サンジは困った。 嬉しくて首の辺りがうずうずする。今すぐにでも飛び起きたいのに、そうすれば夢が醒めてしまいそうでできないのだ。 サンジは困って、それでも懸命に寝たふりを続けた。 心地よい風が頬をくすぐる昼下がりだ。 サンジは船尾の甲板を陣取り、左腕を枕に寝転んだ。 昼食の片付けも済ませ、おやつの用意も済ませてある。 ラウンジの裏手にあたる壁の影が、丁度日陰を作り出し、そこへ頭をずらしながら寝床を定めた。 普段あまり昼寝などした事のないサンジではあったが、心地よい風と穏やかな気候に誘われて外へ出た。ルフィとウ ソップは例によってどちらがより早くエモノを捕まえられるかの釣り勝負、チョッパーは倉庫で薬の調合、ナミとロビンは 船首でパラソルを開いて読書をしている。飲み物は先ほど供したので、これ以上話かけて読書の邪魔はしたくない。ゾ ロの姿は見えなかったが、大方そこらで寝ているのだろう。サンジはぐるりとラウンジ前から見渡せる範囲に散らばるク ルーを見やり、珍しくほぼ全員船の前方に集まっているのを確かめてから、船尾へ向かった。もちろん昼寝のための静 寂を得るために。 ふとサンジは目を覚ました。 誰かに呼ばれたような気がしたのだが、耳の辺りは静寂に包まれている。意識は半分眠りについて、頭はまだぼん やりとしたままだ。普段は起きると同時に意識ははっきりとするのに、心地よくて意識は弛んだ。 空気は澄んで心地よく、丁度良い風が吹いて申し分ない。 意識が段々と深層から表層へ浮かび上がるのがわかる。それと同時に、サンジは体を硬直させた。 誰かが髪に触れている。 本当に微かに、触れるか触れないかというような、やさしい仕種で何度も穏やかに髪を撫でている。 サンジは誰だろうかと気を配り、目は閉じたまま意識を凝らした。 その手はサンジの髪をなでながら、時々頬にかかった髪や、額を隠す前髪をそっと指先ですくい上げ、まるでサンジ の眠りを妨げないよう工夫しているように取れる。 そうしてまた同じように髪を撫でる。 その動きはうっとりするほどやわらかく、また眠りを呼ぶように穏やかで心地よい。 サンジは目を閉じ、呼吸も穏やかに眠っているときと同じ間隔を保ったまま考えた。 釣りをしていた二人を思い浮かべ、瞬時にそんな訳がないとまず打ち消す。もしチョッパーなら手の感触が普通と違う のですぐ分かる。ではナミかロビンだろうと考えて、しかし、とサンジは鼻の下が伸びそうになる思考を一時止めた。こう する根拠がみつからない。どう考えてもそっと忍び寄って頭を撫でてくれるタイプには思えない。 でも。 でもそれ以上に、最後の可能性は有り得ない。 有り得ないと思うのだ、が。 頭を撫でる手はゆっくりと、なおサンジにやさしく触れている。それは本当に心地よいのに、サンジは段々と自分の首 の辺りが強張ってくるのが分かった。 触れる指先の感触が、時々きちんと触れてくる。その憶えのある感触に、サンジはますます緊張した。 脳裏に鮮明に浮かんだ指先は、途端にその持ち主を描いて余計にサンジの動揺をかった。 少しかさついていて、それなのに時々驚くほど繊細な動きを見せる優しい指。 ほんの少し触れるだけで、胸が苦しくなるような痺れをもたらすあの指先。 大好きなゾロの指。 この手が確かにゾロのものであるということを確かめたい。けれどもここで起きてしまえば、途端にその手は離れるだ ろう。両立しない願いに悩み、どうにも出来なくなってサンジは困った。 本当にゾロだろうか。まさか。 間違っていた時の落胆を思えば、安易な想像は憚れて、サンジは浮かれた考えを必死で打ち消そうと思うのに上手く 行かない。 しかしそう思う間に急に頭に触れていた感触が遠のいた。近くに感じていた気配が、ゆらりと揺れるのが分かった。 行ってしまう。 離れようとする気配に、咄嗟に腕が動いていた。目は閉じたまま、でもまだ指先がすぐそこにあることは分かってる。 サンジは今度こそ戸惑わずその指を掴んだ。 ああ、やっぱりそうだ。ゾロだった。 剣をいつも握っているせいで、その指先は平らにならされている。放っておけば平気で深爪をするので、サンジはい つもその爪を丁寧に切ってやらなければならなかった。 手の中の指は少しだけ引くような動きを見せたが、それでもサンジが放さない事が分かったのか、そのまま諦めるよ うに動きを変え、離れようとしていた体が傍へまた戻るのが分かった。そうして逃げずに居てくれた事が嬉しくて、サン ジはお礼の代わりに一度ぎゅっと握ってから、その手を素直に開放した。こうしてゾロの方から触れてくれる事事体が 稀有であるのに、これ以上ここへ留めようとしたところで怒らせてしまうだけだろう。