手さぐりの恋人





















 いつもならそんな間抜けな事をしない下村が、珍しく乱闘で指を折った。
 二本ほど。ポッキリと。
「本当にお前、無茶してくれるよ・・・」
 相手は二人で、ペーペーのチンピラだった。
 ナイフを持っていたわけでもなく、体格が格段に良かったわけでもなく。
 ただ、べらぼうに酔っていた。
 それだけだ。
「今回はたまたま、だ」
 酔っぱらいはまったくの千鳥足で下村に向かってきた。普段から油断などしない下村である。相手がどれだけ脆弱に
見えてもそれなりの対応を心がけ、死なない程度の手加減を加えてちょっと顔でも撫でてやろうかと、ヒラヒラと振袖の
様に袂の余った相手の袖を取った瞬間。

 チンピラがコケた。
 下村の指をその袖に巻き込んで。 

 下村も一応形だけは反論するが勢いはない。自分でも十分に恥かしいと思っているのだ。 
 下村はシーネで固定された指先をブラブラとさせながら、パジャマで室内をウロウロと徘徊している。
 何をするにも不自由で、手持ち無沙汰なのだ。
 しかし今回ばかりは自業自得なので誰に文句を言うでもない。坂井に対しても素直に言う事を聞いていた。
「俺はもう仕事行くからな。大人しくしてろよ」
 謹慎だ、と言う坂井の言葉も満更冗談でもない。両手が塞がった状態でまた同じような事を繰り返されてはまったく気
が気でないのだ。
 下村がまた何かしてやしないかと、本当に仕事どころではなくなってしまう。
 不本意そうに下村は顔を顰めたが、しかしすぐに頷いた。如何ともし難い今の状況を、さすがに理解しているらしい。
 坂井は満足して下村の頭を二・三度撫で、軽くじゃあな、と言って部屋を出た。
 最後に浮かべた下村の表情には気づかずに。












