「手を繋ごうか」 「え?」 「手、繋ごう?」 急に手を取られて驚いた。 慌てて顔を振り仰ぐ。真っ直ぐに射す月の光に、表情は翳って見えなかった。 「冷たいなあ・・・」 呟いて、そのまま深く手を絡めた。 しばらく無言のまま歩く。 朝にはまだ遠いはずなのに、辺りはやけに明るく眩しい。水面にはキラキラと光が楽しげに踊っている。 随分遠くまで歩いた。 後ろを振り返ってみたが、自分たちがいったいどこから歩いてきたのか良く分からなかった。 砂浜に残っていたはずの足跡は、いつの間にか満ち始めた波の行き来に消されている。 何となく気まずくなり、繋いだ手が心もとない。 突然不安が胸に押し寄せた。 指先が震える。何か大切なものを後ろに置き忘れているような気になって、心が奇妙に急いた。 「なあ。なあ、俺」 思っていたよりもずっと、舌が凍えて言葉が上手くのぼらない。もう片方の手で何度も強く唇を擦った。 「俺、なんか忘れてるみてェなんだ」 ぐいっと繋いだ手を引っ張ると、少し前を歩いていた足が止まった。 「なんかって?」 「分かんねェ。でも、なんか足りないんだ」 「必要なもの?」 「分からない。でも」 途方にくれて顔を上げる。 そういえば今まで足元ばかりを見ていた事に気がついた。 初めて顔を上げた視線の先。きっとこれから向かう先には、月よりも明るく光る塊が、浜辺の途中から先をずっと覆っ ていた。 「…あれ、なんだ。光ってる」 その時ばかりは不安を忘れ、驚いて問いかける。 同じように先を見ていた視線がまたこちらへ戻ってきた。 「花」 「花?」 「そう。月の下でしか咲かない花」 水面を煌かせる幾多の光よりなお鮮明に、その花は輝いている。 いったいどこまで続いているのか分からないほどのその広大な光の連なりに、ただ見惚れて全てを忘れていた。 「もっと近くで見れば?」 じっと先を見入る横顔に、突然触れられる。 繋いだままの手とは違い、驚くほど冷たく凍えていた。 「あ…ああ。でも…でも俺、やっぱり戻らねーと・・・」 その冷たさに、我に返った。先ほどまで胸を埋め尽くしていた不安が不意に再び心を覆った。 ぎゅうっと胸の辺りを強く押さえ、半ば振り切るように繋いだ手を切った。 「帰り道は」 「…ずっと浜辺を戻ればいいよ」 「そう?」 「ありがとう」 ここまでの礼を言う。 ちょっと驚いた顔をして、でも小さく笑って手を振った。 「またね」 「ああ、またな……くいな」 ゾロも笑って手を振った。 「それはお前…洒落になんねーよ」 ウソップが所望したのはあくまで面白い話だ。こんな臨死体験を切々と語られてもぞっとするばかりでちっとも笑えな い。 「えー?面白いじゃねーかよ」 ゴロリと転がりチョッパーの帽子をいじりながらルフィが言うと、ウソップが「黙らっしゃい!」と怒鳴った。 「あんな風に花に見惚れたのは初めてだ」 砂の国で見た長い夢を語る当のゾロもけろりとしたものだ。見当外れにどこか誇らしげでもある。 冬島生まれのチョッパーが、不思議そうに首を傾げた。 「俺も見てみたいなあ」 「止めとけ、チョッパー…」 お花畑の真意を知らない無邪気な言葉に、ウソップは唸るように待ったをかける。 そんなものを見るのは、一生に一度で十分です。 しかしやはりチョッパーには分からず、何かおかしいことだろうかと小首を傾げて周りをキョトキョトと見回している。 その仕種のあどけなさにゾロが笑い、皆も笑った。 夜も更け、眠りにつく前の半時ほどをこうして男部屋の床に転がって、他愛もない話をするのがいつの間にか日課に なっていた。 今夜は仕込みを早々に切り上げたらしいサンジの姿もハンモックに見える。 中央に座って工具を磨くウソップの周りに三々五々と男共が転がっていた。 「あの花は本当にきれいだった」 妙に懐かしげでどこか自慢げなゾロの様子が酷く場違いなような気がして、ウソップなどは早々にこの話を切り上げ たいのだが、ルフィは面白がって羨ましがり、ワクワクと先を聞きたがる。 「そっち行くと、死んじまうのか?」 