step to far . 5 コツンッとやけに靴音が響いて、サンジは怖くなって身を竦めた。 薄暗い廊下をサンジの持つランプだけがようやく照らしている。そういったいつもと変わらないはずのものすべてが、今夜に限ってそろってサンジ を責め立てているようで心もとない。 これ以上ここに居ては、膨れ上がった不安に動けなくなると分かるから、サンジは無理に足を持ち上げた。 眠っていてくれてもいい。いや、いっそ眠っていてくれれば。 意気地のない願いは、しかし内側から静かに開かれた扉に四散した。 サンジを扉の外に認めたゾロは小さく目を細め、その中に手元のランプが放つ赤い光が吸い込まれて輝いている。それに半舜見惚れ、しかしす ぐに踵を返した目蓋に遮られた。 「・・・酒、飲むだろ」 右手にぶら下げていた酒瓶を、目の前に翳す事で表情を隠そうとする姑息な自分を、果たしてゾロは気づくだろうか。不安と期待がない混ぜにな る心中を悟られまいと思えば思うほど、言葉が余計に空回りそうになるから、サンジは余計な言葉を一切使わず、まるで覚えたての単語を恐々と 試す子供のような話し方をした。 ゾロはベットの前まで歩き、振り返ると、酒の瓶をじっと見つめてから小さく頷いた。 「・・・お疲れさん」 きしっとゾロの体を受けたベットが軋んだ。目元はやわらかく労わりを含んでサンジを見ている。沈黙を通す事でした自分を抑えられない未熟を恥 じ、サンジは情けない顔で笑う事しか出来なかった。 しかし何もいわないサンジを、ゾロは責めはしなかった。ただサンジの仕種を見守っている。 その視線の先でサンジは戸惑い、しかしややあってからベットの対極に置かれたイスに腰掛けた。 所謂幹部クラスしか入っていないこの階層は、夜中を過ぎればシンとしたものだった。何か祭り事や祝い事があれば別だが、そうでなければ船 長以下、皆早寝の者ばかりだ。そして大概が一度寝てしまえば朝まで容易に起きては来ない。 そうなれば余計に室内の沈黙や静寂は際立ってサンジを焦らせた。 何か言わなければ。 根拠のない強迫観念に背中を押されて息が苦しくなる。机の上に酒瓶を置き、少し迷ってから懐から煙草を取り出した。 「吸っても、いい?」 おずおずとサンジが聞けば、ゾロはちょっと意外そうに眉を上げて、しかしすぐに承諾を示した。それに安心し、素早く火をつける。煙を深く吸いこ むと、いくらか気は休まった。しかしそうして煙草を挟み込んだ手が、じんわりと汗に濡れている事に気づき、いったいどれほど自分は緊張している のかと情けなく思った。 ウソップにいくらか解きほぐされた気持ちは、やはりゾロを目の前にすれば途端に硬く強張った。本来であればこうして再び出会えた幸運をただ 喜んでいればいいだけの話なのだが、しかしそこに含まれる幾つかの感情はどこか後ろめたくサンジを苛む。別段やましいはずもないのだが、どう したって真っ直ぐに澄んだゾロの目を見ると、急に自分が酷く間違った事を望んでいるのではないかという思いに囚われてしまうのだ。それでも今 更離れられるわけもなく、せめぎ合う気持ちに心は千地に乱れた。 大きく煙を吸い込む呼吸の音さえも、空気を揺らす分だけ耳には大きく聞こえ、視線を逸らしながらも鋭敏にすべての気配を捉えているあさましい 自分にサンジは小さく舌打ちした。 横顔に触れるゾロの視線は、問いかけもないままただ穏やかだ。サンジはそこに親愛の情を感じ取る事が出来るから、それをどうしようもなく愛し く思い、しかし余計に胸を苦しくさせた。 本当は今すぐにでもゾロに近づき、抱きしめたい。 触れて、その形を確かめて、できることならずっと離したくはないと思う。けれどもそうするにはまだ心もとなく、伝え合った想いはまだ本心から納 得できるほど感情の整理が出来てはいなかった。 こんなにも愛しいと思い、ようやく通じ合えた喜びに何度でも心は震えた。しかし同時にそれは再び失う事への恐怖や不安を呼び、それは底を知 らずにいつでもサンジの足を引く。明日目覚めればすべては夢だと誰かが言うのではないかと気が気ではない。ゾロが視界から消える度、本当は 追いかけて捕まえて、そばに居てくれと懇願したいくらいだった。 こうして、同じ場所にいるだけで心が震える。気持ちが痛くなる。 体中がゾロを求めて出口を探り、今すぐにでも確かめたくなる。 嘘でもなく、夢でもないと。 