時には静かに























 はらはらと空から染み出すように降り続く雪を、坂井は珍しいものを見るような目で見上げている。下村は隣で、その
姿を不思議そうに眺めていた。辺りは暗く、遮るものさえない浜辺の砂に、雪はゆっくりと消えていく。かすかな漣は、雪
と共に消えてしまったかのような静けさだった。
「…そんなに、珍しいか?」
 その問いかけに、坂井はようやく首を戻して振り返った。頬や額が僅かに濡れて光っている。手を伸ばしてぐい、と拭
くと、くすぐったそうに片目を瞑った。
「そうだな、ここら辺は滅多に降らねぇから」
 残りは自分で拭いながら、坂井はずっと遠くの沖に視線を移した。
 N市は温暖な気候で、降雪とは縁遠い地域だと聞いたことがある。生まれた場所では大量に、その後暮らした場所で
は適度な雪の中で暮らしていた下村には、期せずして訪れた冬の知らせに坂井が感じている事こそもの珍しい。そぞ
ろまた空を眺めている坂井を眺めながら、冷たく凍えた指先をポケットで隠しながら、ただ黙って隣に立っていた。
 毎年、三十日には仕事納をし、翌日から明けて七日まで休暇に入るブラディドールだが、故あって坂井と下村は大晦
日の今日まで本社に出勤だった。その仕事も滞りなく夕方には終了し、同じく休日出勤していた経理の面々と別れた足
で、二人はどちらが誘うでもなく海沿いの道に車を走らせた。その間、特に何か話すでもなく、それぞれ物思いにふけっ
ていた時、それはフロントガラスに舞い降りた。雨と違って音もなく、さりとて姿は炯々と光を弾き、坂井は思いついたよ
うに浜辺の道路に車を止めた。それから小一時間、二人はこうして浜辺に立って海や空や、時には互いを眺めてい
る。相変わらず言葉は少ないが、それが不快な相手ではなかった。
「消えてく」
 ぼそりと呟いた坂井の言葉を、聞き逃すべきか少し迷い、だがこちらを振り返ったその目が、何かを訴えるようであっ
たから、下村は口の中で幾つか言葉を探したものの、結局唇に乗る事はなかった。
「寒いか」
「いや、そんなには」
 今日は木製にしてよかった、と思った。ブロンズでは冷えすぎる。厚手のコートを着込んでいるので、体はそんなに寒
くはない。ただ足先の感覚が、先程から少しずつなくなっているような気がした。どちらにしろ、本当に寒ければ車に戻
ればいいだけの話だ。一緒にいてくれと言われたわけではない。坂井もさしてそれを望んでいる風でもなかった。
「そろそろ戻るか」
 静けさをはばかるように、坂井は先程から常にはない小さな声でぼそぼそと話す。唇を動かさない、あの独特な話し
方とも違う、そっと、誰かに聞かれる事を恐れるように慎重さで。こんな夕暮れもとうに過ぎた真冬の浜辺に、一体誰が
いると言うのだ。見渡しても時折道路を通り過ぎていく車のライトくらいしか見えるものもない。大体、ぽつんと何をする
でもなく突っ立っている人影に、進んで近づく物好きなどいやしない。
「もういいのか」
「ん」
 短く頷き、後はいつも通りの潔さで踵を返す坂井に、下村は黙ってついて行く。引き止める事も促す事もしない。好き
なようにすればいいのだ。思う様に、思う通りに。













 流石に体が冷えていたのか、車に戻った途端坂井は歯の根が合わなくなり、かちかちと唇を噛みそうな話し方をしば
らくしていた。こちらも負けずに歯の根の合っていない下村は、そんな愚考は冒さず、頭の上げ下げで答えたが、横着
するなと怒られた。
「これからどうする?」
 車も体も温まり、すっかり感覚の戻った指先で左の手首を撫でていると、銜え煙草の不鮮明な言葉をもごもごと坂井
が口にした。
「どうするって…家に帰る」
 そろそろ夜も更け始めている。一年の最後の日に、たまには湯を溜めてゆっくり浸かって温まるのもいい。僅かに痛
む手首に触れ、眺めた窓の外は街灯もない暗闇が一面を埋め尽くしていた。
「じゃあ、もうちょっと付き合えよ」
「構わねぇけど」
「…よし!」
 突然車をスタートさせ、鼻歌を歌い出した坂井に何なんだと疑問が湧いたが、特に用事も文句もなく、下村は黙ってシ
ートに背中を埋めた。
「ニューイヤーパーティ?」
 憶えのある街道に目的地の予想がついて問いかければ、案の定キーラーゴへ向かう道程で、下村は声を上げた。
「毎年やってるけど、俺も行った事はないんだ。だからたまにはいいかな、と思って」
「ふうん」
 別段異論はなく、気を良くした様に食事の豪華さや顔を覗かせる見知った面々の話をしがら、お前は食事がメインだ
ろうとからかえば、お前は酒がメインだろと笑われた。
「前からさ、誘われてはいたんだけど、お前はあんまり好きじゃないかと思ってさ」
「そうでもねぇけど」
「そうか?」
 ちらりと寄越した目だけで笑って、それが見透かしたように見えたから、なんとなく気に入らず黙り込んだ下村に、坂
井は笑ってハンドルを切った。















