最初で最後の人








 がらんっと暖炉の中で崩れた炭木が音を立て、チラチラと燻っていた火が途端にぱあっと光を増した。
 舞い散った明るい火の粉が辺りを舞っている。
 ぼんやりとソファに横になり、それを眺めていた男の頬が赤々と照らされ闇の中で燃えていた。

「冷えるだろう」

 僅かばかりの音を伴い、声は扉の方から聞こえてきた。
 足音はすべからく毛足の長い絨毯に吸い込まれて行く。片腕に下げた毛布は場違いな日向の匂いを芳しく振り撒いていた。

「いや・・・」

 ふんわりと投網のように毛布を広げ、ソファに身を横たえる男の上へ投げ込んだ。そのまま羽のような軽やかさでゆっくりと体を包んでいく。そうい
った気遣いなど一切不要に見える男の体をやんわりと毛布は包んだ。

「今夜は冷える」

「・・・そうか」

 顔の大半を隠した毛布の下からくぐもって声は響いた。暖炉から絶えず響く炭焼きのパチパチという音さえ、その小さな声を邪魔する事は出来な
かった。

「居眠りはお前の専売特許だったか」

「あんたに横取りされた気分さ」

 吐息のような笑いを漏らし、ゆっくりとソファを離れて行く背中を、男はまたぼんやりと見送った。
 がらんっとまた暖炉の中で炭木が崩れる。再び強く辺りを照らした火の中で、その背中に男は無意識に呼びかけていた。

「ロロノア」

 振り返った顔にチラチラと揺れる炎の影が映る。そのせいで表情は分からなかった。

「なんだ」

 平素と変わらぬ声に、男は息だけで微笑んだ。

 何処かで会い、またいつか、何処かで会おう。

「なんでもない」





 男――ミホークはゆっくりと目を閉じ、光のつぶてを遮った。























 ゾロがこの場所に来て、眼前を埋め尽くす緑の畝は幾度も季節を終えていた。



 くだんのゾロとミホークの決着は、嵐の中で、ゾロの渾身の一撃で幕を閉じた。

 だが結局ゾロの太刀はミホークの命までは届かず、雌雄を決した二人は互いに視線を通わせたまま、雨に濡れた甲板に落ちた。
 命を永らえる術は爆音とつんざく雷鳴の中で全精力を使い果たした二人に残されておらず、もはや共に海へと沈み行く命運を迎える覚悟を決め
たのだった。
 
 その後の記憶が、ゾロにはない。

 気づけば体中に真っ白な包帯を巻かれ、体はまっさらなベッドの上に横たえられていた。
 そこがミホークの居宅の一つであり、あの嵐の海の中からゾロの身柄を拾い上げたのが、ミホークの所有する数十隻の船の一つであると聞かさ
れたのは随分後の話だった。



 体中に走る刀傷はすっかり癒え、寒さに疼くけれどもゾロにとっては造作もない。
 しかし自惚れでなくミホークの負った傷はその比ではなく、冷えれば相応に鈍く痛むに違いなかった。
 刃で切りつけられた傷とは、そういうものだ。
 表面的には完治を見せても、その内でジクジクと神経そのものを喰らうように痛みは長く尾を引いた。
 誰よりもそれを知るゾロは、年甲斐もなくあちらこちらで怠惰な眠りを貪るミホークに火を与え、毛布をかける毎日が続いている。
 まるでよく知る誰かを見ているようで、少々居心地の悪い気分だった。

「木の芽時は、空が狂うな」

 振り返ると、ミホークが立っていた。
 小高い丘に造られた屋敷からは、どこまでも続く山や谷のうねりが遥まで見渡せた。
 どこまで行っても海の香りのしない庭園はゾロの故郷に良く似ている。
 その中にただ立ち尽くし、夕日が沈むのを眺めるのがゾロの今の日課だ。
 遠くの空では、暗雲の中から時折鋭い光と微かな遠雷が聞こえてくる。

 春雷だ。

「こちらへ来るかも知れんな」
「ああ」
 隣に並んだミホークの顔は見ず、ゾロは呟いて返した。
 あれきり一度もゾロとミホークは剣をあわせた事はない。
 今がその時でない事を、沈黙の胸の内は分かっていた。
 まるで憑物の落ちたように、二人の間にはただ穏やかな静寂が横たわっていた。
「そろそろ夕餉だ」
「ああ」
 足首までをすっぽりと覆ったマントの裾をふわりと翻すミホークの後に続く。



