見て見ぬ振りも多分出来たと思う。 けれどもそれは、今となっては意味がない。 目が覚めると、サンジは既に消えていた。 押し付けた頭の形がすっかりついた枕から顔を上げ、そのまま上体を起そうとしたものの、途中でそれは断念されそ のままゾロは蹲って唸り声を上げた。 無茶をされた覚えはない。しかしそれでも体の節々や、深い部分が鈍く痛んだ。 頭がボンヤリとするのはおそらく発熱しているからだろうと思う。 リズムを取るように何度か体を揺らし、痛みの隙を狙って最後の一振りで思い切って体を起した。突然高所に置かれ た頭がひやりとし、次いでグラグラと視界が揺れた。それを堪えるように一から十までゆっくりと数え、猶予を与えて目 を瞬くとようやく眩暈は治まった。ぴっちりと隙間なく閉められたカーテン越しに入る光はどうやら朝をとうに越えている。 締め切った室内はシンとしているが、外はすっかりと目覚めているに違いなかった。それを確かめようとベッドを降り る。冷えた床に触れた足が途端にゾワリと鳥肌を立てた。 毛布をグルグルと素肌に纏い、すっかり体を覆い隠してから、窓辺までの遠い数歩をゆっくりと歩き、勢いよくカーテ ンを引くと、途端に強い光が虹彩をつらぬいた。咄嗟に手でひさしを作って視界を庇う。立て付けの悪い窓枠に辟易し ながら、少々乱暴すぎる方法で窓を開けるとふんわりと入り込んだ空気の中に様々な匂いが漂った。それにクン、と犬 の様に行儀悪く鼻を鳴らす。それは大層魅力的な香りばかりで、反射的にぐう、と腹が鳴ってあさましく催促した。 眼下では昼前の一仕事を終えた人々や小さな子供、その母親、ありとあらゆる人種が活気付いて騒がしい。 昼食の時間だ。 「目ェ覚めたのか」 振り返ると息を切らしたサンジが、大きな紙袋を持って戸口に立っていた。 金髪がふわふわと踊って珍しく乱れている。シャツなどはよれよれとして酷い有様だった。 「昨日から何も喰ってないから、腹減ってるかと思って。急いだんだけど」 悪い、とサンジが言う。 よく分からずゾロが肩越しに振り返ったまま無言で居ると、サンジは今更の様に髪を手櫛で整え、気まずそうに俯い て持っていた紙袋をテーブルに置いた。ごとん、と大げさな音が中身の重さを物語る。がさがさと音をたててサンジは中 身をかき混ぜたが、突然顔を上げるとじっとゾロを凝視した。 見ようによっては何かを求めているようなその目に、何か言った方がいいのかとゾロは思ったが、生憎喉が痛んで吐 息さえも引っ掛る。仕方なく同じように見返していると、サンジは突然にこりと笑った。 「おはよう、ゾロ」 そのまま大股で近づき、ゾロを抱き寄せこめかみにくちづけた。 「…ああ」 それだけでも喉が引き攣り精一杯だ。 サンジはゾロの耳の下に鼻先を擦り付けると「うん」と答えて今度は額にくちづけた。 「メシ、喰えるか?もう少し寝る?」 迷うようにサンジの手は少しウロウロと毛布の表面をすべり、それから毛布の端を緩く掴んだ。 「メシ」 言えばサンジはじゃあベッドで食べようか、などと言ってゾロを押す。別に逆らう理由もないのでされるままベッドに上 がって待っていると、いそいそとサンジが紙袋からゾロにはよく分からないものを取り出した。何かの紙包み、大小の瓶 が数本、箱が幾つか。ポケットからは見慣れたナイフ。それをぼんやりと眺めていると、とりあえず、と言って手渡され た瓶には水が入っていてゾロはようやく喉が乾いている事に気がついた。そのせいで喉が痛かったのか。コルクを歯で 抉じ開け一気に喉に流し込む。常温の水はすうっと溶けるように体に吸い込まれた。 窓から零れる雑踏のざわめきが心地よい。眠気を誘う気配に体が傾くが、それに従うにはなんだか惜しいような気も する。