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 どうしようもなく愛しいと感じた時、涙が零れた。
 頬を濡らす生暖かい感触に驚いて、頬を擦った。けれど後から後から止め処なく溢れる涙に、もう最後には諦めてし
まった。

 好きだ。好きだ。どうしようもなく好きなんだ。

 いつだってその背中に語りかけ、けれどもそれは永遠に届かない祈りのように置き去りにされた。


 ホールの真ん中に下村が立つ。
 ぴんと背筋を伸ばし、体にぴったりと合ったタキシードを難なく着こなした様子はまるでこの場所の支配者のように見
える。
 しかしそんな傲慢さを、白い手袋が素っ気無い無関心で打ち消し、言葉少なの笑顔が花を添えている。
 ホールの照明は隣のボックスがはっきりとは見えない程度に暗く、気軽にボーイを呼べるくらいには明るい。
 穏やかなざわめきに、ブラディ・ドールは今日も花盛りだ。
 その間を下村は静かな所作でスルリと歩く。
 その姿を坂井はいつもの様にカウンターから眺めた。
 不意に視線を感じて目を上げると、少し離れた位置からこちらを見る下村と目が合った。
『どうした?』
 窺うような言葉を語る視線に、坂井は下村以外には気づかれない程度に口の端を上げてみせる。
『なんでもない』
 気にするな、と目で答える。それに下村は暫しじっとこちらを見ていたが、やがて目を伏せる事で『そうか』と返した。
 そのまま横合いからかけられた声のままにボックス席の方へと行ってしまった。
 
 分かっている。
 時々ホールのすべてに目を行き渡らせているつもりが、いつの間にか下村ばかり見てしまっている事に。
 


 また哀しい気分になる予感はあった。


 目の淵で揺らいで今にも溢れそうになる感情を、今か今かと待ち望み、その一方でそうなることを酷く恐れている。
 隣に座って黙って酒を飲む、肩の辺りが無防備だ。
 それは許されている喜びと、いっそ試されているような無限の地獄を感じ、もしここでその信頼を裏切るようなことがあ
れば、すぐにでも切り捨てられるのだという潔さがよけいに恐怖をかきたてた。

 どうしようもなくな胸が痛くて眠れない。どうにかしてくれよ。

 無言の抗議が通じるはずも無く、しかし通じてしまえばそこで終いになる。そう考えればまた何も言えなくなるので堂々
巡りだ。
 手足に回ったアルコールのだるさに、もはや逆らうのも疎ましく、このまま寝てしまえ、朝になってしまえと願った。
「おい」
 肩に触れる大きな。無造作に揺する振動に目が覚めた。一瞬現状が理解できずにぼんやりとする。顔を上げた先に
は見慣れた酒棚があり、自ら細心の注意と懇切でもって磨きかげたグラスが並んでいる。ああ、カウンターでそのまま
眠ってしまったのかとその時点で合点がいき、横を見れば呆れたようにこちらを見る下村と目が合った。
「寝るなら家に帰れよ」
 引き止めているわけじゃないとその目が言う。そんな風にいとも簡単にこの身を切り捨てる残酷さと、気づかれていな
い安堵に胸が同時にざわめいた。まだ肩に触れたままの手ばかりが気になり、上の空でぼんやりとその目を見返す。
そこにはこうしてその目を見返すことを、まだ許されている自分が映っていた。
 仕事の後の一杯を、ここのところ連続で続けていた。
 そうやって少しの間でも二人で居られることを嬉しく思う。他愛もない会話を交わし、他の誰でもない自分に向かって
笑う下村に、愛しい気持ちは増すばかりだ。
 しかしその一方で苦しい気持ちはどうしようもなく、そうしていつまでも相反する感情に繰り返し翻弄され、混乱は深ま
るばかりだ。
 何気なく触れるその瞬間瞬間さえも、寄せては返す漣のように陰陽を行き来する心の様はいっそ滑稽だ。分かっては
いても、どうしようもなかった。 
 手はまだ肩に触れている。
 残された生身の手は、硬く筋張っているのに、その動きは驚くほど細やかでやわらかい。思うほど触れることの叶わ
ないその感触を、想像しては頭の中で思い描き、しかしそうしたところで本当に触れることなど出来はしないのだと思う
と、いっそう惨めな気持ちは胸に深い穴を穿った。
 この感情が、どこまで進んでも結局は行き止まりであることは承知の上だった。
 害意のない相手には無害な男である。
 このまま何の問題もなく、同僚である立場を厳粛に守り通せば、あるいは下村の中にある種の特別な地位を築くこと
は可能だと思った。 しかしそれは坂井の望んでいるものとは程遠く、ある意味全く相反する位置であるといってもよか
った。
 友情、信頼。そういったもの。
 坂井と下村の関係を、唯一人の人間が繋いでいるなどという言い訳は、誤魔化し以外の何者でない。
 坂井にとって、下村との間に介在するのは、もっと直接的で感情的なものだと言ってよかった。
 そんな事を認めてしまえばあっけなく、簡単であるのに最後の一歩を踏み出すことができないのは、今こうして下村の
隣に座る権利を返上することが出来ないからだ。
 下村の情に縋ることはまず不可能だ。
 そもそも下村が坂井に対してどのような意味でもってしても、情を持っているかどうかすら疑わしい状況で、それをあ
えて試すことなど出来るはずもない。
 しかしこのままこの気持ちが枯れるまで、何食わぬ顔で果たして下村の隣に居座ることが可能かと言えば、それも大
分低い確率の話でしかなかった。
「どうした」
 じっと見つめたまま視線を逸らそうともしない坂井に、下村は平素の無表情のまま問いかけた。真正面から視線を合
わせる事に戸惑いのない真っ直ぐな目に、居心地の悪さを感じていいのか、それとも素直に喜ぶべきなのか坂井は判
断つきかね、ただ逸らすことも出来ずにいる。このままで居ればいつまででも、ずっと見詰め合ったままになってしまうと
思うのに、心は無責任に浮き立った。
 そういったほんの小さな繋がり一つ取り上げては、喜ぶ自分に嫌気がさす。もしこんな事を目の前の男が考えている
などと知ったなら、下村はいったいどんな反応を示すのだろうか?
 知りたい。しかし知ったところで何の慰めにもならず、また知ればそれが最後の瞬間になるだろう。
 そうして結局は堂々巡りの感情に悩まされ、しかし一時でもその目の中に映る自分に酔いしれるくらいの余裕は保ち
ながら、坂井はじっとただ下村の目の中を見つめ返した。
「・・・変なヤツ」
 そう言って、下村は小さく口元だけでも微笑を作ると、珍しく下村の方から目を逸らして正面へ視線を戻してしまった。
それが少し意外なような気がして、坂井はそのままその横顔を見ていた。
「ホント、変なやつだよ。お前は」
 そう言って自嘲気味に笑った下村が何故か酷く苦しそうに見えて、坂井は息を飲んだ。
 下村のそんな顔を見るのは初めてだった。
 初めてこの街に現れた時。
 命の長くない男に女を寝取られたと知った時。
 坂井を天使と呼んだ時。
 左手を失った時。
 その女が死んだ時。
 どんな時でも、下村は驚くほど冷静で、信じられないほど質素な表情で目を伏せた。
 それなのに何故、今そんな顔をするのだろうか。
 意味が分からず坂井はもう一度息を飲み、狭くなった胸を広げるように息を吐いた。
「もう、帰るか・・・・」
 しかし気を取り直したように顔を上げ、こちらを見た下村は何時も通りの表情を浮かべ、自嘲の笑いは既に跡形もな
く失せていた。

