真夜中の道上を、手を繋いで歩いた。 強引に繋いだ手に、文句も言わず下村は黙っている。 煌々とした街灯がアスファルトに弾かれ、白いビルや商店にぶつかり乱反射する。まともに焼きついた目の奥が鋭く 痛んだが、目を瞑るのが勿体無いと坂井は思った。 道は真っ直ぐに伸びている。 あまりに真っ直ぐなので、終点はしぼんで不可視の世界に消えている。どんなにその先を見極めようと目を細めても、 そこはぼんやりと闇の中に消えていた。 カチン、カチン、と信号機は赤や黄色が点滅を繰り返し、道路には車どころか酔っぱらいの影もなく、明け方になれば 建物の合間を縫う新聞配達のバイクもなかった。ただ道のところ何処に点在する、ゴミの山が小さな影を作っている。 荒らすネコの姿も見当たらない。街灯の周りに僅かに小さな羽虫が飛んでいた。 下村は少し俯いて黙っている。白い光があたる頬の辺りが痩せて見えた。 下村が体調をよく崩すのは、失くした左手のせいだ。 繋いだままの暖かい右手をぎゅうっと握る。下村も僅かに握り返してきて坂井をほっとさせた。 桜内が言ったのだ。 普段は気にする必要はない。不便さにはやがて慣れるだろう。 けれども。 坂井はゆっくりとした足取りで先を急ぐ。 下村を逃がさないように。 このままどこかへ連れ去る為に。 外れない生身の右手を持って、ずっと離さず。 下村が顔を上げた。疲労の影が薄っすらと目元を覆っていた。 それでも真っ直ぐに上げた目は道の先行きを思うように思案にくれ、細かなものさえ見逃さぬ強さで穿っている。 坂井はそれが怖ろしく、慌てて歩みを止めねばならなかった。 どうした、という言葉は喉の奥に立ち消えた。 下村はまるで昨日か明日を見るように、真っ直ぐに前を見ている。 坂井など忘れた風に。 「し、下村」 ようやく絞りだした声はみっともなくかすれてひっくり返った。繋いでいない方の掌がじっとりと汗ばむのが分かる。 体は決して忘れたりしない。 失われた左手を。 失くした体が探すのだ。 己の一部を。 奇妙なほど静かな気配は、ともすればそのまま消えてしまいそうなほど儚く、ものも言わぬ姿はまるで作り物のようで 余計に怖ろしい。 暖かいはずのその右手さえ、今にも体温を無くすのではないかという懸念に坂井は息を飲んだ。 だが下村は案外にすんなりと坂井の方を振り返った。じっと開いた目がこちらを見ている。何を考えているのか分か らないその奥が、一瞬街灯を弾いてキラリと光った。 「もう、帰るか?」 拾えるタクシーもないが、下村の自宅までなら徒歩でもそれほどかからない距離である。このまま何処までも真っ直ぐ に進めば海に出てしまい、帰るに骨を折る事になるが、今ならば取り返しはつく。 真夜中に突然訪れて連れまわしたあげく、何を言うのだというところだが、坂井は半ば本気で下村の体を慮った。 握った手の暖かさが、尋常の体温だけではないと、だいぶ前から気づいてはいたのだ。 「…気は済んだのか」 意味も分からず付き合った下村には相応しい言葉だった。 無気力ではないが無神経なほど頓着しない男だ。手の届かないところを放棄している感もある。有体に言えば、どう でも良かったのだろう。 坂井は落胆を上手に笑顔に代え、いっそやさしい程の表情で頷いた。 「…そうか」 ぽつん、と下村は呟き、また俯いた。何を考えているのかは到底分からない。そう思えば坂井はどうしようもなく哀しく なり、倣うように俯いた。 いったい下村はどう思っているのだろう。 真夜中に強引に合鍵を使って自宅に入り込み、眠り込んでいた身をたたき起こして連れまわしたあげく、手を繋いで 真夜中の街を歩かせる、勤め先のただの同僚を。 ゾッとした。想像だ。だがきっと真実だ。 どうでもいいと思っているのだ、下村は。坂井がどう思っていようと、どうでもいいと。あるいは店での関係をスムーズ にするための、付き合いくらいのものとでも思っているのか。 どちらにしろ下村が理解を放棄した範疇でしか接する事が出来ていないという事実が怖ろしく、咄嗟に坂井は下村の 手を強く握り締めていた。 「…もう少し」 不意に下村が口を開いた。 驚いて振り返る。だが下村は俯いたままだった。 「もう少しだけ、歩いてもいいか?」 それこそ驚いて、坂井は何も言えずにただじっと下村の横顔を見た。長く伸びた前髪が表情の大半を隠している。薄 く開いた口元だけが覗いていた。 「でもお前、体…」 具合が悪いだろうに。いや、そんな事ではなく、そもそも無理やりに連れ出したものを、何をしてそんな事を言うのだ。 混乱した頭が正確な答えを打ち出す宛てもなく、坂井はじっと下村の顔ばかりを見ていた。 「俺は、平気だ」 だから、もう少し歩こう。 そう言って、下村は顔を上げた。相変わらず愛想の欠片もない、疲れた顔だったが目だけが明るく光を灯したように キラキラと濡れている。坂井は一気に胸の辺りが苦しくなり、ぐっと息を飲んだ。 「…ああ」 そのまま止まりそうになる息を何度か吐き出し、頷いた。下村はそれを確かめると僅かに考えるように首を傾げ、しか しすぐに正面にまた向き直って歩き出した。慌てて下村の後に続く。手は繋がれたままで坂井はすぐに追いついた。 なあ、なんで?なんでお前はそんな事を言うんだよ? なあ、どうして。 言葉はことごとく胸の中に広がってそのまま消えた。 一度問うてしまえば、終わりのような気がした。 真夜中が明ける瞬間の朝もやの中に、消えてしまいそうな気が。 何処へ続くか分からない真夜中の道を、下村と手を繋いで歩いた。 下村の「少し」が、いっそ永遠ならばいいと思いながら。 (03/10/20) 終 |