 それももう、終わりに近づいている事が、遠く春の嵐が告げていた。










 心の中に根ざした暗い影や、どうしてもやりきれない感情の端々を、切って捨てる作業にももう飽き飽きだった。
 認めないままここに留まる事は心地よい。ひと段落着いてしまった己の道行きに、そろそろ次の矢印をつける時が来ていることを、ゾロも恐らくは
それを見守るミホークも気づいていた。

 けれどもそれは同時に、二人を別つ別離のサインだ。

 そこに一瞬の躊躇もないとは言えず、ゾロは向かいで黙々と食事をするミホークを見た。
 猛禽に例えられるその目の鋭さに変わりはないのに、刃と刃を交えたあの瞬間に感じた、妄執に似た何かへの執着は綺麗に消え去っている。
それがミホークを浮世を漂う霞の様に変えてしまった原因なのかもしれないと思い、あるいそれが極めてしまった者の末路であるという事が出来る
かもしれないと思った。
 自惚れではなく、ミホークにとって自分はそのような存在であったと仮定する事は出来る。
 ではいつか自分もそのような存在に出会う事もあるのだろうかとぼんやりとゾロは思った。
 そうして自分を支配しうる絶対の存在を感じる時、必ずと言っていいほどゾロの脳裏に浮かぶ顔が確かにある。
 しかしそれが果たして自分とミホークとの関係を、そのまま反映しうるものであるのかは未だに分からない。

 何度考えたところで、未だ答えは霧の中だ。

「鳩の肉は嫌いか?」
 珍しく手の進まないゾロを訝って、ミホークが穏やかに問いかける。食事中は極力会話を交わさないのが常であったが、漂う空気の中に何かを感
じ取ったようなタイミングに、ゾロは顎を引いて曖昧に笑った。
「いや、ちょっと考え事をしてた」
「食事中に暗い物思いをするものではない」
 消化が悪くなる。説教臭い事を言うので、ゾロは思わず吹き出してしまった。
「あんた、たまに先生みたいだ」
「先生?」
「俺に剣を教えてくれた」
 ミホークにその話をするのは初めての事だった。
 その晩は珍しく食事中にも関わらず、色々な昔話をした。

 ミホークもした。

「剣に迷いを感じた事は?」

「迷いを断ち切るための剣だ」

 毎食のように同じ食卓につき、数え切れない夜の星を酒で酔わせた。
 それなのにこんな他愛のない話を、一度もした事がなかったのだとゾロは初めて気がついた。

「あんたは剣に何を求める?」

「それを見つけるために剣を握る」

 途中からは一方的にゾロが問い、ミホークが答えた。
 誤魔化すようなことは一切ない。食後のお茶も良く飲んだ。
 最後に一つだけ、ミホークがゾロに問いかけた。

「夜、寝る前に、思い浮かべる顔はあるか?」

 ちょっと驚いてゾロはミホークの顔を見た。
 赤い目の中に暖炉に灯った炎の影が揺らいでいる。陰影の濃い顔は驚くほど穏やかだ。

「・・・ある」

 頷いた。一度たりとも誤魔化さないミホークに偽る事などする気もない。
 ミホークはひどく満足したように口の端を吊り上げた。

「忘れぬ事だ、ロロノア。空虚な剣に重みはない」

 コトンとティーカップを置く。その中には炎の名残が踊っていた。

「・・・覚えておく」

 互いの目の中に刹那に浮かんだ感情を、二人同時に深く惜しんだ。








 

 重力に忠実にゆっくりと湾曲する背をぴしゃりと伸ばし、彼は朝の廊下を静かに歩く。
 元より毛足の長い絨毯に足音は巧みに吸い取られるが、片手にかかげた瀟洒な茶器がたてる音さえ皆無に近かった。
 朝の目覚めを一杯の濃い紅茶で迎える彼の主人は、未だ就寝中であろうか。
 山の向こうからゆっくりと昇り始めた朝日が、瞬く間に辺りの気配を塗り替えていく。
 幾つも穿たれた窓からもそれは入り込み、屋敷の中を清浄な光で何重にも満たした。
「・・・・・・?」
 下階から聞こえた微かな音に、彼は改めて耳を澄ました。あれは重厚な樫の木で作られた、正面の扉が開かれる音ではなかったか。
 目覚めぬ者の寝息さえ響くこの静寂の館で、早朝よりそうして活動している者は極限られた。