「何でお前、こんなところに・・・」
 坂井は呆然となって入口に突っ立った。
 下村はもぐもぐと何か言っているが言葉にならない。
 口の中にめいっぱい食べ物を詰め込んでいるからだ。
「・・・んぐ。メシ、喰いに」
 強引に飲み下した下村の目は涙目だ。どうやら無理やりに喉を通し過ぎて苦しかったらしい。そんな事ばかり冷静に
考えて、そんな自分が馬鹿らしく、坂井は大きく溜息を吐いた。
「どうした?」
 どうしたもこうしたもない。
 全く悪びれない下村の様子に、既に怒る気の削がれた坂井は、無言のままどかりと下村の隣に腰掛けた。
 カウンターの向こうには、あいも変わらず無愛想な店主の顔が一つあるだけで、他に客もない店内はテレビの音が響
くばかりだ。
 座れば黙っていても適当に皿が出てくる程度には良く通う店だ。飽きのこない味を下村も坂井も気に入っている。
 いつもは酒を並べて飲んでいる下村の前には、珍しくきちんとした食べ物が幾つか並んでいた。
「怒られた」
 坂井の視線に気づいたのか、下村はちょっと舌を出して包帯を巻いた指を左右に振った。酒を飲みに来て、傷に触る
と店主に怒られたようだ。坂井はちょっと意外に思って店主に目をやったが、当のおやじはテレビに夢中でこちらに見
向きもしない。カウンターには料理が山と盛られた皿が幾つかあって、好きなものをお手盛りだ。初めての客でなけれ
ば尚更で、そうなれば勘定もおざなりになり坂井などはこれで商売が成り立っているのか時々本気で心配になる。
 しかしその大雑把な店主が、傷一つ取上げて禁酒を言い渡すとは。
 だが一人で部屋に居ればどうせ何も食べないだろうと思っていただけに、助かったような気がしないでもない。と言っ
ても謹慎を言い渡した手前、やはり心境は複雑だ。
 憮然として、それでも坂井はとりあえず箸を取った。
「・・・そんな親切そうには見えないが」
「そうでもないぜ」
 え?と思って隣を見ても、下村はまた食べる事に集中してしまって会話は続かなかった。
 そうでもない。
 そんな風に思うような会話をしたんだろうか。
 疑問に思い、しかしその中にあからさまな羨望を感じて坂井は思考を切った。考え始めるとキリがない。どこまで突き
詰めても自分が空しくなるだけの作業だった。
「おい、それはそうとお前ここまでどうやって来たんだよ。・・・それもこんな時間に」
 いつもは店が終わってから遅い食事を取りに来る店だ。位置的には道すがら、という場所ではない。少々遠回りをし
ても来ている店なので、当然下村の自宅からも離れているし坂井の自宅からも同様だ。面倒を押してわざわざここまで
出張る理由が見当たらない。車は坂井が乗って出てしまった。当然下村はバイクには乗れない。面倒くさがりの下村
が、わざわざ食事のためだけにタクシーに乗るわけがない。
 そもそもどうして店を休んで自宅謹慎をしているはずの下村がこんな時間に?
「腹減ったから」
 聞けばなんて事はない様子で下村はケロリと答えた。また口の中に食べ物を詰め込んでいるので言葉は不明瞭だ。
 頬が丸く膨らんでいる。
「家の近くにだって店はあるだろう」
「いや、それが」
 そこで言葉を切り、下村は湯飲みに入った茶を飲み干して一息ついた。また涙目になっている。
「それがさ、俺もファミレスでいいかと思ったんだけどよ、下に降りたら偶然・・・ほら、なんつったっけ?あの、学校の横
のパン屋のほら・・・」
「・・・須々田」
「そう、そいつ。そいつがなんか偶然いてさ、どこか行くなら送るって言ってよ。それじゃあこの店までって話しになって。
バイクで送ってもらった」
 ピクッ。坂井のこめかみが跳ねたのも知らずに、下村は悪びれた風もない。
「ふーん・・・」
「親切な、お前の下の奴らって」
 坂井が面倒を見ている幾人かは、その後物騒な世界から足を抜き、真っ当な職についた者も少なくはない。大体は
会社勤めにせいをだしているが、中には家業を継いだ者もいる。パン屋の息子の須々田もその一人だ。今では言動も
穏やかで顔つきも柔和だが、昔は粗暴で手がつけられず、警察も手を焼いた暴走集団を取り仕切っていた男だ。そん
な折、ちょっとした事で立場が悪くなった須々田を、坂井が口添えして警察から出してやった事があった。例によって例
の如くの土地絡みの抗争だった。実際須々田には関係がなかった事もあり、あっさりと釈放された。それ以来、須々田
は坂井の良い情報提供者となり、今でも恩義を感じているのか坂井の手足となって自ら動く事を厭わない。
 しかしそのパン屋の倅がなぜ真夜中、しかも下村の自宅の前にいたのか。
 坂井は腑に落ちず考え込む。
 隣では黙々と下村が食事を続けている。
 たまたま。偶然。
 そういう動きをする男ではなかったように思うが。
「なあ、俺これ喰ったら帰るけど」
「あ?」
 そのまま自分の考えに没頭してしまった坂井の箸がいっこうに進まぬ間に、下村は目の前の皿を殆どたいらげてしま
っていた。後は手元の小さな小鉢に盛ったきんぴらだけだ。
「帰るって・・・足ないだろ」
 まさか坂井が居るのにタクシーを呼ぶとは言い出すまい。軽く無視をされたような気分で坂井は驚く。
 だが下村はまたケロリとした様子で言った。
「いや、迎えに来てくれるって」
「・・・はぁ?」
 鼻から気が抜けた様な、酷く素っ頓狂な声が出た。流石の店主もこちらをチラリと見る。しかし今はそんな事などどう
でも良かった。
「ちょっと待て。誰が迎えに来るんだよ。まさか須々田じゃねェだろうな」
 自分でも随分馬鹿な事を言っている自覚はあったが、下村も「まさか」と言って笑った。
「パン屋は帰ったよ。朝も早いだろうし」
 やはり自分の考えすぎだ。ならばドクだろうかと安心半分、警戒半分で頷こうとした坂井の横っ面に、また不吉な言葉
を下村は平然と吹っ掛けた。
