暗闇の中で触れたサンジの肌は、驚くほど熱く、ゾロは慄いて何度も手を引いた。しかしその度にサンジはゾロの指 を包み、飽く事無くくちづけを繰り返す。いたたまれないような気持ちでいれば、サンジは本当に嬉しそうに微笑んだ。 「ゾロ・・・俺のゾロ・・・」 本当に恥かしくなるような言葉をサンジは何度も囁いて、もうやめてくれと言っても堪えなかった。 初めは恐々と触れてきたサンジの手が、段々と大胆にゾロの肌を暴いて行く。それにつられてゾロも真似るようにサ ンジの肌に手を滑らせた。 「お前・・・これ・・・」 体の正面、指先が探る背中。いたるところに薄く盛り上がった感触を感じてゾロは息を飲んだ。 「ああ。もう、なんともないんだ」 それは明らかに、件の海難事故の際に負ったものに違いなかった。 「もうお前に会えたから、どうでもいい・・・」 そう言ってサンジは目を細めて笑って見せた。 そんな訳がない。この指先で触れる範囲だけではない、光の元できっとそれは数を増やすだろう。 そしてその一つ一つが死に至るほどの傷であると。 「お前・・・」 急に胸の辺りがのしかかられた様に不安で重くなる。頭の奥が痺れるような悲しみでいっぱいになった。 本当に、お前は生きているのか?また俺を置いて消えてしまうのではないのか。 何年経ったところで忘れる事も、癒される事もなかった傷が、突然開いて血を流し始めたようにゾロは指先が急速に 冷えていくのを感じていた。 これが一時の事でないと、誰が言える? そうだ、今夜は。 境界線のない夜だ。 「ゾロ・・・どうした?」 触れていた指先が急に冷たくなった事に驚いたサンジが、じっと押し黙ってしまったゾロの額に、額を合わせてすり寄 せた。 温かい。それなのにそれが偽りでないと、ゾロには信じる事が出来なかった。 「ゾロ・・・?」 ちゅっと目元にくちづけ、頬を緩く唇で食む。耳を擽り、首の辺りにぎゅうっと鼻を押し付けた。 「サンジ・・・」 「え?」 そっと名を呼ぶ。サンジは素直にあどけない顔を上げた。 次の瞬間、ゾロは思い切りサンジの顔を殴っていた。 「ったー・・・。何でこのタイミングでコブシなんだよ・・・」 「あ」 ああ・・・歯ぁ折れたぁ。とサンジが左の頬を押さえて情けない声を上げた。 ゾロは殴った自分のコブシとサンジの顔をまじまじと見比べ、ふうっと息を吐いた。 「なんだ、本物か」 「な、何が」 か細い声で顔を上げたサンジの目が、殴られた勢いで深く潤んでいる。生理的な涙が今にも頬を伝いそうなほど痛々 しく目元を縁取っている。ゾロは困って、そっとその目元を指で拭った。 「お前死んでんのかと思って。・・・なんか、傷だらけだし」 「それで何で殴るんだよ」 「いや、何となく・・・昔そんなような事をウソップが」 「・・・あいつ、後で殺す」 抜けた歯を月明かりで検分したサンジは、なんだ親知らずか、と言って縁台の外へ放り投げた。 「天井に投げないと・・・」 「親知らずはもう生えないからいいんだよ」 「そうか」 ずれた顎を戻すように何度かガクガクと口を開閉し、サンジは口の端についた血を親指で拭った。 流石にこれは突然過ぎたかとゾロは思い、しかし咄嗟にこんな方法しか思いつかなかった事は後悔しなかった。 お陰で、これが本当にサンジだと信じる事ができたのだから。 サンジからは先ほどまでの切羽詰った感じがすっかり消え、昔馴染んだ懐かしい雰囲気で顔を上げ、クククッと喉で 笑った。 「なんか・・・本当に、ゾロなんだな・・・」 しみじみと、サンジは呟いて、じっとゾロの顔を確かめてからふにゃりと相好を崩して肩を落とした。そうしてへたりと座 り込んでいた浴衣の裾をきちんと直して胡坐をかいた。 「ゾロ」 「あ?」 「そっちへ行っても、いい?」 「何を今更」 「だってまた殴られたら、たまんねーもん」 俺、ふっ飛んじゃうよ。 何を馬鹿な事を、と言おうとしてゾロは止めた。 触れたサンジの体を思い出す。無理やりに筋肉を削げ落とされた跡が、痛々しいほど残っていた事を。 情けなく茶化しても、その何割かは本当の事なのだ。 ゾロは座り込んでいた畳に膝をつき、そのままサンジに近づいた。 「ゾロ・・・」 両腕を広げて嬉しそうに口元をうずうずさせてサンジはゾロを迎え入れ、ぎゅうっと腰の辺りに腕を巻きつけた。甘え るような仕種で頬をゾロの胸に押し付ける。ゾロはそうっとその頭を両腕で包んだ。 「ゾロも温かいな」 「暑苦しいの間違いじゃねーの?」 