傷つかない方法があるのなら、なんだってやってやると思う。 でも実際は近寄れば憎まれ口ばかり叩いて可愛くない事この上ないし、本当は心配で仕方がないのに知らぬ振りで 顔を背けた。 そんな風に確実に、うっかりとはまり込まないように自重に自重を重ねた結果、より深くはまり込んでしまう事など分か っていたのに。 目の前ではこくりこくりと茶色い頭が浅く深く、傾いでいる。その天辺を触りたいのにどうしたって手は伸ばせない。 坂井は何度か浮いてしまう手をぎゅっと握って、またグラスを一つ一つ丁寧に麻で磨いた。 こっくり、こくり。 髪の分け目の辺りが少し浮いて、ひょっと髪の毛が立っている。それが揺らぎにあわせてふらふら揺れた。 こくり、こくり。 グラス拭きは既に二順目に入っている。もうどれをとってもぴかぴかだ。いつもは使わない、厨房のグラスを持ってき て、坂井はこれ見よがしに音をたてて磨くのに、それなのに揺らぐリズムは狂わない。早く起きてくれと思うのに、喉から 声は出なかった。 慣れない仕事で疲れているのはよく分かる。部屋へ帰ると昼過ぎまで目覚めないのだと、少し恥かしそうに言った顔 を覚えている。いつもはきゅっと引かれた唇が、ふんわりと綻ぶのを。 とっくの昔に他の従業員の帰った店内に残れされた仕事は少なく、次の仕事を探さなくてはならないが、しかしうっか りと傍を離れる気にもなれなくて、仕方なくグラスは三順目に入る。 とんだ事になっていると自分でも思うのに、そう思えば余計に気持ちは前へ急く。道順を違えてしまった今となっては、 お笑い種だと思うのに、溜息は深く真剣だった。 好きだよ。お前が好きだ。 胸の中で呟いてみる。思うほど悲壮ではなかったが、叶う宛てのない願いというものは、ガラス一枚隔てた虚像のよう だ。現実味に乏しく、思うことで満足してしまう。 でも。 目の前ではまだこくりこくりと頭は上下を続けている。いっそカウンターに突っ伏してしまえと思うのに、絶妙なバランス はいつまで経っても同じ動作の繰り返しだ。 好きだよ、好きだ。本当は抱きしめてしまいたい。 執拗な動作でグラスを磨き、また殊更に音をたてた。 傷つかない方法があるのなら、なんだってやってやると思う。 だがそれが無理だと知っているから。だから最後の一歩が踏み出せない。 こんなカウンター一つ跳び越せない。 揺らぎは続く。坂井はうっかりそれにあわせて泣きそうになった。 (04/02/05) 終 |