「賑わってるな…」
 ホテルのロビーからカフェテラスまでを華やかに飾り、新年今や遅しと待ち構える客たちが、めいめい食事や酒に興
じている。宿泊客だけではなく、普段からバーやレストランを利用している客、果てはレナの常連まで参加しているらし
い。その盛況ぶりに流石に面食らった下村だったが、直にこちらを見つけて近寄ってきた秋山に、逃げ出す機を完全
に逸してしまった。
「珍しいじゃないか」
「どうも」
 秋山は、娘をして「スクエア」と言わしめるスーツをきっちりと着こなし、しかしながら堅苦しさよりも柔和さを感じさせる
笑顔で手を上げた。
「ただで飲み食いさせてもらおうと思って」
 笑って答えた坂井の視線が、ちらりとこちらを窺った事には気づいたが、あえて気づかない振りをした。すると視線は
直に離れ、秋山と二三言葉を交わしてまた分かれた。支配人がいつも通りの気安さで、親しい人間と話している時間は
あまりないのだ。方々から声をかけられる後姿を見送りながら、また坂井が窺うような視線を寄越した。今度こそそれ
を正面からまともに受けると、坂井は驚いたように目を瞠った。
「なんだ」
「いや…」
 曖昧に濁すやり方は、どちらかといえば下村の得意分野だ。直情型で何事にも区切りをつけて物事を進める坂井に
は珍しい態度に、腹の探り合いをせざるを得ない状況かと訝った直後、諦めたようなため息がその口から漏れた。
「帰るか?」
 見当はずれな心配に眉を上げると、逆さ鏡のように坂井は眉を下げた。情けないといえなくもない表情に、流石に堪
らず吹き出すと、今度はきゅ、と顔を顰めた。
「笑うな」
「笑ってない」
「笑ってるだろッ」
 どん、と胸をつかれて抗議を受けても、簡単には納まらない。人前を考慮に入れて、懸命に堪えるのがまた気に入ら
ないらしく、恨めしげに睨まれた。
「お前が思ってるほど、俺は人嫌いでも偏屈でもないつもりだが」
 くっくと息を漏らして弁明しても、坂井は聞く耳を持たず、ますます顔を顰め、もう耐え切れぬという風に下村の左手を
取った。
「帰る」
「まだ酒の一滴も飲んでないぞ」
「帰るッ」
 ぐいぐいと人の間をすり抜けて、坂井は駐車スペースへ繋がる出口へと進んでいく。ようやく納まりかけた最後の笑い
を右手で隠し、下村は後姿に小さく呟いた。
「お前のところで飲めばいいか」
「え?」
 振り返った坂井の顔の間抜けさに、下村は今度こそ誤魔化せないような、盛大な笑い声を上げていた。