「そうじゃなくて、ほら、お前のところによく来てる、ちょっと静かな感じの奴」
「・・・真島か」
「そうそう、あのメガネ。あいつが仕事の帰りに寄ってくれるって。パン屋が言ってた」
 仕事帰り。仕事帰りってお前。あいつの仕事を知っているのか。
 坂井は段々頭が痛くなってきていた。どう考えてもこれはおかしい。
 目の前では下村が「本当にあいつら親切な」などと無邪気に喜んでいる。
 どこの世界に、仕事の帰りが真夜中になる豆腐屋がいるんだ。
「おい、下村」
「なんだ?」
 突然真剣な口調になった坂井に、下村もちょっと驚いて、しかしきちんと向き直った。こういうところは変に真面目な下
村である。持っていた箸をきちんとカウンターに戻した。
「今までもこういう事、結構あったのか」
「こういう事?」
「だから、須々田と真島に偶然会って、送ってもらったり、とか」
 不思議そうな顔をする下村の肩を掴んで詰め寄った。相変わらず店主は知らんぷりを決めこんでいる。坂井には全く
都合のいい話しだ。
 そう思えば案外確かに親切なのかも知れない。
「まさか」
 はは、と下村が笑った。それに坂井はほっとして、思わず笑い返した。
「だよな・・・俺の考えすぎだよな」
「そうだぜ。いくら何でもいつもあの二人に送ってもらってる訳じゃねーよ」
「・・・・・・ちょっと待て」
 坂井の笑顔が凍りつく。何か嫌なものが背筋を流れた。どうも下村の言い方が引っ掛った。
「まさか他の奴を足に使ったこともあるのか・・・偶然会ったりとかして」
「あるぜ」
 いとも簡単に下村が頷いた。今度こそ坂井の背筋をさぁっと冷たいものが走る。
 下村の肩を掴んだまま、イスを蹴って立ち上がる。がたん、とイスはそのまま後ろに倒れた。
「いつ!誰に!何回!」
「な、なんだよいきなり。そんなの覚えてねーよ」
「覚えてねーほどか!」
 迂闊だった。飼い犬に手を噛まれるというのはこの事だ。周りばかりを警戒して、自分の足元を見ていなかった。
「お、お前、変な事されてねーだろうな!」
「はあ!?」 
 動転して異常な事を口走る坂井に、今度は下村の額に青筋が浮かんだ。詰め寄られると条件反射で対抗する。
 下村はバシッと肩を掴んだ坂井の手を払った。
「変な事って、なんだよ」
 剣呑な雰囲気を立ち上らせ始めた下村の目つきが段々と上昇傾向だ。
 謂れのない事で問い詰められるのが大嫌いなのだ。
「あいつらは偶然居合わせて、たまたま送ってくれただけだろーが。お前、自分が可愛がってる奴らにあらぬ疑いかけ
てんじゃねーよ」
「馬鹿!」
「ば、馬鹿!?」
 即座に罵られ、下村が絶句する。坂井は怯んだ下村を見逃さなかった。
「そんな何度も偶然居合わせるわけねーだろうが!みんな偶然を装ってるだけだ!お前送るために!」
 たとえば坂井のためにとか、そんな風にとらえることも或いは可能だ。しかし坂井はそういった連中に下村の話をあま
りした事はない。もちろん関係や感情を悟られるような言動を取った事もない。
 だったら想像は限りなく真実に近いと誰が否定できる?
 いつの間に、とか。なんで、とか。坂井の頭の中では様々な考えが浮かんでは消える。
 大概自分の頭も腐っているが、これはどうも勘違いでは片付けられそうになかった。
 これは明らかな確信犯だ。
「よし。分かった」
 ぐいっと下村の腕を取り、強引に立ち上がらせる。ポケットから何枚か札を取り出しカウンターにおいてから、坂井は
引きずるように下村を店から連れ出した。
「ごちそうさまー」
 腕を引かれながらも下村は暢気なものだ。「おう」と答える店主に手など振っている。
 まったく勿体無い話だ。
「俺が車で来てるんだから、真島は呼ぶなよ」
「ん」
 少し離れた場所に止めてある車の横に来ると、坂井はようやく下村の腕を放した。
「で?」
「なに」
 車に寄りかかり、腕を組む。正面に立った下村は何を問われたのか分からない顔だ。しかし坂井が本気で何事か怒
っているのは感じているらしく、先ほど怒鳴られた禍根は残っていない表情だ。
 坂井は少し安心し、懐から煙草を取り出し、一本下村に勧めた。
「誰に送ってもらったって?」
 またその話か、と下村の眉間に皺が寄る。とっくの昔に話は終わっていたと思っていたらしい。
 途端に先ほどの剣呑な雰囲気が戻ってきた。
「だから覚えてねーつってるだろーが。大体なんでそんなにこだわるんだよ」
 足に使っただけだろう。下村は勝手に煙草に火を点ける。坂井には勧めずそのまま火を消した。
 坂井はその事にイラつくよりも、もはや哀しいとしか言いようのない気持ちになり、また咄嗟に掴みかかりそうになる
手を止めるために目を閉じなければならなかった。
 いつまで経ってもまったく分かっていない下村はいつもこうだ。
 どうして坂井が気にするのか、怒るのか、・・・悲しむのか分からない。
 分かろうともしない。
 考え方が違う以上、問い詰めたところで変わらないだろう。それでもどうしたってこだわらずにいられないのだ。
 それは他でもない、下村だからだ。
「・・・勝手に使って気に入らないなら、そう言えよ」
「え?」
「お前の下の奴ら、勝手に使って気に入らないんだろう」
 あからさまに苛立ちを浮かべた下村の言葉に驚いた。
「ちょっと待て。俺はそんなつもりで・・・」
 坂井は焦って、寄りかかっていた車から体を離した。どうも自分と下村との間には、とんでもない行き違いがあるよう
だった。
 冗談じゃない。優先順位が逆だろうが。
 説明しようにも焦ってしまい、かえって言葉が上手く選べない。
 焦れば焦るほど間が開いてしまい、それに比例して下村の機嫌が急降下するのが手に取るように坂井には判った。
 まずい。
 すっかり形勢が逆転した立場に坂井は気づかぬまま、下村に手を伸ばした瞬間。