 まだ年若い、この館の主の客人だ。

 しかしそれさえこんな早くには珍しい。聞き違えかと思いなおし、彼はまたゆっくりと歩みを進める。
「だんな様。起きておられますか?」
 重々しい扉の前で、控えた声だが廊下に響いた。
 数舜の後、扉を等間隔で三度叩く。
 彼の主人は扉の外に気配を感じれば直ちに眼を覚ます。
 本来不要な仕種も、一種の敬意でもって惜しまず続けられている。
 しかし常であればすぐに返るはずの応が聞かれず、彼はもう一度、今度は少し大きく扉を叩く。
「だんな様・・・ミホーク様?」
 返らぬ返事に、彼はひたりとノブへ手を伸ばした。カチリと鳴って扉は静かに内側へと開く。
 寝室は、まだ冷め切らぬ夜の闇が色濃く匂いを残していた。
「ミホーク様?」
 寝台に見えない姿を探し、ぐるりと視線を巡らせれば、すぐに主の姿は見つかった。
 暖炉の前に置かれている、こちらに背を向けたソファの端から、毛布が覗いている。
「その様なところでお休みになられては・・・・・・」
 たたぬ足音を殺し、そっとソファを覗き込む。毛布の端からは、微かに黒い髪が零れていた。















「ミホーク様・・・?」



















































 朝っぱらからウソップの鼻歌が絶好調らしく、気がつけば甲板で寝ていたゾロの耳に軽やかに届いた。
 むっくりと体を起し首を鳴らす。いい加減慣れてしまった板張りの寝床に体はとっくの昔に降伏して、優先順位を眠りにあっさり明け渡したようだ。
寝入った記憶が全くない。気候の安定しないグランドラインで、相変わらずいい度胸であった。
「よーう。お目覚めカイ?お姫さん」
 柵縁に軽く腰を引っ掛けて、ご自慢の釣竿で今日の昼飯なり夕飯なりを調達しながら、ウソップの歌は第二章に及んでいる。
 ゾロは黙って甲板を這いずり、背後に回って柵に背もたれた。
「釣果を入れるバケツはどこだ?」
 未だに実用性はからっきしの彩色ばかりがケバケバしい釣竿を揶揄れば、ウソップはガンッゾロの肩を踵で蹴った。
「丁度いい場所で大口開けてるアホがいたんで、その口に突っ込んでやろうと思ってたのさ」
 生意気ばかり言いやがる。ウソップが忌々しそうに言うが、しかし軽口ほどに目は浮かない様子だ。
 ゾロは流石におや、と思い、ウソップの足首を引っ張った。
「なんだ」
 しかし問いかけたのはウソップの方だ。
 振り返ったウソップの目を見上げ、ゾロはまたおや、と思った。
「なんだ、そのツラは」
 面白がっているのか、それとも迷惑千万か。どちらとも取れない微妙な顔つきでウソップは肩越しに鼻を鳴らした。
「暇つぶしには事欠かねーが、どうも面倒ごとが多すぎるぜ、この船は」
 そう言ってウソップはちょい、と鼻先であさっての方を指した。
 今気づいたが、鼻先の示唆する前甲板辺りが少々騒がしい。何かあったかとウソップに目で問えば、やれやれと肩を竦めて返された。
「お陰で朝は豪勢なキノコ尽くしでまったくいい目にあったもんだぜ」
「あ?」
「コックさんはご機嫌斜めだ」
 何から何まで俺に八つ当たりしてきやがる。ウソップはもう一度鼻を鳴らした。
「俺はナマでも魚を喰うぜ」
 何となく背中が毛羽立って、ゾロは立ち上がった。
 背筋から首の辺りがざわざわする。
 ウソップがまた鼻歌を再開したが、節が外れて、少し、震えた。







 近づくと人垣がざぁっと綺麗に割れて、ゾロはなんだか不思議な気分だった。
 周りを囲む船員たちの目が、皆一様に不可思議な色を湛えている。
 しかしゾロにはもう周りのこと事なぞ、どうでもよかった。
「よお」
 人垣の中心には、見慣れたナミのパラソルと、その下に置かれた小さなテーブルがあった。
 その上にはたっぷりと水の入ったカップが置かれている。
 どうもそれが洗面台に置かれた歯磨き用のコップの様にゾロには見えたが、すうっと伸ばされた手にかかれば、まるで瀟洒な洋食器の様に見え
た。

「ヒマなのだろう?」

 黒い帽子のつばに隠れた双眸が、ゆっくりと現れる。
 懐かしささえ感じられるその言葉を、男は悠然と並べ立てた。

「勝負をしよう」

 ふうっと左右に引き上げられ、口元は限りなく獰猛にゾロの心に牙をたてた。

 ああ、この目だ。

 腰に据えた愛刀に、無意識に触れていた。
 キンッと嬉しげに鍔が鋭く鳴る。
 ゾロはうっとりと笑い返した。
 
 あんたには、やっぱりその目が良く似合う。

「・・・・・・いいだろう」









 鷹の目を持つ男と対峙するのに相応しく、ゾロは腕から手ぬぐいを抜き取った。






























end

(03/07/31)

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