あっという間に空を覆った群雲は、叩きつけるような雨粒で中空を遮った。 一つ一つがあたかも檻のように視界を遮り、その中を駆ける二つの影を捕らえるように激しく追い立てた。 「おいっあそこ」 真っ直ぐに指差した先には、浜辺にみすぼらしく打ち捨てられた小屋が建っている。 それに頷き、靴に絡まる重々しい砂の塊を踏み分けて先を急いだ。 「あー、最悪。ビショビショだぜ」 「ああ」 軒先に逃げ込むなり不平を漏らした坂井に頷き頭を振る。髪の先から細かな粒が舞い落ち、乾いた板塀にシミを幾 つか作った。 「おい、冷てぇよ」 跳ねた雨粒に坂井がまた不平を漏らす。今度はそれを軽く無視し、下村は足元の泥を跳ね上げる水しぶきから逃れ るように建物の奥へと入り込んだ。それ以上何も言わず、坂井もその後に続く。奥といっても簡易に作られた建物に奥 行きはそれほどなく、見ればそれは幾つかに個室を区切った行楽シーズン用のシャワー小屋だった。 「まさか湯は出ねーだろうな・・・」 下村は個室の一つに入り込み、何の期待もなく蛇口を捻った。足元の水道管がごぼごぼと不吉な音をたてている。し ばらくそれを見ていると、突然ざあっと上から水が吹き出した。 「うわっ」 「・・・なにやってんだよ」 当然そうなるに決まっているのに、シャワー口から水が出たからといって驚いている下村に、後ろからその様子を腕 を組んで見ていた坂井が呆れたように呟いた。 上からは錆びの浮いた水が注ぎ落ち、下村は閉口して避けるように仕切りの板塀に体を貼りつかせた。 「・・・温かいじゃん」 坂井が驚いたように声を上げる。下村はただ黙ってじっと注ぐシャワーの口を見ている。 確かに水は段々と湯気を上げ始めていた。 「プロパン、残ってるのかな・・・」 前髪から伝った雫が目に入って少し沁みる。それを瞬く事で払いながら降り注ぐ湯の中に手を差し伸べると、突然の スコールに体温を奪われた肌に、じんわりと暖かさが広がった。 「物騒な・・・」 「確かに」 再びシーズンを迎えるまでの間、放置されたままだった事に下村は眉を顰めたが、しかしそのお陰でこうして冷えた 体を一時でも温められるのならば、それは僥倖であったろう。だが危険な事に変わりはない。坂井は苦笑を漏らし同意 した。 「浴びないのか?」 赤錆の水は今や完全な温水へと変わっている。それにも関わらず下村はまだ板塀に貼りついたままで、湯はただ太 ももの辺りまでを濡ら過ぎず、いっこうに動こうとしない。 「あ?ああ・・・」 ぼんやりしていた様子で下村は頷いた。また上の空かと思うが、しかしそれもいつもの事で気にするほどのこともな い。ようやく湯の下に体を曝した下村を後ろから見ながら、坂井は小さく溜息を漏らした。 坂井が下村に気持ちを伝えたのは、月の初めの頃だった。 気象庁が入梅の宣言をした直後だったと思う。 坂井はいつものようにカウンターで閉店の後始末をし、下村はホールを点検していた。 ギリギリまで落としたホールの明かりの下で、浮き上がるようにぼんやりとした輪郭で下村が立っていた。手にはめた 手袋ばかりが鮮やかに際立ている。そうなれば余計に下村の影は気配を薄め、今にも傍らの闇に溶け込みそうな風情 に坂井は急に胸を詰まされた。 名を呼べば下村は振り返り、もう一度繰り返せばスポットライトの下から下村は坂井の居るカウンターの方へと抜け 出した。ゆっくりと近づく下村を待つ間、手のひらに汗をかくような緊張を感じ、坂井はもう後戻りなど出来ないのだとい うことを、そこで初めて悟ったのだった。 だから言ったのだ。真っ直ぐ正直、隠さずに。 勢いのついた湯を頭から被り、下村はまた忽ち体中をずぶ濡れにさせた。 少し俯き加減の後頭部に湯が打ちかかり、水勢で露になった首筋からすっかり肌の透けた白いシャツの張りつく背中 へと流れている。 それを後ろから眺め、坂井はゆっくりと組んでいた腕を解いた。 