何とか気を散らそうとするものの、これと言ってすることもなく、見るものといえば目の前で食事の仕度をするサン ジくらいしかないゾロは、じっとその手際を眺めていた。だがしばらく眺めていると、どうも手際の悪さが目立つ。普段は まるで決められた手順をなぞる様に初めての事さえやってのけるくせに、今日に限ってハムの薄さはバラバラだし、ナ イフを引いた手を瓶に引っ掛けてテーブルから落としている。その上はそれは足の甲に落ちたので、痛そうに何度か足 を振った。中身の入った一升瓶は、確かに痛かろうとゾロも思う。サンドイッチを乗せるために広げた紙はその動作で 吹き飛ぶし、中身をはさもうとして半分に切ったパンの中にはクリームが既に入っていた。 ゾロは呆れるのを通り越して困惑し、終いには本気で心配になった。 「…どうしたんだ、お前」 潤った喉からは随分とマシな声が出た。それでもいつもに比べればかすれていたが、ばつの悪い顔で振り返ったサン ジには十分通じていただろう。 「べ、別に、なんでもねェよ」 とは、とても言えない顔だし状態だが、生憎ゾロの方にもあまり余裕がないので深追いはしなかった。とりあえず食べ られるものさえ出してくれればそれでいい。サンジ相手では味の心配などする気も起きない。 サンジは何度か大げさに深呼吸をすると、少し緊張した面持ちでナイフを持ち直した。 「簡単なもんしか出来ないけど」 それでも渡されたものはそこら辺の出来合いのものより格段に美味い事を知っているから、ゾロはありがとう、と言っ て受け取り食べ始める。サンジは黙ってそんなゾロを立ったまま眺めていた。 「?お前は喰わねェのか?」 「いや、食べる」 そう言っていそいそとテーブルから自分の分を取上げ、ベッドの中央に陣取るゾロの隣に這い上がってくると、ちょこ んと隣に座ってやはりニコニコとゾロを眺めている。あまり構う事のないゾロだからいいのだが、端から見れば少し異様 であったかもしれない。 全裸に毛布でがぶがぶと食事をする男と、パンを手に持ったままそれをニコニコと眺めている男と。 どうあっても普通ではなかった。 「美味い?」 「ああ」 「そう」 ゾロが半分を食べ終わる頃にやっと、サンジは自分の分を食べ始めた。それを横目でちらりと見る。 斜めに差し掛かって入り込む陽が、サンジの横顔を殊更に照らしているように感じるのはその色が白いからだ。肌の 色など気にしていなかったが、こうしてみると自分より随分と白い気がする。サンジは器用な仕種で具のたくさんはさま ったパンを、零す事無く上手に食べていた。ゾロは食べると反対側から具がぼろぼろと落ちるのだが、サンジが黙って それを拾って食べた。 思えば不思議なものである。 成り行きや勢いや、まして勘違いでこんなところでサンジと二人、遅い朝飯を食っているわけで決してない。ずっと前 からこうなる事は分かっていたし、いわば当然といってもいい。昨夜もサンジがどういうつもりでゾロを酒場に誘ったか 分かっていた。 いつもは十把一絡げで宿に泊まるにもかかわらず、今回に限って他のクルーとは別の宿だし、本当は船番だったは ずのゾロに終ぞ声はかからなかった。気の利かぬゾロには分からないが、おそらくサンジが上手く手回ししたに違いな い。 だからゾロはそうまでして二人きりになろうとするサンジを拒む気もなかったし、とうの昔に覚悟は出来ていた事もあっ て、あっさり昨夜はサンジと初めての夜を共にした。部屋に入って事に及んだ時も、どちらかといえばサンジの方があ たふたとして見ておれず、何度も意味が分かっているのか、お前は正気かと聞かれて辟易し、危うく気分を害してゾロ は宿を出てしまうところだった。ゾロとて相手が男という意味ではまったく未知の世界ではあった。