「また泣いてんのか・・・?」 吐息に紛れたゾロの声が、不意に耳をやさしく打った。驚いて振り返る。ゾロは困った時の要領で眉を顰めて微笑んだ。 「こっち来い、サンジ」 もう自分が泣いているのかどうかも確かでないまま、サンジはふらりと立ち上がり、言われるままゾロに近づいた。後ろでカタンとイスがなる。そ の現実味のない音に、これは本当に現かとまたサンジは不安になった。 ゾロの目の前に立ち、こちらを見上げるその目と合った。真っ直ぐに射抜くような視線の強さに変わりはないのに、どこかふんわりとした暖かさを 感じるのは気のせいだろうか? しかし静かな動作で握られた手に同じ確かな体温を感じ、途端世界は鮮やかに現実味を増した。 「いつもお前の手は冷たいな」 指先をさすって、まるで暖めようとするかの様な仕種に、サンジは情けなく眉を下げた。急に口に銜えた煙草が邪魔になり、慌てて顔を背けて床 に吐き出し靴で踏みつける。忙しない様にゾロが小さく声をたてて笑った。 「またウソップに怒られるぞ」 「後で直すから、いい」 そうしてコクリと一つ息を飲み、サンジはゆっくりとゾロへ顔を寄せた。 どこもかしこも想像以上に熱く、サンジは熱に浮かされたように何度もゾロの名を呼んだ。 その度にゾロはやわらかく笑い、慰めるようにサンジ、と名前を呼び返す。 それだけでどうしようもなく泣きたくなる。堪えれば吐息は熱を含んで唇を湿らせた。 ああ。空っぽの空洞が、満たされる。 長い間取り残されたままだった、鮮やかなまでの感覚が端々から蘇る。 胸の奥底にあった、瑞々しい感情のすべてがただ一つ、ゾロのためだけにあったのだと改めて思った。 体中がまるでとろける様だ。 「辛かったら、ちゃんと言って・・・」 日に焼けたすべらかな肌を辿る度、指先は儚く震え、覚束ない呼吸で耳元に囁けば、ゾロはピクリと肩を揺らしながらも確かに頷き返す。本当は とっくの昔に辛くて仕方がないはずなのに、それでも懸命に受け入れようとするゾロに、サンジは叫び出したいほど愛しさが募り、それはそのまま 深く絡めた指の先に痺れるような甘い痛みをもたらした。 そんな風にゾロの一つ一つにこんなにも心を揺さぶられているという事を、どんなにかゾロに伝えられればいいと思う。 こんなにも、こんなにも全身で、全霊で、お前を求めていたのだと。 どうしても消せない痛みにゾロの体は時々酷く強張った。その度にサンジは何度もゾロの髪を梳き、頬を撫で、慰めるようにくまなく唇を触れさせ た。そうしているとゾロは程なく緊張を解き、答えるようにゆっくりとサンジの髪を梳き、背中を撫で、そうして落ち着いた呼吸で促すように名を呼ん だ。 何度も何度もそうしてお互いの形を確かめ、声を聞き、直に触れ合う肌にその体温を分け合った。 感情が浮つく度、壊れたように涙を流すサンジをゾロはまたやさしく撫で、赤く腫れた目元に吸いついて舌先でそっと雫を舐めた。 様々な感情が入り混じり、浮かんでは消え、一つ一つが鮮明な形でもって脳裏を過ぎていく。 言葉や知覚では追いつけない距離にある何かを追う様に、サンジは息を切らしてそこまでの道程を描いた。 「ゾロ・・・なあ、ゾロ・・・。俺、スゲェ死にそう・・・今。マジで、ヤバイ」 腕の中に閉じ込めて、向かい合わせたゾロの額にすり寄り、頬を舐め、吐息を奪うように深く強く唇を塞ぐ。あらゆる些細な瞬間まで逃さぬよう、 視線は貪るように互いを追った。 本当は後ろからの方が負担が少ないのに、ゾロは絶対に認めなかった。顔が見えなければ、意味がないと言ったのだ。サンジは舞い上がって 勢い込み、しかしどうにか痛みを減らそうと苦心した。どうやっても逃せない痛みがゾロの目を潤ませている。だがそうであってもこうして向き合う事 を望むゾロに、サンジは息が詰まるくらいに深く感じて余計に涙が零れた。 「アホッ・・・お、俺の方、が、し・・・死にそうだっつーの・・・っ」 サンジよりもゾロの方が余程負担が大きい。息も切れ切れで覚束ない。当然の罵りに、しかしその感覚すべてがサンジのためのものであるか ら、どうしたってだらしなく頬は緩んだ。 「フッフフッ・・・。なあ、俺、あんたの事、好きで好きでたまんねェ。なあ、どうしよう。このまま死んじまっても、いいとか思っちまう・・・」 喉を舐め、首筋を辿って鎖骨に噛みつく。ゾロは仰け反ってサンジを抱く腕に力を込めた。 「アホかお前・・・っ。