近すぎて見えないものへの距離を測るように、時々坂井の指は酷く慎重だ。 そうされると何故かこちらも緊張して、吐息が自然細くなる。 そうしてまた坂井は時々それを誤解して、困ったように指を引っ込めてしまうのだった。 夜半から明け方にかけて降り続いた雨のせいで、ベランダは窓際までしっとりと濡れていた。霧雨の立ち込めるそこ へ裸足のまま足を踏み入れると、季節外れの刺す様な冷たさが体の端から滲みこんだ。それでもそのまま足を進め、 ぐったりと柵に体を預けると、たちまちパジャマが水分を含んでじっとりと肌を諌めた。 チチチチ、とどこか近くで鳥たちが朝の挨拶を交わしいる。霧のかかった薄ぼんやりとした視界の中で、車のヘッドラ ンプが街中からこちらへ向かって駆けて行く。それを見ながらその幾つかの流れの中に、果たして自分の望むものが あるのだろうかと下村は吐息で唇を湿らせた。 足の裏ではジャリジャリと砂の粒が皮膚を粗く擦っている。このまま部屋へ上がればまた床を汚してしまうと思うもの の、それを拭う用意はない。下村は暫し考え逡巡した後、おもむろにパジャマの上着を脱いだ。 どうせ濡れてしまったし、これで足を拭いてしまおう。 本当は窓際にかかったレースのカーテンとどちらにしようか迷ったが、どう考えてもカーテンでは面積が広すぎるし、 何より洗濯が面倒そうだ。自分のものであればいっそ捨ててしまっても構わないが、そうもいかない。 「お、お前っ・・・何やってんの!?」 ひっくり返った声に驚いて顔を上げる。手はまさに今足の裏を拭かんとしている中途半端な恰好だ。 きょとんとして上げた視線の先には、坂井が悲壮な表情で両手にビニール袋を持って立っていた。 「お前・・・お前ね。どうしてそう訳の分からん事を・・・」 横でぶつぶつと文句を言いながら、インゲンの筋を取っている坂井はしかしどこか楽しそうだ。 インゲン豆のどこがそんなに楽しいのか良く分からないが、とりあえず怒っているわけでは無さそうなのでヨシとする。 下村はパジャマからジーンズと白いシャツに着替えて、きちんとソファに座っていた。 その隣ではくっつくように坂井が座ってインゲン豆を次々と仕上げていく。 「裸足で外出りゃ、足が汚れんの分かってるだろうに・・・」 こん、こん、と筋を取られたインゲンが、ボールの淵に当たって甲高い音を時々あげる。 それを横目にやっぱり怒っている様子がないどころか、やや機嫌のいい坂井の横顔を窺った。 「それで何の躊躇もなく、パジャマで足を拭くところがまたお前らしいと言うか、なんと言うか・・・」 坂井のお小言はまだ続いていたが、これはもののついでのようなもので、あまり意味がないことは分かっているので 聞き流す。 それよりも今日はインゲンで何が出来るのかという事の方が、重大な関心事だ。 「でもお前、よくカーテンで拭こうとしなかったな」 ふと思いついたように坂井が振り返る。丁度坂井を眺めていた下村と、しっかり目が合った。それは坂井も予想外だ ったらしく、あからさまにぎょっとした。 「な、なに?」 インゲンを摘まんだまま固まってしまった坂井に、確かにそうかもしれないな、と下村は思った。 なんといっても手ごろなところにぶら下がっているのだ。確かに下村もそう思う。 でも。 「だって、あれ、お前気に入ってるだろう」 本当はカーテンなどどうでもいい坂井が、うっかり口を滑らせたところを安見に聞きとがめられて連れて行かれたのが デパートのカーテン売り場だった。そこで坂井はさんざん安見に連れまわされたあげくにカーテン一組に随分と高い金 を払ったらしい。その日の夜に下村はベッドの中で散々グチを聞かされたのでよく覚えていた。 それでもそんな風に言いながら本当は年の離れた可愛い少女が選んでくれたそのカーテンを、坂井がとても大切に 扱っているのを知っていたから、下村は邪険な扱いなどできはしなかったのだ。 「坂井?」 固まって動き出す様子のない坂井が流石におかしく感じられて、下村は坂井の顔の前でヒラヒラと手を振った。手元 からぽとりとインゲンが転げて床に落ちた。それを思わず目で追うと、いきなり頭を抱え込まれて視界が塞がった。 「おい?」 インゲンを取ろうと無意識に伸ばした手まで絡め取られて、動きを封じられてしまった。突然の行動に訳が分からず 問いただそうとするのに、坂井の力任せの抱擁に負けて顔は上げられなかった。 「お前って、ホント・・・あれだよな。・・・まいるよ。本当」 「?何が」 ぎゅうっと米神の辺りに坂井の二の腕が触れる。そのまま胸に額を押し付けられて、下村はくぐもった疑問を投げた。 坂井が時々訳の分からない事や行動を取るのにもいい加減に慣れた下村であったが、しかしそうかといって理由が 分かるようになったわけでは決してない。それでも坂井にとってその言動の一つ一つが大切で重要である事が分かる から、下村は黙って坂井の胸に額を押し付けたままでいた。 「なんでもねーよ・・・」 頭の天辺の辺りに、坂井の吐息が触れてくすぐったい。思わず竦めた肩を抱きこまれて抱擁は更に深くなった。 部屋に戻った途端、驚いた。 ほんの三十分前までぐっすりと眠っていたはずの下村が、何故かベランダに立っていた。 その上パジャマの上着は着ておらず、霧雨に上半身を濡らしたまま、片足を上げて足の裏を覗き込んでいる。 いったい何事かと思ってしかるべきだ。 結局聞けば寝苦しくて起きたという事だった。それもそのはずで、下村の体は普段より少し熱い。 こうして触れていればそれは尚更はっきりと、布越しでも良く分かる。早く床へ戻れと言ったところで素直に聞くはずも なく、下村はただじっと黙って隣に座っていた。そんな風にされれば嬉しくない訳がない。傍に居られれば坂井とて不服 などなく、寄り添う様にして坂井は食事の仕度にせいを出していた。 はずだったのだが。 「やっぱりお前、熱上がってるぞ」 「そうか・・・?」 首の辺りに手をあてると、ひたりと微かに汗ばんでいるのが分かる。これでは大分辛いのではないかと思うのだが、 本人はいたってシンプルな表情だ。感情に乏しい。こちらの気持ちなどお構いなしだ。 それなのに下村は時々、その天然の鷹揚さで殺し文句を平気で口にする。 これで自惚れるなと言われれば、全く無理な話だ。 幸と不幸は常に繰り返し、素っ気無い事へのやり切れなさと、突拍子もない幸福の胸苦しさはいつも一体だ。 この考えなしめ。 「飯出来たら起してやるから、少し横になってろよ」 抱え込んだ体を抱き起こして、額にちゅっとくちづける。下村は肩を竦めてやり過ごし、黙ってするりと腕の中から抜け 出した。 「新しいパジャマ、借りる」 肩越しに振り返った下村の顔は少し赤かった。 先ほどのパジャマは、洗濯機の中で回っている。 (03/06/30) 終 |