「さぁなぁ、どうだろう。行った事ないから分かんねェな」 死の一歩手前まで歩いて行った者の自覚もなく、まったくゾロはいたって暢気だ。 ルフィなどは「俺の方が長く寝てたのに、見れなかった」と変な拗ね方をしている。 確かに砂の国で受けた傷は、招かれてもおかしくないものではあったのだが。 ゾロはブーブーと口を尖らせるルフィの横で、広げた毛布の上にゴロリと転がり、頭の後ろで手を組んで男部屋の天 井を眺めている。 「その花畑って、天国ってやつか?」 その隣に転がり、ようやく思い至ったらしいチョッパーが聞きたがれば、ゾロは少し考えるよう首を捻った。 「どうかな…俺は天国に行ける気がしねェが」 「な、なんで?」 びっくりして問いかけるチョッパーに、ゾロは何も答えなかった。ただちょっと笑って、チョッパーの鼻先を突っついた。 けれども多分、それでゾロの真意は皆に伝わってしまったろう。 俺は少し、人を斬りすぎた。 無関心の体でハンモックで煙草をふかしていたサンジが、苦々しく口元を歪めた事に誰も気づきはしなかった。 「天国が見えるかい?」 振り返ったゾロの目は、月明かりの下でただ無表情だった。 足音も気配も隠しはしなかったから、サンジが近づいて来ていた事は気づいていたろう。動揺した様子もない。 船首の横から前方を見ていたゾロの隣に並んで縁に背をもたせかけた。 「眠れないのか」 また視線を前方に戻したゾロが、静かに言った。 今宵は風も穏やかで波も低い。夜の迂闊な航行は危険だと碇はしっかりと下ろしてある。 「・・・なんであんな話、したんだ?」 夜気にシャツ一枚では少し心もとなく、口元を覆い隠すための小道具は上着のポケットに入れたままだった。 辛辣な口調を飾らずにいっそ言ってしまえと思うが、そうしたところで悪戯に反感を買うだけだと分かっている。言葉 の裏側にある真意を読み取って欲しいとただ望むのは、あまりにも身勝手だ。 サンジはじっと甲板の木目を数えて返事を待った。 しかしゾロは答えず、ただ沈黙のうちに微動だにさえしようとしない。木目を五十まで数えたところで、サンジは顔を上 げた。 「忘れもんは、見つかったのか?」 じっと、ただ前を見つめるゾロの横顔を見た。 雲は月を隠し、小さなランプがちらちらと影を巧みに変えながら二人の間を照らしている。 また幾つかの時を数えた後、ゾロはゆっくりと視線の道筋を探すような慎重さで振り返った。 「…どうかな」 目は今宵の波の様に静かに凪いでいる。 しかし果たしてその胸の内はどうだろうかと、サンジは深くその目を探った。 「あんな夢の話、すっかり忘れてた。…なんでだろうな。急に思い出した」 しかしまるで何もない風にゾロは口元で小さく笑った。 深く陰影を刻んだその一つ一つがいっそあからさまにサンジの気持ちを波立たせる。 あまりに静かなゾロの気配は、用意周到で気味が悪い。無意識なら寂しく思うし、意識的ならなんと残酷な男だとサン ジは思った。 ほんの小さな隙間にさえ、サンジを立ち入らせないその潔癖さを。 「俺は俺のした事に、これっぽちも後悔なんてしてないが」 海原に背を向け、サンジに倣って縁に背を預ける。 ゾロは自嘲気味に目を伏せ、考える時の癖なのか、何度か手を開いたり閉じたりした。 「誰もがそう思うかは、また別の話しだ」 最後に閉じたところで、ゾロはそのままその手でサンジの胸元にトン、と軽く触れた。 「…心配させたか」 「そんなんじゃ…ねェよ」 そっとその手を払うために触れた手は、けれどもそのまま離すことは叶わなかった。触れた冷たい体温が、サンジの 指先を引き止める。そのまま両手で硬く握られたこぶしを包んだ。 「そんなんじゃねェ」 最後にお前を引き止めるものは、その約束の言葉だけなのだな。 まるでお前は、そのためだけにこの世界に留まっているかのようだ。 言えない言葉を、サンジは深く飲み込んだ。 何よりも、何よりも。その小さな約束の一つ一つを、ゾロがどんなにか大切に思っているか知っているから。だからサ ンジは言えなかった。