なんか奇妙に視界がキラキラしてるな、と思ったら貧血だった。 どうも栄養失調だったらしく。 「馬鹿かお前はっ!」 いきり立って診療室に飛び込んできた坂井は、開口一番そう怒鳴った。 目がつり上がって頬が紅潮している。額には薄っすら汗をかいていた。 「まぁまぁ、落ち着けよ坂井」 びっくりしたのは同じだが、桜内の方が立ち直りは早かった。もしかしたらこういう展開を予想していたのかも知れな い。 「落ち着いてますよっ」 怒鳴りつける一歩手前で、どうにか息を逃して堪えている。それをぼんやりと見ながら下村は診察室の奥に置かれた ソファから目だけを上げた。 「で、なにやってんだよ。お前は」 じろりと視線を投げかけれられて、肩を竦めてやり過ごす。いつもは大抵それで済むのだが、今日に限って坂井は見 逃すつもりはないようだった。 「ちゃんと飯、喰ってなかったろう」 横合いから桜内が口を出す。適当な言い逃れを探していたのに先手を取られ、下村は毛布の中で舌打ちした。 「・・・お前今、舌打ちしやがったな」 誤魔化すつもりだったな、とそれさえも聞き逃さない坂井に、余計に面倒になって目を逸らすと突然顎を掴まれた。 「お前、自己管理も出来ないのか」 「・・・飯はちゃんと喰ってる」 強引な仕種にむっとして見上げると、下村以上に不機嫌な坂井と目が合った。 いつもの無表情とはまた違う、冷酷な感じのする黒い目が、じっとこちらを見据えていた。 「でもお前の血、プカプカ浮いちまってるぜ〜」 軽すぎるんだよ。と場の雰囲気もわきまえない、暢気な様子で桜内が追い討ちをかける。 こめかみの血管がぴくりと動いたが、確かに貧血を起こしたのは確かなので、下村を言及しなかった。 「女でもねーのに、何で飯喰ってて貧血起こすんだよ」 どかりと患者用の丸イスに腰掛け、坂井が盛大な溜息混じりに罵った。無意識なのか懐から煙草を取り出し、しかし すぐにハッとしてそれをまたしまった。 「外食ばっかりしてるのか?」 しかしこちらは気にする様子もなく煙草を銜えた診療所の主が、面白そうに二人を見比べた。憮然とした様子の坂井 と、無表情な下村の取り合わせが気に入ったらしい。これはおもちゃにされるな、と思ったが、またしても下村は大人し く口をつぐんだ。 「いえ。あんまり外食好きじゃないんで」 「へー。自分で作ってるのか。・・・たとえば何を?」 坂井がじっと押し黙ったまま、桜内にも下村にも視線を寄越さず、ずっと窓の外を眺めている。しかし無関心という風 ではなく、むしろその先を聞きたくてうずうずしているといった風情だ。その証拠に、足先が先ほどから細かにステップを 踏んでいる。 「・・・わかめ、とか」 「わかめ?」 「豆、とか」 「・・・だから、それのどんな料理なんだよ」 わかめだったら味噌汁とか、サラダとか。豆だったら煮物とか。あるだろう? 流石に不審気な様子で桜内が先を促す。下村は良く分からず、枕代わりのタオルの上で、何度かもぞもぞと頭を動 かした。 「だから、わかめはわかめですよ。豆は生だと硬いから、お湯でふやかしますけど」 「・・・・・・ちょっと待て」 そこで初めて坂井が口を開いた。まるで地底から響いてくるような限りない低音ボイスに、桜内が後ろでぎょっとして いる。これは良くない前兆であると、下村より桜内の方が付き合いが長い分良く分かっているのだ。 「まさかお前、それしか食ってねぇとか言わないよな?」 「・・・?それだけ喰えば十分だろう?」 「おいおい、まさか米も食ってないとか言うなよ?」 あはは、と桜内がチラチラと変な視線を下村に寄越すが、一向に意味の分からない下村は「は?」とかえって不思議 そうに首を傾げた。 「別にわかめでお腹いっぱいになりますよ」 何を言っているのだと訝しげな視線を返されて、下村に届くはずもない的外れな桜内の努力はあっさり捨てられた。 「お前・・・信じられねぇ・・・・・・」 呆然とした様子で坂井は下村を見た。