くしゅん、と声がして振り返ると、丁度ゾロが鼻をぐしぐしと擦っているところだった。 外の気温は零下三十度。夜が深まればますます冷え込みは酷くなる。シャツ一枚でフラフラするには、死ぬ覚悟が必 要だった。 「何やってんの」 サンジは思わず呆れた声が出て、しかしゾロが気にした様子はない。多分自分でも少しばかり馬鹿な事をしていると いう自覚があったのだろう。ちらりとこちらを見ただけで、ベンチの端っこに座って引きずっていた毛布をかぶった。 とっくにきちんと片付いて火の落ちたキッチンではあったが、船の中では比較的暖かい。男部屋などは暖房器具がな い上に海面に接しているせいで倉庫などよりよほど冷える。流石のゾロもそこへ行く気にはならなかったのか、サンジ の言葉に対するにも、ある程度の覚悟が見て取れた。 先を急ぐ航海でなければ、夜の闇の中を無理に走らせる事をナミはしない。今夜も日が落ちれば早々に碇を落とし、 船は帆をくるくると巻き込んだ。そうして行方の知れない航路にひと段落すれば、至って暢気な船員たちは見張りを立 てる気など更々なく、寝酒もそこそこに早々に寝床へ帰ってしまった。 結局取り残されたサンジがいつもの通り片づけをしているところへ、普段は警戒して近づかない剣士が一匹、引っ掛 った。 「そんな恰好で外に居て、よく平気だなあ」 ゾロはシャツ一枚で毛布に包まっている。そういえば、と思って振り返ると、何故かゾロと目が合った。 「…なに」 「なんでも。お前こそ、なに」 「いや、お前さっきは上着、着てなかったっけか?」 頭にまで毛布を着ていて、ゾロは目だけを出して丸まっている。それが珍しいと思い、サンジはコンロに向き直ってカ チンと火をつけた。 「なんか飲むだろ?」 「ん」 ずず、と鼻を鳴らして返事を返す。いつもなら必ず「酒」と一言つきそうな場面だが、ゾロはそれきり黙ってしまった。 サンジは一つ溜息を落とし薬缶に水を差した。 しばらくするとシュンシュンと薬缶が吐息を吐き始め、なんとなくぼんやりとそれを待っていたサンジは、やけに静かに なってしまったゾロを振り返る事が出来ずに居る。別段喧嘩をしているわけでもなく、何がしか気まずい思いをしている わけでもないのに、何故か振り返る事が出来ないのだ。注ぎ口から湯気を吐く薬缶をじっと見ながら、強く視線を感じる 背中が気になって仕方がなかった。 今日に限って妙に見られているような気がするのが気のせいであるのか否か。 サンジはかちんと火を消し、茶葉を取り出し茶を煎れた。一連の動作にも一々視線を感じ、またおそらくはそれが気 のせいではないとサンジはそろそろ諦めた。 こんな時のゾロは何を言い出すのか分からないからサンジはどうしたって身構える。 それが幸いなニュースであれば構わないが、なかなか言い出さずに黙り込んでいるゾロを見れば、どうしたってその 逆を想像してしまうのだ。 そんな風だからいつもサンジは情けなく指が振るえ、今だってカチカチと持ち上げたポットの蓋の縁が触れ合って細 かな音を立てた。 「一度部屋に行ったんだけど」 突然ゾロが話しだしたりするからサンジは瞬間びくりとして、からんとポットの蓋を取り落とす。それにゾロが息を飲ん だ。 「…なに」 「わ、悪ィ」 溜息を一つ落とし、ゾロがごそごそと背後で蠢いた。蓋を拾う振りでちらりとゾロを窺うと、ぼんやりとあらぬ方向を見 上げていた。 まるで見えないものを見ている猫のようだ。 それに少しぞっとして、サンジは構わず茶を煎れた。 「寒いから出て来ちまった」 その時上着を忘れたのだ。何か理屈に適っていない気もしたが、サンジは特に言及せず茶を煎れる。こぽん、とかす かな音とふんわりと上がる湯気にサンジの気が少し紛れた。 「ふうん」 二人きりになるとゾロはサンジに対してどうしたって頑なだ。色々とちょっかいを出した前例があるので、サンジもそれ を責められないから、だからこんな風に気のない返事をわざと返せば、ゾロは逆に安心するから、サンジは目一杯関 心のないフリをする。 とんだ茶番だと、腹の中で自嘲しながら。本当は気になって気になって、仕方がないくせに。 「ありがと」 こつん、と小さな音をたてて専用の湯飲みが目の前に置かれて、初めてゾロの視線はこちらに帰った。あちらこちらと あらぬ方向を見ていたことはあえて聞かない。何故そんな事を聞くと、不思議そうにでもなられたらかえって怖い。 「どういたしまして」 もう一つ、自分の目の前にもカップを置いてゾロの斜め前に腰掛ける。