こっち向かないかなあ、と思っても、大抵下村は見向きもしない。 結局今夜もそんな風で、腹立ち紛れに休憩に入り、裏口で同じく休憩していた高岸の脛を蹴って八つ当たりをした。 高岸は泣きそうな顔で「なにすんでスか〜」とか言っていたがどうでもいい。下村の顔を見れないことの方がよっぽど重 要なのだ。 「下村がさんに入れって言われたんですよ」 いつまで休憩してるんだ、と八つ当たりの延長でぶつくさ言うと、高岸はさも嬉しそうに言いやがる。 下村は何かと高岸を気にかける傾向があるので、それがまた気に入らない。この店に入る事になった経緯が経緯だ けに、下村が気にするのも至極尤もなのだが、坂井にしてみれば自分以外が下村に特別扱いされていれば、一から十 まで不条理でも気に入らない。 だからとりあえずもう一度高岸の脛を蹴ってから坂井はカウンターに戻った。 「お前なあ、ワケもなく高岸をいじめるなよ」 閉店後やっと二人きりになった途端、開口一番下村がそう言った。 高岸の野郎、チクりやがったというのが顔に出たらしい。下村が付け足すように「高岸に聞いたんじゃないぞ」と言っ た。 「丁度出勤してきた女の子が見たんだよ。あんまり他の店員と差をつけるなよ。示しがつかねーぞ」 モップの柄に顎を乗せて、ホールの中央から下村が話しかけくる。そのポーズにうっかり見惚れながらも、こっちを向 いた途端に違う男の話かと、坂井はイヤな顔で口を尖らせた。 「それはお前だろ。俺は何にもしてねーよ」 拗ねたような言い訳に、下村がキョトンとした。その顔が妙に幼い。時々そんな風に下村は無防備な顔をするので、 坂井は余計に気が気でないのだ。 「俺がなんだって?」 聞き捨てならない、と坂井の言葉を飲み込んでから下村が眉を顰めた。 相変わらず自覚もないのかとうんざりする。坂井は手元にあったポットを幾分手荒に扱った。 「なんだかんだと、高岸の世話焼いてるじゃねーかよ。今までそんな事、気にしたこともないくせに」 入れ替わりの早いこの世界で、いつでも店内には誰かしら新人がいる。下村も仕事の面では細々と指導するが、そ の他の対人関係や私生活については全く関与しないし、興味もないようだった。何人かのホステスに言い寄られている のも坂井は知っている。元々職場恋愛を禁止していないので問題はないのだが、坂井としては大問題だ。そういった輩 は早い段階で気づかれないうちに対処している坂井だが、下村本人が逆に手を出しているのだから始末におえない。 坂井に出来る事と言ったら、精々八つ当たりが関の山だ。 初めからしてそもそも高岸は下村の関心を独り占めしている。 あろうことか高岸は、暫くの間下村の所に居候していたのだ。 「・・・しょうがないだろ」 そう言われては反論の仕様もない。 テーブルに乗せたイスの足を指先で擦りながら、下村はモップをカタンと鳴らした。 「分かってるよ」 結局高岸の待遇について話し合ったところで、結論はいつも同じだ。堂々巡りで最後は終わる。 運がよければそのまま終わるが、時々は険悪になった。 今夜はそのどちらでもなく、珍しく下村はばつの悪いような顔をして押し黙った。しかし分かっているからそんな顔をし ているのではなく、行き違う事に腹のすわりの悪さを感じているに過ぎないのだ。 「・・・特別高岸に構ってるつもりはないぞ」 だが今夜は少しそれとも違っていたらしい。 話が続いた事に驚いて坂井が顔を上げると、下村はイスの足にモップを立てかけているところだった。 「・・・分かってるよ」 じゃあなんだ、と言われれば困ってしまう。だがそれはあくまで理性のきく範囲での話しであって、やはり下村が自分 以外の誰かを見ていれば嫉妬もするし気分も悪い。そもそもその部分で坂井と下村との間には、深くて長い溝がある のだが、今更それをどうこういったところでどうしようもない。