「下村さーん!」

 突然、横合いから邪魔が入った。

 坂井からは店の角に阻まれて、死角になって姿の見えない男の声が下村を呼ぶ。
 よくよく聞き覚えのある声だ。
「良かった、間に合いましたね」
 丁度店の影になる位置に止めた車と、坂井の姿は向こう側からも見えないようだ。段々と近づいてくる男の声が、あ
からさまに嬉しそうに浮き立っている。表の道路側に立つ下村が、そちらに向かって手を上げた。
「よう。わざわざ悪いな」
「いえ、こちらこそ、お待たせしましたか?」
「いや、丁度今・・・」

「俺が送って行くところだよ」

 ひゅうっと、影の様に下村の後ろに立つ。向こう側に立つ男の顔が、明らかに引き攣った。
「さ、坂井さんっ!」
「よー、真島。久しぶりだなぁ」
 頬には笑みまで浮かんでいるのに、どうしたってその目は雄弁だ。

 それ以上下村に近寄ったら、ブッ殺す。

 真島は引き攣った顔をますます歪め、そのまま引付まで起しそうな勢いだ。呼吸まで止まっている。
 坂井は今にも切れそうな額の血管を前髪に隠し、にっこりと笑った。
「下村は俺が送っていくからよ、お前は帰っていいぜ。仕事帰りなんだって?早く帰って休まねーとなぁ、明日も早いんじ
ゃねーのかなぁ」
 ん?と凶悪な笑顔のままで問いかける。仕事帰りなどでは到底ない事を、知る目は殺気さえ含んでいる。
 真島は表情を強張らせたまま、有無を言わせぬ坂井の目にただガクガクと首を立てに振った。
 とっとと消えろや。
 これ以上ないほど饒舌な目が語る猶予のない言葉を、真島は正確に読み取ったらしい。既に腰は引けているし、足
は今にも後ろに向かって走り出す寸前だ。
 だがしかし。
 結果としてそうはならなかった。

「ちょっと待てよ」

 今まさに身を翻さんとする真島を引き止めたのは、他ならぬ下村だった。
「俺はこいつに送ってもらう」
 くるりと身を返し、下村は背後にぴったりとくっついていた坂井に向き直った。
「お前、一人で帰れば?」
 まったく素っ気無い言葉は、先ほどの怒りが微塵も解けていない事をはっきりと示している。
 坂井はすっかり蔑ろにされ、青ざめて下村の肩を掴んだ。
「な、何言ってんだよ。何でわざわざあいつに頼む必要があるんだ、俺がいるのに」
 しかし眇めて見下すような視線を送る下村の表情はないに等しい。
 坂井の問いには答えぬまま、行こうぜ、と真島の腕を取る下村のその腕を咄嗟に掴む。
「仕事帰りなんだろ?早く帰って休めば?」
 しかし冷たく言い放った下村の言葉に、坂井はあっさりと腕を振り切られた。
「し、下村さん・・・」
「送ってくれよ。お前がよければ」
「も、もちろん喜んで!で、でも、あの、坂井さんは・・・・・・」
「勝手に帰るだろ」

 放っておけば?

 冷酷な言葉に打ちひしがれ、坂井はよよと地面に倒れ伏した。







 後日。

 案の定機嫌を損ねた下村を宥めてすかして、ようやく坂井は許されたものの、結局何故そこまで下村が怒ったのか
分からなかった坂井だったが、あっさり答えた下村の言葉を聞いて、坂井は脂下がって大喜びし、しかし同時に改めて
気を引き締めた。


「なんか、置いて行かれたみたいで、やだったんだよ」



 ただ拗ねていただけらしい。
 








 
 相変わらず下村の考えている事は良く分からない。
 それでも見えないなら見えないなりに、確かめながら進めばいいと思う。
 とりあえず、あの指がくっついたら下村を車の助手席とバイクの後ろに乗せた奴。
 一人ずつ下村に面通しさせてやる。










 下村は親切だと褒めながら、結局誰一人として名前を覚えていなかったのだから。






















(03/07/20)









30000-1 ちゃちゃ様
リクエスト「下村が坂井の舎弟たちにも好かれているのがわかって焦る坂井の話」でした。