そしてその中に、自分が居ない事を知っているから。 だからサンジは。 「月。眩しいくらいだな」 厭う事もなく右手をサンジに預けたまま、ゾロは反対の手で視界を庇いながら空を見上げた。 サンジもつられるように空を見る。 あまりに強い月の光に、周りの星はかき消されたように真空の暗闇が広がっている。それでも空の端の方では幾つも の星がチカチカと輝いていた。 そうやってかき消されても、星が本当に消えてしまったわけではないように。 サンジは目を閉じ、最大限の細心さで手の中のゾロの体温を吸い込んだ。 それはまるで祈りのようだ。 お前の中にある、光り輝く「約束」の前に、たとえこの気持ちが暗闇の中に塗りつぶされしまったとしても。 それでも俺は、お前の事を想っている。 夜の闇の中に取り残されても、なおお前を想う俺をせめて許して欲しい。 穏やかに過ごす夜の中で、少しずつ近づいていく心を、お前を裏切ってその先を求める俺を。 永遠に伝えずに居る事と引き換えに。 「なあ」 ふっと手の中から逃げた存在に、サンジは目を開けた。それと同時に声がかかる。泣いてはいないだろうかと心配に なりながら、サンジは振り返った。 「ん?」 ゾロはいつの間にかきちんとこちらを正面から見据えていた。先ほどまでの穏やかな空気が何か違うものに取って代 わられている。 その様子にサンジはさっと顔色が変わり、息を飲んだ。 何か悟られるような事をしただろうか。今、俺は何を言った?何をした。 手に触れる。肩に触れる。時には抱きついたりする事も、今ではサンジに許された精一杯の楽しみだった。初めの頃 は嫌がっていたゾロも、根負けしたのか最近ではサンジの好きにさせている。とかくスキンシップの好きな男だ、位に思 っているのかもしれない。 どちらにしろそれ以上の事はしていないし、サンジには出来ない。 そして今も同様に、その手に触れていただけだ。 それなのにいつもと様子の違うゾロに、サンジは訳もなく責められる子供のような気持ちでじっとゾロの言葉を殊勝に 待った。 しかしゾロはこちらを凝視したまま何も言わず、月の元で金色に反射する虹彩でサンジを見据えているばかりだ。 サンジは焦り、焦りは動揺を呼んで視線を落ち着かなくさせた。 「な、なに」 鈍感な振りをして、本当は誰よりもゾロが聡い事を知っている。もしかしてとっくの昔にばれていて、今までその特有の 分かりづらいやさしさで知らぬふりをしていたのだろうかと、不意にサンジは不安になった。 それでも叶えられぬ事への償いに、サンジが触れる事を許していたのだろうか。 サンジは目も眩むような羞恥を感じた。 しかしゾロは一転して屈託なく笑うと、とん、とサンジの胸を軽やかにコブシでもう一度叩いた。 「お前の髪」 「え?」 髪、と言われて咄嗟に手を頭に伸ばす。何かついているのだろうかとそのまま撫でると、ゾロはますます笑みを深め た。 「あん時の花に似てる」 言って、ゾロはまたカラリと笑った。 それがあまりにも晴れやかで影がなく、何処までも無心である事にサンジは急に胸が苦しくなり、叩かれた胸をぎゅう っと掴んで、けれども精一杯の力で微笑んだ。 「俺の・・・髪?」 ゾロは笑って答えなかった。けれども口元が、優しくサンジの言葉を肯定する。そうすれば胸の苦しさは絶望の苦味と 甘い痛みに即座に変わり、深く心を突き刺した。 その場所で、お前が見る最後のものに、お前は俺を思い出すのか。 この世の終わりに訪れる美しい情景をなぞらえて、サンジの髪を語る残酷な男。 いつか、どこかで。俺の知らない場所で、きっとお前は今度こそそこへ行ってしまうのだろう。 その海辺を歩き、うつくしい花の中を歩いて。俺の手の届かないところへ。 けれどもその時、お前は俺を思い出す。 昔、そんな男も居た事を、そんな髪をした男が居た事を。 永遠に伝える事も叶わず、いつか必ず自らと道を違えるその男を、サンジは恐らく一生に一度の気持ちで大切に思 う。 一生の宝物のように。 永久に消せない痛みのように。 |