トタン屋根を叩く雨は勢いを緩めず、風に煽られる度に角度を変えて多彩に雨音を彩った。足元にひかれたスノコの 下では、湿った砂が黒々とし、その合間をくぼみを求めて水が流れいてる。 下村は先ほどから何も言わず、また動かずにただ湯を浴びている。重たげに項垂れた首は、眠っている様でもあっ た。 「下村」 ザンザンとトタンの雨鳴りが煩い。同様に下村の肌を打つシャワーも恐らくはその下にいる者から聴覚を奪うだろうと 思った。 しかし実際に返事がないことは覚束ない。 それでもしばし坂井はその背中から返事があることに期待し待った。だがすぐに打ち破られて、結局は勝手に気を沈 めて手を伸ばした。 土砂降りの中に腕を伸ばしたように、正直な水の重力に腕が僅かに下がった。しかしそれでもその先にあるものから 目を逸らす気もなく、坂井は下村の左肩に手を置いた。 肩越しに振り返った下村はまるでその手に初めて坂井の存在を知ったかのような、また感情のこもらない目で坂井を 見た。 水を含んだ髪が、頬や額に貼りつき、完全に体をこちらに向けた時には、完全に目元を隠してしまった。 「・・・浴びないのか?」 今度は下村が発した先ほどの鸚鵡返しの問いかけに、坂井はただ沈黙し、そのままゆっくりと歩みを進めて倣うよう にシャワーの下へ体を曝した。 途端に耳元で甲高くなった水音に、視界までも覆われる。 目前にせまった下村は微動だにせず、ただこちらをじっと窺うようにしているだけだ。 なんの動揺も感じさせないそ の様に、坂井は途方にくれて眉を顰めた。 「坂井・・・?」 呟きに目を細める事で答え、それが合図であったかのように下村の背後へ手を伸ばす。 そのままきゅっとシャワーの栓を締めた。 ぽつん、と雨だれを落として湯の気配は途端に掻き消えた。残された雨音は余計に勢いを増したように思える。 余す事無く全身を覆った暖かな気配が、体中から消えないうちに、坂井は怯えさせないような仕種で下村の頬を手で 擦った。 濡れたままの前髪をかきあげると、真っ直ぐにこちらを見る下村の目が露になった。それをじっと同じように正面から 見つめ、薄暗い区切られた空間の濃度を上げた。 ゆっくりと瞬く度に、睫から転げ落ちる雫が、時折残された光にキラキラと光った。髪の先から忙しなく垂れ続ける残り 水が、頬から顎を伝って首筋を流れていく。 下村はただ目の前で沈黙し、窺う様にも何も考えていない様にも見える目でこちらを見ている。その中に答えを求め ながら、しかしその一方で確かに感じる幸福な感慨を込めて、坂井はそっと初めてのくちづけを落とした。 下村はやはり静かな表情のまま、しかし赦すように目を閉じている。それに浮き立って胸を締めつけるような昂りを感 じ、それを沈めるように息を整え目を細め、瞬いて伏せられた下村の目蓋にくちづけ、頬を辿り、もう一度触れるだけの くちづけをした。 「・・・お前、冷たいな」 吐息に溶かして下村が囁いた。触れるほどの近さで開かれた目と見つめ合う。 不意に上げられた下村の指が、坂井の唇に触れた。そこで初めて坂井は自分の体が冷え切っていた事を思い出し た。 「あ・・・悪い」 折角温まった下村からまるで体温を奪うように身を寄せいていた事に気づき、坂井は咄嗟に身を引いた。しかし下村 は口元だけで微かに笑うと、坂井の体を捕らえて今度ははっきりと笑った。 「いい。大丈夫だ」 雨音に溶け込むような微かな呟きは、心を潤すほどの感情に満ちている。漏らした吐息の熱さを確かめるように、坂 井は下村を抱きしめた。 シャツに滲みこんだ湯の名残が、また段々と冷えるうちに体温を奪う。 初夏にも届かぬこの季節に水浴びはまだ早かったが、まるで生まれて初めて暖かさを知るような、微かに伝わる体 温は深く坂井を満たし、暖めた。 突然のスコールはスクリーンの様に二人を隠し、雨はまだ続いている。 (2003/06/10) 終 |