あまり近寄るとあらぬ警戒を呼ぶので、深くは 近づけないのだ。 ゾロは目出帽の様に巻いていた毛布を顎の下まで引き下げた。露になった鼻の先が赤い。その様を勢い見詰めてし まい、ゾロは怪訝な顔をした。 「なに」 「あ、あー。寒いの?」 「ああ、寒いな」 擦っても擦っても火の点かないマッチが忌々しい。だが誤魔化す為の小道具には上等で、普通の会話が成り立った。 だがそのゾロの答えにサンジはちょっと驚いて顔を上げた。 「珍しいのな、そんな事」 チョッパーの国ではなんでも一人で寒中水泳をしていたそうだ。そんな事をウソップが言っていたのを知っている。い つも気のない振りで一生懸命ゾロの名前を取り落としはしないのだ。 「…寒いもんは、寒い」 ずず、とゾロは手の甲で鼻を押さえる。擦りすぎて赤いのか、寒くて赤いのかもうよく分からない。ゾロはようやく湯飲 みを手に取った。 「熱いよ」 「知ってる」 憮然とするゾロの指先が、一瞬躊躇した。それを見逃さないサンジが思わず目元を緩めたので、ゾロは視線をきつく した。 「お前は」 「うん?」 「寒くないのかよ」 「俺?」 毛布越しに湯飲みを両手に持つゾロに、危うくデレデレしそうになって我慢していたサンジは、きょとんとしてゾロを見 た。 先ほどまで水仕事をしていたせいで、シャツの腕を巻くって頬杖をつくサンジは上着もなければ、もちろん毛布もな い。幾らラウンジが暖かい方だと言っても、隙間から風はひゅうひゅうと入り込んだ。 「さっきまで動いてたから、そんなには。どうせあとは風呂に入って寝るだけだしな」 とっくの昔に点火を諦めた幾つかのマッチを目の前に転がして、サンジは出来るだけゾロから目を遠ざけた。こんな 風に穏やかな会話は珍しく、うっかり踏み込みすぎると痛い目を見る。というかサンジばかりががっかりする事になるの だ。二人きりになって身構えてしまうのは、ゾロばかりではない。サンジとて迂闊な言葉を漏らさぬよう、細心の注意を 払っている。万が一の場合の保険を、冗談に変えてふんだんに降りかけて。いざという時、笑って誤魔化せるように。 そうやって数々の出来事を、あやふやに終わらせてきた。はっきりと伝えた事など一度もない。そんな事怖ろしくてで きやしない。いつだってふざけて笑ってからかって、どうにか精一杯近づいた。それでゾロが何かを感じているのかは 分からない。サンジ意図とは逆の意味でその行為を取り違えているかもしれない。 それは確かに願ったりかもしれないが、どうしたって心は寒い。 伝わらない事実はサンジを安心させるが、諦めに似た気持ちが本心の根っこの部分を酷く凍えさせた。 「時々な」 ぼんやりとしていたサンジはゾロの言葉にハッとして顔を上げた。ゾロがこちらをじっと見ている。サンジはにわかに 驚いて、火のない煙草を取り落とした。 「よく分かんねェけど、すごく寒い時がある」 視線を逸らさないゾロのその意味を図りかね、サンジは相槌も打てずに居る。だがそれを気にした風もなく、ゾロはず り落ちかけた毛布を肩にかけなおした。 「だからここに来た」 そんだけ。そう言ってゾロはぷい、と顔を逸らした。体ごと横を向いて、まるで全身でサンジを拒絶する風だ。けれども それがゾロ特有の照れ隠しだと今のサンジには分かるから、驚いて目を瞠り、ついで緩めて微笑んだ。 「…俺の事、探してたの?」 「違う」 即答はだが威力はなく、逆にゾロの動揺を余計に伝える結果になった。 すっぽりと被った毛布でまた目元まですっかり隠してしまったゾロに、サンジは立ち上がった。 かたん、と鳴ったイスの音にもゾロは知らぬふりだ。座る背後に立っても振り向かない。 気づいていたのだ。ゾロは。 ずっと気づいていて、でもどうしていいかなんて分からないから、だからずっと、気づかないふりをして。 ベンチを跨いでゾロの隣に座り込む。こちらに背を向けたままのゾロの体を抱きしめた。 弾かれたようにゾロの肩は確かに揺れたが、それ以上動かない。拒絶の言葉も聞かれない。サンジはうかうかと浮 かれて、尚更その体をぎゅう、と抱きしめた。 「なあ、ゾロ。こうしてると、暖かくねェ?」 毛布の上からでは分からないはずのゾロの鼓動や体温が、まるで直に伝わってくるように思える。後ろから肩口へ顔 を埋めてふう、と息を整える。そうしないと吐息は震えて言葉が酷い事になりそうだった。現に指先は既に細かな震えを 伝えてしまっているだろう。 「……」 何も言わないゾロだけれど、それだけでサンジには十分だった。 