 
 
 時計を見れば九時を指している。中途半端な時間に目を覚ました事を悔やみ、しかしカーテンの隙間から入り込む鮮
やかな陽の光に体は勝手に目を覚ましてしまった。
 仕方なく坂井は大きく溜息をつきベッドから抜け出した。
 外はいい天気だった。
 夏の匂いをふんだんに含んだ昼前の空気を大きく肺に詰め込み、吐き出しながらベランダの手すりに背中を預けた。
 仰け反るように体を反らせ、空を見上げる。真っ直ぐに飛び込んできた太陽に目を細めながら、こんな時自分の中に
は何もないのだと改めて思い知らされる気分だった。
 例えば友人と街を歩く。
 恋人と海へ行く。
 家族と午前をゆっくりと過ごす。
 そのどれもが自分にとっては全く別の世界の出来事だった。
 それが羨ましいとは言うわけではない。今の生活に不満もなく、仕事は自分の好きな通りにでき、金銭的にも同年代
から見れば余裕がある。 
 けれどこんな時、やっぱりどこかぽっかりと胸に穴が空いたような気分になるのだ。
 趣味とか。
 時間を潰す手段をあまり持たない坂井の頭の中に、不意に浮かんだ。
「・・・・・・パズルでも、買ってこようかな・・・」
 そんなありきたりな方法で、退屈を部屋一杯に詰め込んでいる人もいた。
 それをまねて何の意味があるのかと、自嘲気味に薄ら笑い、坂井は体を起した。



 別に目的があったわけではない。ましてや、誰かを探していたわけでも。
 しかし見下ろした砂浜の真ん中辺りに立っているのが下村である事は、ここまで来れば明白だ。
 白いシャツに、ジーンズ。どこか見覚えのある恰好で、下村は海を見ていた。
 こちらに背を向けているせいで、坂井に気づく様子もない。ただじっと、吹き付ける海風の中にあって一歩も動かずに
いる。
 そうして白い背中を眺め、いつまで経っても振り向かないそれはまるで自分の感情の象徴のように坂井は思えた。
 感情はいつも一方の方向ばかりを示す。矢印が向かい合うことは決してない。
「・・・・・・たまには、こっち向けよ」
 びゅうっと風が耳元で激しく鳴った。前髪がバタバタと額を叩く。
 冷え始めたバイクがカチカチと音を鳴らすのを、坂井はただ黙って聞いていた。
「こっち向いてくれよ・・・・・・」
 見開いた目に入った砂の粒が、涙を一つ、落とさせた。



 哀しい気分に支配される。
 下村を見ていると、いつもそうだった。

 叫んだ言葉が届いても、それに答えが返っても。結局は変わらなかった。
 最後の最後で残されたのは、手の中の小さな温もりだけだった。

 矢印はまた一方を向いたまま、もう永遠に覆る事もない。

 置き去りにされた祈りは、もう二度と呟かれなかった。


















(03/06/18)