しかし当の下村はそんな視線の意味など分からない様子で、不思議そうに坂 井を見返している。桜内は煙草に紛れて溜息を吐いた。 「あーつまり、アレだ。お前は一日わかめしか食わない日があると。食事は腹がいっぱいになればそれでいいと。つまり そういうわけだな?」 今更確かめたくもないが、話を振った責は自分にあろうと、ささやかな責任感で桜内は下村の顔を窺った。 「何を言ってるんですか。酒は飲みますよ」 その時、桜内が心の中で「神様・・・馬鹿がいます」と祈りを捧げたかどうかは定かではないが、とりあえずその場にい る下村以外の二人が、明らかに世を儚んだのは確かだった。 三十路に手が届く年齢の男が、一日わかめしか食わないというのはどういう事か。それもそれなりの収入は得ている はずである。金がなくて食えないのなら未だしも、これは面倒で喰わないという最も性質の悪い部類だった。 「お前・・・もう少し人間らしい生活をした方がいいぞ・・・」 ここまで来ると呆れを通り越して憐れを誘う。 下村の場合、左手が使えないからと自炊を億劫がる理由は安易につけられる。がしかし、それ以前に食事をする気 がないのは明白だった。 とりあえず空腹に腹が鳴らなければそれでいい、くらいの考えだ。 「・・・信じられねぇ。マジでお前信じられねぇよ・・・・・・」 あっけに取られて黙り込んでいた坂井が、俯いて呟いた。何故か声は泣きそうだ。桜内にはその心情が理解できた かもしれないが、下村は到底理解できない。少し加減が良くなったのか、下村はゆっくりと背もたれに手を掛けて起き 上がった。 「おい、もういいのか?」 それにすかさず声を掛けたのは坂井だった。入ってきた時の勢いは既にない。声には疲れが滲み出て、少し年をとっ たようにさえ見えた。 「ああ、大丈夫だ」 そのままソファから足を下ろし、丁寧に毛布を畳んで横に避けた。その上に枕代わりのタオルを置く。端に置かれた 靴を履くと、もういつもの超然とした下村そのものだった。 「・・・下村」 「なんだ?」 パーテーションに掛けてあった上着を手に取り、袖を通す下村の背中を坂井はじっと見た。シャツ越しにぴんと張った 背筋に薄く乗る筋肉の動きがよくわかる。忽ちに隠されてしまったそれに、坂井は改めて溜息を吐いた。 「・・・なんでもない」 肩を落として、イスの上で蹲るように沈黙してしまった坂井を、下村は至極不思議そうに見ている。それを心持少し離 れて眺めながら、桜内には坂井の伏せられた言葉がなんとなく分かり、同情を禁じえない。 本当はずっと、坂井が下村の日常に手を伸ばしたくて仕方がないと思っているのは知っている。 それでも今までもどうにか押し留めていたのは、下村が一人で何でも器用にこなしていたからだ。それが崩された今、 多分その事を坂井は言いたかったのだろうと思ったが、桜内にはそこまで踏み込む勇気も権利もなく、ただ黙って後ろ で面白がっているしかないのだった。 「とりあえず、米食えよ。米。それから肉」 今にも帰りたそうにしている下村の腕を取って引き止めながら、桜内はそう忠告をした。 「わかりました」 どこまで守られる分からない約束だが、一応の確約を得て桜内は手を離した。貧血まで起こしておいて、これ以上無 自覚を続けるわけにもいかないだろう。おせっかいは坂井が焼く。これ以上踏み込みのは躊躇われた。 「ほら、坂井。送ってやるんだろう」 どんなに怒って飛び込んできても、結局はそのために坂井が来るのである事は分かっている。その都度わざわざ坂 井に電話を入れている桜内は確信犯だ。 「・・・どうも」 項垂れたままの言葉を残して、坂井は出て行った。その後を黙って下村が一礼した後追っていく。 それを見送りながら、これは坂井の忍耐如何で結果が決まるのか、それとも案外下村はすべてお見通しなのかと、 行く末を思って本日最後にしたい溜息を吐いた。 (2003/06/03) 終 |