しかし結局のところそ こへ行き着くまでの心の過程に違いはないのだと思えば、それ程不自然な結果ではないと今でもゾロは断言できる。 隣でようやく食事を始めたサンジは、食べながらもずっとゾロの様子を伺っているようだった。以前はよく二人きりにな るとすぐに喧嘩になったものだが、今ではそういう事は極稀だ。どちらかというと誰かの目がある時の方が、喧嘩になる 率は高い。二人きりで居れば当然こういう関係であるから少しは甘い雰囲気や穏やかな気持ちになる事もある。触れ 合う事にも抵抗はない。しかし人目があればそれは叶わないから、結局喧嘩という方法でコミュニケーションを取るしか ないのだった。 「なに」 一心不乱に食事をしていたゾロの耳の辺りを、突然サンジが指で触れた。いきなりで驚いたゾロが弾かれたように振 り返ると、なんだかサンジもハッとした顔をしていて腑に落ちない。どうも無意識だった様だ。 「悪ィ」 「…別に」 たかだか耳に触れただけだ。驚いたが咎めたわけでもない。それなのにサンジは急にしゅんとして俯いた。 言い方が冷たかったろうか。 自覚はないが時々自分はひどく冷たい物言いをすると、サンジに以前言われた事があった。ゾロとしては出来るだけ 手短に用件を的確に伝えたいだけなのだが、サンジからするとそれが会話を拒絶しているように思えるらしい。言葉は そもそも意思伝達のために発達したものであるとゾロは思っていたが、サンジにはそうではなかったようだ。会話という 行為自体にも意味があると言う。ゾロの合理的で端的な物言いは、サンジには物足りないのだそうだ。確かにサンジは 用件を伝える前に余計な言葉がたくさんつく。話しをするのが好きなのだろう。だがそれは一方的では意味がなく、発し た言葉に答えが返ってくることに意義がある、らしい。そんなにお前は俺と話をしたくねェの、と言われれば少しばかり 不本意だ。それならばとあまり意味もない事や、些細な事でもサンジに話すようになった。それでサンジが喜ぶなら、そ れでいいと思ったのだ。 それが今はまた悲しいような顔をする。言い方が悪かったろうかと困惑し、ゾロはサンジの前髪の辺りをじっと見た。 今まで会話をサボりすぎて、こんな時何と言っていいのか分からず今までの自分を少し罵った。 「外、騒がしいのな」 結局ゾロにはそんな事しか言えなかった。つまらない事を言ったと思うがサンジは途端にぱあっと笑顔を見せた。 「この下が市場の通りなんだ。今は昼時だから、色んな店が出て面白いぜ」 食べかけのパンもそっちのけで、サンジは一生懸命話すので、ゾロは払拭された表情に安堵し、そうかと笑って見せ る。サンジはそれにやっぱりにこにこしてゾロの口元を指差した。 「ついてる」 「そうか?」 指で拭ったが上手く取れない。シーツで拭いてしまえと手を持ち上げかけた時、サンジがぺろりと口元を舐めた。 「……」 少しびっくりしてサンジを見る。何か否定的なことを言おうとしたが、言葉は結局出なかった。 こちらを見るサンジの目が、あまりにも優しかったから。 なんで? 「ゾロ?」 突然自覚した。 頬がカアッと熱くなる。 心配そうに俯いたゾロを覗き込むサンジから顔を隠すため、ゾロはバサリとシーツを被った。 「寝る」 「ああ…うん。ちょっと熱出てるみたいだな」 唇暖けェよ。するりとシーツに入り込み、額に触れたサンジの手の丁寧さにゾロは余計に顔が熱くなる。 なんてこった。ああ、なんて。 見て見ぬ振りも多分出来たと思う。 けれどもそれは、今となっては意味がない。 だって既にゾロは気がついてしまったのだ。 サンジがゾロを好きだと言う以上に、ゾロがサンジを好きだという事を。 「おやすみ」 シーツの上からやわらかく触れるサンジの手に、ゾロは今にも零れそうになった恥かしい言葉を幾つも飲み込んだ。 |