「生きてる音がするよ」 トクン、と鼓動が一つ波打った。ぎゅうっとサンジが力を込めるたびに、胸の辺りが熱くなる。内側からじわじわと炙る ように湧き上がる熱に、ゾロは困惑してサンジの髪にくちづけた。 「サンジ」 「ん?」 「サンジ・・・」 「うん」 「サンジ・・・サンジ」 「うん」 生きている。こちら側で。ゾロの傍で、生きている。 「ずっと・・・待ってた」 「うん・・・・・・」 一晩かけて、一時ではない夏の夜の再会を確かめた。 いつもの日課で、青年は高台に建てられた建物の庭先で、ベンチに座り込み海を眺めていた。 傍らに杖をたてかけたその足元は、ズボンの裾からか細い素足が突き出ている。不自然にこけた頬の辺りで陽が陰り、青年は年齢以上に疲弊 して見えた。 「今日も海を見ているの?」 横柄に背もたれに肘をかけた後ろから、身長ほどもある大きなぬいぐるみを持った少女が姿を見せた。 「やあ、レディ。今日も可愛いね」 ひょこひょこと前に回りこみ、ぴょこん、と隣に腰を下ろす。何がそんなに面白いのかと、少女は倣うように海を見た。しかしそこにはただいつもと変 わらない、目に沁みるほどに青い海があるだけだ。 「いつもと変わらないわ」 毎日ずっと、何時間も。季節が何度変わっても青年は海を見ている。 少女にはそれが不思議でたまらなかった。 「なあに?何が見えるの?」 一生懸命視線の高さを合わせるように背伸びをして、けれども最後には諦め少女はじっと青年を見上げた。 青年は微笑んで、少女の頭をそっと撫でた。 「明日、退院なの?」 やさしく問いかけると、途端に少女は花の様にぱあっと顔中で笑った。 「そうなの!やっとお家へ帰れるのよ!」 大好きなパパとママとサージェリックに会えるのよ。少女はぎゅうとぬいぐるみを抱きしめる。 少女の大切なお友達は、そのぬいぐるみに良く似たサージェリックという名の犬だ。 「そう、良かったね。おめでとう」 穏やかに、青年は笑みを深くした。 差し込んだ光に綺麗な髪がキラキラと眩く煌く。 少女はぎゅうっと青年の服の裾を掴んだ。 「・・・大好きな人に、会えるといいね」 何も知らぬはずの少女の言葉に青年は僅かに目を見開いた。しかしすぐにそれを笑みに変え、そっと、静かに少女の手を取った。 「うん・・・。会いに行くよ。必ず。この海の向こうへ」 青年はまた真っ直ぐに海に視線を投げかけた。 その視線の先は、きっと背伸びをしても見えない場所なのだろうと、少女はただ青年のキラキラ輝く金の髪を見上げていた。 「結局」 ナミはガラスの器に綺麗に盛り付けられた桃にそっとフォークを刺し、細心の注意を払って口元に運ぶ。途端に甘や かな香りが鼻先を擽った。 「収まるところに収まっただけじゃないの」 なんの事はなく、ケロリとナミが言うのでサンジは閉口してますます向かいで小さくなった。 「ナミさん・・・」 「皆知ってたわよ、サンジくんがゾロの事好きだなんて事。とっくの昔に。分かってなかったの、あなたたちくらいのもの だわ」 ん、おいしい、と嬉しそうに口元を押さえる仕種は愛らしいのに、言っている事はなんとも厳しい。 「それなのに勝手に消えたりして。しばらく大変だったのよ」 あ、しまった、と思ったが遅かった。案の定目の前ではサンジがニヤニヤしている。 ゾロを不幸にしておいて、喜んでいるのだ、まったくこの男は。 ナミはふうっと大きく息を吐いた。 「あーあ、馬鹿らしい!さっさとゾロに縁談でも持ってきておけばよかったわ!」 柱に寄りかかって足を投げ出し、げしっとサンジの正座をした膝を蹴ると、正座に慣れていないサンジは無言でテー ブルに突っ伏した。 「ナ、ナミさん・・・」 途端に情けない声に変わる目の前の男に、ナミは笑いを堪えて怒った素振りで頬を膨らませた。 「これからは精々、可愛がってやって頂戴」 「そ、それはもちろん!」 頬の辺りをほのかに赤く染めるサンジは随分と可愛らしい。ナミはますます可笑しくて仕方がなかったが、ここで甘い 顔を見せてはならないと気を引き締めた。 「それから、これからはちゃんと毎年、太鼓を叩いてね」 「え・・・?」 「だって、どうせゾロと一緒に住むんでしょ」 分かりきった事のようにナミが言うと、サンジはかあっと今度は首まで赤くした。 「ナ、ナミさ〜ん」 「だから皆分かってるって」 公認よ。とカラカラと笑うナミに、サンジはまたへたりとテーブルに突っ伏した。 |