ゾロがいつから気づいていたのかは分からない。けれども確かにゾロはサンジに答えを返すつもりで居てくれたの だ。 だがそれを曖昧な笑いで濁し、からかい半分に避けていたのはサンジの方だ。 自分の気持ちばかりを押し付けて、それなのに本気に取るなと自分勝手な予防線を張ったのはサンジの方だ。 ゾロはこんなにも真剣に、サンジの事を考えていてくれたのに。 「俺は、寒くねェよ。ゾロが傍に居れば、全然寒くなんてねェ」 お前は? ずっと、自分の中で繰り返した、秘密のはずのその言葉。ゾロに答えを求める事。最初から諦めていたのは自分の 方だ。 けれども今、今なら言えるような気がする。 今ならば。 「お前もそうだといいって思う。だって俺は」 ずっと、ずっと、言いたかった言葉を。 「だって、俺はお前の事が好きなんだ」 言葉の最後は微かに揺れて、唇を咄嗟に噛み締めた。腕の中のゾロは動かない。今にも振り解かれるのではないか と気が気でなく、けれどももう半分はそのつもりでサンジは腕の力を抜いた。 「……も」 「え?」 らしくない小さな声を聞き逃し、サンジは焦って問いかける。背中を向けたその顔を、どれだけ見たいと願うか知れな い。いったい今、どんな顔をしている?サンジはそっと手を伸ばした。 しかしそれよりも早く、いっそ潔い勢いでゾロはサンジを振り返った。 「俺もって、言ったッ」 そのままがばっと目元まで、ゾロは毛布で顔を覆った。毛布の端からはみ出た前髪が、小さくぷるぷる震えている。 サンジはしばし呆気に取られ、だがすぐに顔から首までを真っ赤にした。 「ゾ、ゾ、ゾロ?」 ただの毛布の塊になってしまったゾロは、どんなにサンジがその端を引いても顔を出さず、サンジはただ動転してオ ロオロするばかりだ。 「顔。なあ、顔見せてよ。なあ、ゾロ。なあってば」 ぐいぐいと大層な力で引いても、流石のゾロに敵うはずもない。これでは毛布が破けてしまう。だがそれでもサンジは 必死になって、懇願するように眉を落とした。 「ゾロ。…お願いだから、顔見せて」 まるで許しを請うように、今にも泣きそうにサンジは呟いた。ぎゅうっと痛いほど毛布を握る。指先が僅かに冷えた。 そんな風に、だってそんな風に答えが返ってくるなんて思わなかったのだ。サンジは。 驚いたせいで頭がくらくらとして視界がなんだか暗くなる。極度の緊張と興奮のせいで貧血を起しているのだ。体中が 突然だるくなり、サンジはゾロに寄りかかるようにぐったりと体を寄せた。 「ゾロ。なあ、好きだよ。大好きだ。ずっと秘密のつもりだった。だってお前がそんな事…信じられねェ…」 先細りで声は小さく、サンジはゾロの顔の横辺りにぎゅ、と自分の額を押し当てた。夢かなあ、夢かも知れねェ。言い ながらむぎゅ、と毟り取る勢いで頬を抓って、思わず目から火花が出た。 「なあ、夢じゃねェって教えてくれよ。お前が言った事、嘘じゃねェって…ゾロ…」 まるで痛ましい声なのに、どうしたって顔は緩む。サンジは頬の辺りが無闇に熱くて、何度もの手の甲で擦った。 サンジのその当然といえば当然の、あまりのしつこさにとうとう観念したように、ゾロはおずおずと毛布を引き下げた。 「ゾロ…」 サンジは半ば陶酔して、まだこちらを見ようとしないゾロの頬にそっと手を添えた。そのまま力が入りすぎないよう、慎 重に促した。しばらく力は拮抗したが、やがてゆっくりとゾロは振り返った。 「おめェはいちいち、恥かしいんだよ」 赤く染まったその頬や鼻先、潤んだ目元は確かに寒いからかも知れない。けれども少しばかりサンジは自惚れて、添 えた親指でそっと頬を撫でた。 そんな風に罵られても、今のサンジに効く訳もなく、またゾロの言葉にも棘がない。もし本気でサンジを貶めようと思う なら、有効な言葉は幾つもある。それなのにそれを使おうとしないのは、ゾロの気持ちと信じたい。 サンジはうん、と端的に頷いた。 「でもさ、こんな程度で驚かれたら困るんだけど」 一瞬意図を量りかね、ゾロはきょとんとしたけれど、すぐに意味を読み取ったのか、今度こそ本当に寒さのせいでは ない理由で真っ赤になった。 「な、な、何をお前…ッ」 「だって、いっぱい好きって、言いたいし」 あれ?なんか違う事想像した?言って華やかに笑ったサンジに、ゾロは呆気に取られて瞠目し、次いで一本取られた 悔し紛れにサンジに頭突きを食らわした。 しかしサンジにしてみれば、それを可愛い照れ隠しだなんて思っていたわけだけれど。 |