せめてもう少しこちらを見やしないかと思っても、結局はこ んな始末だ。 しかし流石の下村も「じゃ、なんで」とは言葉を続けなかった。珍しく思案気に顔を顰めている。顎の辺りを指先で弄 び、ややあってから、カウンターに座った。 「つまり、お前は高岸が気に入らないのか?」 ・・・・・・そう来たか。 瑣末ながらも淡い期待に胸を浮き立たせた自分が馬鹿らしくも憐れに思われる。 坂井はがっくりとわざとらしく肩を落とし、更に分かりやすく大きな溜息もつけた。 「なんだ、違うのかよ」 大抵の事に鈍感というか、細かな気遣いを止めてしまった下村の言動は一々がもっともで真っ直ぐだ。しかし人の心 の機微はいつだって複雑怪奇なもので、そんな風に物事を正面からだけ見られれば、坂井が随分酷い先輩という事に なってしまうではないか。 黙りこくってしまった坂井に、下村は頬杖をついてじっと答えを待ている。その様は微笑ましいといえなくもないが、今 の坂井にとっては察しの悪い鈍感な想い人の面持ちに他ならない。どう好意的に見ても憎らしい。 「俺が気に入らないのは、高岸じゃねえよ。・・・お前だ」 「なんだ。俺か」 その言葉に、あろうことか下村はあからさまにほっとした顔を見せた。 それに坂井がカチンときても、これは誰も責められないだろう。 「なんだよ、お前。高岸がよけりゃそれでいいのかよっ」 いきなり声を荒げた坂井に、下村がぎょっとして頬杖から顔を浮かせた。 大人気なく興奮した自分を宥めるように息を何度か深くつき、坂井は目を瞑ってやり過ごしてから、どうしても胸の中 に残ったちくちくする気持ちを肩をする事で諌めた。 「・・・高岸ばっかり、特別扱いするな」 無心にこちらを見ている下村の目を、坂井はじっと見つめた。理不尽な怒りをいきなりぶつけられれば、誰だってこん な顔をするだろう、というような表情を下村は浮かべている。 しかし不意に下村は目元を和らげると、「馬鹿だなあ」と笑った。 「どうせ俺は―――」 まるで相手にする気のないような言葉にむっとして、不貞腐れたように言い募ろうと口を開きかけ、しかし突然伸び上 がった下村の目が眼前に迫って絶句する。そのままちゅっと唇の端にくちづけられた。 店内では、傍に寄るのも嫌がる下村である。 呆然として突っ立った坂井のベストの合わせの辺りを掴むと、下村はぐいっとカウンターの上に引っ張った。 「・・・お前が言うなよ」 下村はちょっと戸惑ったように眉を顰めて、口元を歪めた。 表情の形成に迷うようなその仕種に、一瞬かいま見えた下村の心情に驚いて坂井はまたあっけに取られた。 「あー・・・。えーっと、もしかして俺って、と、特別扱いされてた・・・とか?」 今度ははっきりと下村は嫌そうに顔を歪め、引き寄せていた手を離してがたんと立ち上がった。 「むかつく。帰る」 「え?っちょ、ちょっと待てよっ、おい!」 追いかけようにもヒラリと裏方への扉をくぐってしまった下村は、いとも簡単に姿を消してしまった。 この分では着替えもせずに、車に直行したに違いない。今更裏口に駆けつけたところで、巻き上げる排気に咳き込む のが関の山だ。 「・・・ほんっと、性質悪いよ。お前は」 ほんの少し触れられた、唇の端が今更のように暖かい。 いつだって下村は、哀しいくらいに素っ気無い。 それなのに時々気まぐれに、下村はひらりと易々と、坂井の想像を超えて不用意なくらいにその心の内を見せるか ら。 だから坂井は急に自分がわからずやの子供になった様で、無用な嫉妬を繰り返しているような気分になって心もとな く感じるのだ。 それでも突然に与えられた幸せに、心は勝手に浮き立って、これからイヤでも下村の部屋へ押しかけてやろうと坂井 はこっそり微笑んだ。 (03/06/25) 終 |