アホ、な・・・事」 緩く腰を揺らすと、ゾロの鼓動が跳ね上がるのが分かる。独りよがりは承知の上だ。寂しさが胸を包んだが、それでもそのままの気持ちを伝える のは心を塞ぐよりずっと心地よかった。 どんな言葉でさえも、届かなかった時の事を思えば。 「これっきりに、す、するつもり・・・かよ」 「ゾロ・・・・・・?」 ひたりとこちらを見るゾロの目が、急に静かに凪いでサンジを見つめた。サンジは驚いて動きを止める。ゾロは大きく息を吸うと、胸を大きく上下さ せた。 「一度きりで、満足か?」 今度は途切れる事もなく、明瞭に発せられた言葉にサンジは仰天した。 「そ、そんな訳あるか!」 怒鳴った拍子に体が動き、ゾロがびくりと肩を揺らた。しかしすぐに立ち直り、声をたてて笑うとビタンッとサンジの頬を叩いた。 「だからよ、死んでる暇なんてねーだろ。それとも何か・・・俺についてこられるだけの体力がねーか?」 「なっ!なんつー事を・・・っ。生意気な!こ、この俺に向かってっ!」 憤って怒鳴れば、それだけゾロも辛いのに、しかしゾロは楽しそうに笑っている。 サンジを迎え入れ、これ以上ないくらいに体を苛まれながら、それでもゾロの笑顔に屈託はなかった。 「だったら精々、置いていかれないように励めよな」 ニッと笑ったゾロの顔は、昔のまま、不敵なままに清々しかった。 ああ、ゾロだ。本当にお前なんだな。 どんな時でもこんな風に、ゾロはゾロのままなのだ。自分が変えようなどとおこがましいにも程がある。 泣いて縋って、引き止めようとも、ゾロはゾロの道を行く。 だからもし、お前が俺の隣にいるのならば、それはお前が望んでくれているからなのだな。 「ゾロ。好き。大好き。結婚してェくらい好き」 裸の胸を合わせ、強く強く抱きしめる。苦しいはずなのにゾロは何も言わず、ただ黙ってサンジの背中を抱き返した。 感情がめちゃくちゃに入り乱れて、サンジは最早自分が何を言っているのかよく分からなかった。ウソップに言った言葉に嘘はないが、本当にそ んな馬鹿げた妄想をゾロに押し付けるつもりは毛頭なかったのだ。 大体再会したのも告白したのも昨日今日の話で、こうして抱き合っている事さえ奇跡の様なものなのだ。 それが突然突拍子もないプロポーズをしたところで、ゾロを呆れさせるだけだと十分にサンジも分かっていたはずだった。 ただ突然解けた気持ちの絡まりに、呆然と驚き、喜び、浮かれていて、心の中にある隠していた様々な感情や素直な気持ちがうっかりと止め処 なく言葉になってしまったのだ。 そうして胸いっぱいに満ちた気持ちに、サンジはまた泣いて泣いて、そんなサンジにゾロは慰めるようなやさしいくちづけを何度も繰り返し、眠る 直前小さく笑って、じゃあ、するか、と吐息混じりに呟いた。 「しかしな、実際的な問題」 ウソップは自分の食事を確保しながら、スプーンを振り回した。 広いラウンジの食事時。もちろんルフィの近くに座るなどという愚行はしない。 目の前にいるのは、同じく愚行を毛虫のように嫌うナミだけだ。 「どっちがドレスを着るのかが、問題だろう」 「・・・どこが実際的な問題なのよ」 時々ウソップは抜けた発言をするので、ナミは大きく息を吐いた。そういった場合大抵ウソップは本気なのだ。 「は?なんだ。じゃあ白無垢なのか?」 だから違う、と思うがナミは沈黙を守った。やはりこの船に乗る人間はどこかずれている。良いか悪いかはまた別の話しだが。 ウソップはぶつぶつとまだどちらが着るかを熟考している。 ナミは大きく溜息を吐いた。 「それはいいから・・・。でもアレよね。よくゾロが承諾したものだわ」 それだけゾロも変わったという事なのだろうか。昔のゾロからしたら、それこそ一笑にふして終わりになりそうなものだ。 しかしどうも二つ返事でゾロはサンジの求婚に答えたらしい。 浮かれて甲板から足が三センチくらい浮いた当船の料理長の言葉を借りれば、の話しだが。 当のゾロは昼食の時間になっても起きてこない。これでは真偽の程は確かめようもなかった。 「そうかー?俺はアリだと思うがな」 特別な日でもない限り、いつもなら昼食に顔を出さない子牛のソテーを嬉しそうに口に頬張りながら、ウソップは朗らかに笑った。既に覚悟は出来 ているらしい。しかし昨晩のウソップとサンジの会話を知らないナミには、まさに青天の霹靂だったろう。納得いかないにも無理はない。 ナミは首を振って肩を竦めた。 