眠りにつく前に




















 髪を撫でると、くすぐったそうに喉の奥で低く唸った。
 それが可笑しくて何度も同じように髪を梳くと、とうとう最後には手を捉まれ、そのまま口元まで導かれる。先ほどまで
眠りにまどろんでいた体は温かく、手のひらには体温の具現が小さく触れていた。
「珍しいな」
 寝ないのか?と窓際で眠る大きな猫が小さく笑った。閉じられたままの目元をガラス越しの春日が柔らかく撫でてい
る。温く溜まった空気が頬をほんのりと淡く色づかせていた。
 弾力の乏しい膝枕に猫は顔を押し付けるように甘え、大きく吸い込むように陽だまりの名残をその肺に大きく溜め込
み、何度か鼻を鳴らしてからゆっくりと目を開いた。
「いつもと反対だ」
 真上から見下ろしてくる下村の頬に手を伸ばす。触れた指先より一段冷たい頬に、目を細めて坂井は微笑んだ。
「そうだな」
 望むまま触れさせて、吐息の続きで下村が呟いた。落ち着いた声がまた眠りを誘う。坂井はまた目を閉じ、寝床を定
める猫のように寝返りを打った。
「・・・くすぐったい」
 こつんっと額を指で弾いて、下村が吐息で笑った。それに気を良くしてわざと笑いを引き出すように、坂井は二度三度
寝返りを繰り返した。
「坂井」
 ようやく咎めた下村の声は、しかし酷く甘い。いつもはどこか冷えた口調で話す男が、今日に限って春の日差しに解
かされたかのようにやわらかく甘やかだった。そんな風に下村が坂井に対して無防備に好意を見せるのは珍しい。そう
思えば余計に坂井は嬉しくなって、この貴重な時間を逃さぬよう、下村の不機嫌を引き出さない程度に我がままをのた
まった。

 常であればこうして陽だまりの中で、まどろんでいるのは下村の役目だ。しかし今日に限っては坂井がこうして下村の
膝でまどろんでいる。眠ってしまうのが惜しいような気がして、だがその心地よさには逆らえず、坂井はまた少しずつ霞
の中に漂い始めた意識で頬に感じる布越しの暖かさを大切な宝物のように感じていた。



 時々下村が夜中にうなされているのを知っている。

 それでも起きれば忘れているようだし、うなされている時に無闇におこしてはいけないと聞いた覚えがある。
 だからいつも下村がうなされている時、坂井はずっと頭を撫で続けた。
 そうすると下村は安心したように何度か大きく息をついてから、呼吸が穏やかになるのでやっとほっとするのだ。
 たとえば下村が年中昼寝をしていても、強く咎められないのにはそういう訳がある。
 どういう理由か、昼寝をしていると下村はうなされない。とてもとても穏やかな顔で、まるで子供の様に眠るのだ。
 だから坂井はそうやって下村が寝ていれば少し切ないような気になって、おこす事などできはしないのだ。

 まるで水の中にいるように、ゆらゆらと意識が上がったり下がったりする。不意に夢が現実と混ざって、物音が急に耳
元で聞こえて体が震えた。そうすると頬に暖かな感触を覚え、ぼんやりとああ、下村の手が触れていると思った。








 たとえば暗い森に差し込んだ一条の光だ。


 空気の連なりが体温を持って触れているような感触に、気持ちはやわらいだ。
 覚えのない暗闇の中に立っている空想や幻想、あるいは未来の姿を見るように。
 体の端が段々と引き込まれていく錯覚に、次第に呼吸が苦しくなる。
 それを解かす光の塊。
 あまりにも鮮烈な存在はイメージとしてしか認められず、目蓋に残る微かな匂いが陽の光に透かすと僅かに光って眠
りをどこまでも穏やかな方へと誘った。



 俺にとってお前がそういう存在であるように、お前にとって俺がそういう存在になれればいいと思う。










「・・・坂井・・・?」
「っあ・・・。おこしちまったか・・・」
 暗闇の中に幾つかの白いフラッシュが瞬いている。一瞬前まで感じていた暗闇とは違う現実の闇は軽く、部屋の隅に
カーテンの隙間から漏れた明かりが細い筋を造っていた。
 寝ている間に乱れていたらしい呼吸を、何度か深く繰り返す事で落ち着かせると、目の前はまたいつもと変わらぬ夜
の闇へと戻っていた。
「・・・寝てなかったのか」
 坂井のはっきりとした口調に、今まで眠っていなかった事は容易に知れた。
「いや・・・もう寝るよ」
 羽毛の波に埋もれたまま、坂井は右手を枕に首をおこし、こちらを覗き込んでいる。
 耳に触れた手が頬を撫で、首に触れる。そうして寝乱れた襟を直して手は離れた。
「・・・うなされてたか・・・?」
 時々一人で寝ているときに、自分の声で目覚める事があった。そうそうあることでもないから気にしていなかったが、
もしかしたら自分で思うより頻繁だったのかもしれない。
 そう思わせるくらいに、坂井の動作も物言いも自然だった。
「少し」
 闇に慣れた視界の中で、坂井は夜に似合った囁きで呟いた。
 坂井の声は不思議だ。張り詰めた底なしの闇さえも、穏やかで親密な闇に変えてしまう。
 こうして傍に居るだけで、呼吸がいつもより楽になる。
「もう一度、寝ちまいな」
 額に揺れたやわらかな体温に、目を閉じる。それはそのまま目蓋から米神を、頬を伝い唇に落ちた。
「ん・・・」
「おやすみ」
 羽毛よりもよほど暖かな胸が触れ、そっと背中に手が触れた。ゆっくりと音をさせないように坂井は動く。
 気遣われる事でこんなにも心が穏やかになるのは坂井が初めてだ。
 誰かの背中に寄りかかることは心地よい。しかしそれが諸刃の剣と知っているから、下村はどうしたってそれを選べ
ない。失ってしまえばそのまま倒れてしまう危うさを、自分の内に感じるから。
 だから誰の背中も必要とせず、時には突き放して生きてきた。
 しかし支えあう為だけにあると思っていた背中が、ただ触れ合い、存在するだけでどれほどに心を暖めるかという事
を、坂井が初めて下村に教えたのだ。
「おやすみ」
 眠りにつく前の、独りよがりな寝言のように下村は呟いた。実際声になっていたかどうかも定かではない。
 しかし坂井はただ穏やかに無言で、何もかもを包むように下村の体を胸の中に閉じ込めた。
 目蓋の裏に訪れた穏やかな眠りの闇は、ゆっくりと下村の意識をさらって行った。























(03/08/24)