 坂井が時々、とんでもなく回りくどい方法で家へ招こうとする事を知っている。そんな時下村は、わざと気がつかない
振りをして、坂井の後を黙って着いて行くのだが、それでも坂井はなかなか言い出さず、段々と中学生くらいに戻った気
分になるのだった。
「さむッ」
 慌てて入れたエアコンも、ぶん、と音を立てたきりなかなか動き出さないような寒さの中で、下村はさっさと上着を脱い
だ。坂井はそのまま台所に駆け込んで、コンロに火を入れ、薬缶をかけると、今度は風呂場に湯を入れ始めた。なんと
も甲斐甲斐しい様を眺めながら、いつの間にか止んでしまった雪の名残を窓の外に探してみるが、ぽつぽつと灯った
家屋の明かりが見えるだけで、残念ながら目当てのものは見つからない。だが下村にしてみれば進んで鑑賞するほど
珍しいものでもなく、傷を疼かせるだけでしかない。そのままぼんやりと窓辺に佇んでいると、微かに湯の気配を引き連
れて坂井が隣に並んだ。
「湯に浸かった方が早い」
 そうか、と返すものの、その後が続かない。坂井の部屋へ来るのが初めてという訳ではないが、流石に風呂を借りる
のは初めてだ。大体店が終わってから立ち寄り、弾むでもない会話を少し交わして帰るだけだ。あとは休みの日に例
の遠回しで回りくどい方法で誘われるまま訪れて、坂井が作った食事を食べて帰る。そんなところだ。さてどうしたもの
かと視線を窓の外に戻した時、突然腕を捉まれた。
「下村」
 正面きって名前を呼ばれ、一瞬戸惑った。はい、と返すのもおかしいし、無言で通すのも目の前に居ながらおかしい
ものだ。しかし結局は返答に困って首を少し傾げて答えれば、坂井はちょっと視線を彷徨わせ、しかしまたすぐに戻し
た。
「下村」
「なんだ」
 反射で答えたようなものだったが、坂井は酷くほっとした顔をした。何故そんな顔をすると聞いても、きっと坂井は答え
ないだろう。どうせお前には分からないだろうと、ちょっと困った顔をして。それが時々下村をどうしようもなく苛立たせる
事を坂井は知らない。下村も言わない。言ってもどうせ分からない。その堂々巡りの輪の上に二人は常に立っている。
抜け出せない。それが辛いと坂井は言うのだろうか?それとも自分が辛いのだろうか。分からない。坂井と居ると、分
からずに戸惑う事ばかりだ。以前はこんな風ではなかった。他人と自分とははっきりと別たれて、他人と自分とは違う線
上に立っていた。その線は、時々触れ合う事はあっても決して交わらず、繋がる事などありえなかった。だから理解の
できない他人に苛立つ事もなく、逆に理解されない事にも不満はなかった。自分とは違う。それだけだった。
 だが今は違う。いや、正確に言えば坂井は違う。
 坂井の一々が気になり、理解しようと努め、いつの間にか理解される事を喜んでいる。坂井と自分との境界は気がつ
けば薄れてしまい、今では切り離す場所が分からなくなってしまった。それがいい事なのか悪い事なのかは分からな
い。ただ確かなのは、その苛立ちを和らげる方法を、坂井も下村を知っているという事。だがそれを言葉にするべきな
のか図りかねているのだった。
「下村…」
 繰り返し名前を呼ぶだけの、拙い坂井のその目に、下村は一瞬全てを忘れた。
 賢しい計算も、打算も、戸惑いも、苛立ちも、気遣いも、押し止めていた優しささえ。
「しもッ」
 大人を真似る小さな子供の様な、ただ押し付けるだけのくちづけだった。
 瞬きの間に離れた下村に、坂井は呆けたような顔をして、だがすぐにみるみる顔を赤らめると、まるで激昂した様に
肩を怒らせ、それなのに驚くほど優しい仕草で、下村をぎゅうと抱きしめた。
「さ…」
「俺は」
 問いかけを遮る坂井の言葉は力強く、何ものも譲らぬという確固たる決意のようなものを含んでいた。
「お前を放したくない。今も、明日も、あさっても。ずっと、お前を放したくない。……お前が、好きだ」
 最後は耳元で小さく、隠し事を教える幼子の様に恥ずかしげだった。その様に下村は背筋に走る何かを感じ、かくり
と膝の力が抜けた。そのままずるずる座り込む下村に合わせて座り込んだ坂井は、ますます深く下村を腕に抱きこん
だ。
 あまりにも簡単に破ってしまった、破られてしまった均衡を惜しむより、単純に胸の中で星が弾ける様なむず痒い感
覚に心が浮き立ち、否応なく気が抜けた。そして頭に浮かんだのは、これで真っ直ぐ坂井の家を訪ねられるという事だ
った。 















「あけましておめでとうございます」
「おめでとうございます」
 三つ指を突きかねない丁寧さで挨拶する坂井を目の前に、下村は些かぼんやりとした体で律儀に答えた。頭が未だ
にはっきりしないのは深酒のせいかはたまた他の原因か。年が明けて初めて見る坂井の顔は、驚くほど清々しく晴れ
やかだった。挨拶をして満足したのか、寝室から鼻歌混じりに出て行く坂井の後姿を見送り、なおもしばらくぼんやりし
ていた下村だったが、元々客商売の家に育った身は、元旦からぐうたらしている事を習慣的に嫌い、勝手に手足は動
いてきちんと身支度を整え寝室を出た。途端にふんわりと温かで美味しそうな香りが腹をくすぐり、ふらふらとテーブル
へ近寄ると、きっちりと正月の朝にふさわしい食卓が用意されていた。
「おい、これ…」
「旨そうだろ?キーラーゴの特別御節だぜ」
 顔洗って来いと、タオルを渡され、言われた通りにして戻ると、おとその用意も整っていた。
「ほら、座って」
 いそいそと下村に椅子を勧め、向かいに座った坂井は、酒を注ぎ分けて下村を促した。
「新年に。それから」
 そこで区切って、一瞬躊躇した坂井に、下村はニヤリと口元を歪めた。
「…三々九度でもやるか?」
 呆けた坂井に意趣返しできた事を確かめてから、下村は杯を掲げて一気に飲み干した。してやられて悔しがるどころ
か、坂井は嬉しそうに笑って、三度に分けて杯を飲み干した。



































(07/01/08)