ」 「なんだ」 「好きだ」 「ああ」 「大好きだ」 「そうか」 ぎゅうっと抱き寄せる。ゾロは抵抗もせずに腕の中に納まった。 気温は上がって暑いのに、腕の中の体温はこれ以上ないほど心地よい。サンジはゾロの肩に顔を埋め、うっとりと目 を閉じた。 信じられない。しかし確かにサンジに触れているのはゾロだった。 いったい、いつから、何故。 頭の中には様々な疑問の声が呟かれるのに、それは一つとして言葉にはならず、ただゾロの肩に触れ、背中を擦 り、腰を抱き寄せた。 不意にあの夜に見たゾロが寝姿が脳裏に浮かぶ。 静かな夜の中で、静かに眠るゾロはただ触れる事の叶わない向こう側の存在だった。 理性よりも本能が望んだゾロの体温。 そっと体を離し、顔を見合わせる位置でその目を見つめた。 潤んだ目が、サンジの顔をそのまま映している。その尊さが深くサンジの心を刺し、それは甘やかさよりも痛みをもた らしてサンジの顔を歪ませた。 嬉しかった。でも、それ以上に切なさが胸をつく。 ゾロが嘘など言おうはずもない。しかしいつも感じていた予感、日常の中でふと見せる遠くを見るその目は、やがて訪 れる確かな別れを孕んでいた。 それが怖くて、ゾロに近づく事に二の足を踏んだ。無意識にその先を阻んで。 いつか来る別れに、出来るだけ痛みが伴わないように。 けれどそうして気づかないふりをして、友達面をして。いったい何を得られたというのだろうか。 きっとそうして迎える別れは、後悔と悔恨の疑念の自己嫌悪に満ち満ちているに違いなかった。 傷つく事を恐れる自分の浅はかさと卑劣さ、臆病さに吐き気がする。 後退る先は所詮一人きりの深い闇でしか有り得ないのに。 けれど今ならそんな風には思わない。 別離がやがて訪れるというのなら、その最後の瞬間まで自分はゾロの傍に在ろう。共に在ることをまず祝おう。 ゾロが望んでくれるなら、いつまでも、どこまでも。 たとえその時、この心がゾロと共に消え去っても。 自分の中に、切なさだけが残されたとしても。 「ま、嫌がられても離れる気はないけどさ」 ん?とゾロが首を傾げる。それに何でもないと微笑んで、サンジはそっとゾロにくづける。 ゾロはそんなサンジを少し笑って、どこまでも澄んだ目をやさしく閉じた。 |