折角の穏やかで幸せな気分を壊し たくなかったサンジは、大人しくゾロの邪魔をしないよう、勤めてその意思に従った。 しかし離れてしまうだろうと思っていた気配はそのまま止まり、頭の辺りでじっとしている。 ゾロと分かっているから、今更姿を確かめるつもりはないが、ただ今どんな顔をしているのかだけは見たいような気が した。 不意に強く吹いた風が、荒々しく髪を乱した。目を閉じていても自分の髪が荒らされ、その先が顔にかかるのがわか る。鼻先を掠める幾つかの糸がくすぐったい。しかし声を殺してゾロの気配を読んでいたサンジは、それを払う些細な 動作もしたくなくて、ただじっと乱されるままにしておいた。すると顔の近くに体温を感じたかと思うと、もう髪はやわらか な仕種で払われていた。そっと壊れ物でも扱うような仕種に胸が詰まる。指先が語るゾロの言葉を残らず聞き取ろう と、サンジは耳を凝らした。 ゾロが好きだ。好きで好きでたまらないと思う。 ほんの些細な言葉の力を借りて、サンジはそれをゾロに伝えた。そうして許しもなくくちづけた。 その時ゾロは怒らずに、けれど答えもくれずにただ笑った。それを見れば嫌われていない事は分かったけれど、しか しその後も明確な答えは与えられず、未だにこうして二人の間は曖昧なままだ。本当なら今すぐにでもこの手を捉え、 その体を引き寄せ抱きしめたいと思う。しかし結局許しも得ずにそうする事は、サンジには出来なかった。 魔獣だなんだと呼ばれていても、本来のゾロは気の優しい慈悲深い男だ。 たとえ理解出来なくとも、真剣な想いをあざ笑ったりしない男だ。 時折ゾロがサンジに向けてくる、戸惑うような視線を感じていた。知っていてサンジは振り返らなかった。その目を見 れば、今すぐにでも答えが欲しくなる。そんな事をして安易にゾロを困らせたくなかったのだ。 ゾロはやさしい。 サンジが求めれば、あるいは憐れと思い、ある程度の譲歩はしてくれるかもしれない。 しかしそうして一方的にサンジが求めれば求めるほど、本当に欲しかったものは離れていくのだ。 しっかりと目を閉じ、普段から気配を殺す微かなゾロの空気を胸の奥にしまいこむ。 ゾロのやさしさは時に残酷で、やわらかく容赦がない。 裸の目で訴えるサンジの祈りを無下に出来ないやさしさは、余計にサンジを苦しめた。 同情はいらない。哀れんで欲しいわけじゃない。 ゾロの本心からの言葉が欲しい。 目を瞑り、息を止める。今にも飛び出しそうな哀願を喉の奥でかみ殺した。 奥歯をかみ締め強張った頬を、暖かな感触が包み込んだ。風が遮られた頬に、僅かな体温がこもって頬を暖める。 ゾロの手は体温が高く、暖かい。 サンジは動かず、じっと息を殺した。 その手は暫く頬に留まり、やがて触れるか否かの微妙な加減でソロソロとサンジの頬から額、頭、耳、首筋、そうして 肩までに触れそのまま離れた。触れたところすべてに目印のように体温が残る。サンジはそれでも動けず、未だに感 触の残るその箇所を頭の中に思い描いた。 ゾロが触れた頬、額、頭、耳、首筋、肩。閉じた目の裏側に、見る事のできなかったゾロの顔を思い浮かべる。しかし それは結局うやむやのうちに闇に消えた。 ゾロの気配が、不意に大きく動いた。今度こそ決定的に離れる気配を感じてサンジは咄嗟に目を開く。 ゾロは立ち上がりこちらを見下ろしていた。 その目は今まで見たこともない春の日の光に満ち、そこから滲む愛おしさにサンジは言葉を失った。 「お前に触りてぇと思うよ。お前の傍に居たいと思うよ。・・・多分」 「た、多分って・・・」 サンジは慌てて体を起した。ゾロが一歩後ろへ下がる。それを追う様にサンジは這いずってゾロの足元へ手を伸べ た。 「それって、どういう意味・・・」 「サンジー!!」 びくんっとゾロの肩が揺れた。咄嗟に声のした方へ目を向ける。 ルフィが階段を駆け上がる姿が見えた。 「おやつー!!」 今度はウソップとチョッパーとの合唱でピーピーがなる雛鳥に舌打ちする。 折角いいところなのにっ! ゾロは振り返ってルフィの姿を認めると、さっと踵を返してサンジに背を向けてしまった。なんの迷いも余韻もない潔い 背中にサンジはあ・・・と名残惜しく手を伸ばすも容赦がない。結局今の言葉の本意も確かめられず、サンジはがくりと 肩を落として俯いたその時、その会話が耳に入った。 「なんだーゾロ?顔真っ赤だぞー。飲みすぎか?」 「・・・・・・うるせぇよ」 すれ違いざまにゾロとルフィが交わした会話に、勢いよく顔を上げる。ゾロは階段を下りて丁度姿が眼前から消えると ころだった。 「なー、サンジ。おやつ」 へたり込んだサンジの目の前に、ルフィが覗き込むように座り込んだ。 |