「ってゆーか、多分皆にも冗談にしか聞こえないわよ。・・・だってあの、サンジくんよ?」 ナミやウソップからすれば、ゾロが承諾した方に驚くが、他のクルーからすれば女好きのサンジが男を選んだ事に驚愕するに違いない。ゾロは長 い間船を離れていて、気性も性格も知られていないのだから。 「だから俺はよ、サンジがドレスだと思うんだが」 真剣な様子で話を蒸し返したウソップに、ナミもようやくピンと来た。 ウソップが言いたいのは、どうやらドレスの話だけではないらしい、と。 「・・・・・・でも私は絶対、ゾロがドレスだと思うわ」 「ええ!?何でだよ。どう考えたって、サンジだろう?」 「甘いわねェ、ウソップ。全然甘い。見た目は問題じゃないのよ」 ふふん、と笑ってスープを飲む。ウソップは低く考えるように唸った。 「俺にはよく分からねェが・・・。なんでお前には分かるんだよ?」 多分、分からないからウソップなのだ。 これが分かってしまったら、ちょっとした愁嘆場になってしまうだろう。 ナミは今まで何回かゾロが男にちょっかいを出されていたのを知っていた。 どうやらゾロはそういったある種の男に対するアピールが強いらしいのだ。 最初は驚いていたナミだったが、平素の素振りでそれを断ったり蹴散らしたりしているゾロを見て大概慣れてしまった。 「なんとなく、かしら。だってゾロって、変な色気があるらしいのよ」 「色気ェ?あのハラマキにか?」 「・・・あんたは分からなくていいのよ」 ヒラヒラと手首を振って会話を打ち切る。しかしウソップは納得しかねる顔で首を何度も傾げた。 野生の獣には、ただ相手を圧倒する無言の美しさがある。 それに気づかない事は、幸いだ。 「・・・あんたも十分、いい男よ」 「な、なんだよ、いきなり。金はねーぞ」 「失礼ね、あんた」 言うなりウソップの皿からフォアグラをすくい上げ奪ってやる。ウソップはああっと絶望の声を出しながらも、懸命にも文句は言わなかった。 ナミは奥のキッチンで、華麗に奮闘しているサンジの背中を思った。 サンジの胸の奥には暗い海が住んでいる。 暗くて深く、絶望と死が支配する海だ。 その事で昔は苦しんだのだと、一度酔った勢いでサンジが語った事があった。 圧倒的な絶望は、時としてどんな努力や希望や願いすらも飲み込んでしまう。 そして自分のそれは、暗い夜の海の形をしていると。 でも今はその暗闇の中に、小さな命の暖かさを傍に感じる事ができるのだとサンジは言った。 ナミさん、俺はね。あの岩の上で思ったよ。 どんなに絶望的でも、死が近づいても、それでも人の命は暖かいんだって。 辛くて、何度も泣いて、世界を呪って叫んでも、それでも手を伸ばして触れたジジィの体は暖かかった。 生きてさえすれば、暖かいんだ。 俺は馬鹿だからそんな当たり前の事に気づくのに、随分かかっちまった。 だからナミさん。俺は、あの馬鹿にも教えてやりたいんだ。 人が暖かいって事。命は暖かいって事、教えてやりたいんだ。 あいつが時々、暗い海の底みたいな目をするから、お前もちゃんと暖かいんだって。俺は言ってやりたい。 一人で立ってる、あいつに言ってやりたい。 次の日になって、サンジはそれを覚えていなかった。 聞いていたのもナミだけだったから、もしかしたら夢だったのかもしれない。 けれどナミは、ずっとサンジの中に感じていた大きなものの正体を知った気がした。 サンジくんは、海みたいなんだわ。 どこまでも広くて深くて、やさしくて厳しい。 包み込むみたいな心の両手は、いつだって、誰にだって広げられている。 皆は女の子にばかりやさしいと言うけれど、本当は誰にだってサンジは心を砕いている。 穏やかな眠りを誘うみたいなサンジの気配は、そうだ。海に似ているのだ。 だからきっと、サンジは包み込むようにゾロを愛するに違いない。 対等でありがなら、全力で戦う体を咄嗟に支える事が出来るように、気づかれないやさしさでゾロを守るに違いない。 なんとなく、そう思った。 「まあ、守る必要があるかどうかは、微妙なところだけどね」 「あ?なんか言ったか?」 「なーんでも、ない!」 未だにドレスをどうするか、当然特注だ、などと言っているウソップを尻目に、ナミはウソップの皿から最後のポテトをいただいて、代わりに丁寧に きくらげのソテーを置いてやった。 「未来海賊」ご愛顧、ありがとうございました。 感謝。 |