咲く花はひとつ 「あんまり強烈な事があると、そればっかりが心に焼きついちまって、その周りの記憶が全部吹っ飛んじまうんだよ」 ゾロはその時、そんな風に言った。 そういう話をするようになったのは、随分経ってからだった。 割合に口の堅い俺たちは、なかなか互いの中に踏み込めず、また自分を晒す事も出来なかった。 そうする事に戸惑いを感じていた。多分軽蔑を恐れたのだ。 だがそうやって、最初の一歩を踏み出したのはゾロだった。 その時のゾロの横顔を良く覚えている。 二人で草原に寝転んで、同じように夜空を見上げて星を数えた。 ゾロは昔ほどに睡眠をとらず、それが少しサンジの胸を痛くした。 「俺が通ってた道場の娘だった。黒髪の、今から思えば中々の美人だった。めちゃくちゃ強くて、俺はいつもぐうの音も出ないほど叩きのめされて た」 過去の話をする事で、何がしかの感情を清算しようとする事も可能だろう。体よく記憶を遠い昔に押しやるのだ。それと共に感情も遠ざかる。だが その時のゾロはそんな意味でなく、もっと大切な、サンジの為だけの特別な何かのためにそうやって話をした。 「アホみたいに毎日毎日、そいつの事だけ考えて、そいつに勝つ事だけ考えた。強くなるためにはどうすればいいか、最短の道、勝つための努力」 普段のゾロは別段無口ではないが、それでもこんな風に好んで話す事は少ない。ゾロの声は夜風に少し擦れて、吐息は淡く呼吸は浅い。サンジ は頷きも、瞬きも何の言葉もなくただゾロの話しを聞いていた。 「夜中だった。俺は初めて真剣を持ち出してそれで勝負をしろと我侭を言った。勝気なヤツだったから、それでもいいとアイツは言って。大人たちに 見つからない様、森の中の野原まで遠出して。そんで、まあ、また負けて」 腕を伸ばして星を指差すゾロの動作は一つ一つを確認するように流れていく。 不意にその腕がぱたりと落ちた。 「それが最後だった。俺は結局勝てなくてな。ありゃあ、夏だったか秋だったか…」 頭の下で手を組み直し、ゾロはゆっくりと思い出すように言葉を紡ぐ。サンジはやはり黙ってその横顔を見た。 まるでいつもとは反対だ。一生懸命話すサンジを、じっと見ているのがいつものゾロだ。 「全然覚えてねぇんだ。葬式があったり、埋葬があったりしたと思うんだが。記憶が飛んじまってて…。まあ、元々あんまり記憶力はよくねぇんだけ どよ」 自嘲気味に笑うゾロの穏やかな声は、余計にサンジを切ない気分にさせた。 毎夜の様に語る寝物語は、その殆どがサンジによるものであり、それは楽しい海賊達の話や見たこともないお宝の美しさ、少し失敗して一人で 食った飯の味、海鳥の翼の白さ、空から降る星の夜の美しさと言った他愛もないものばかりだった。それにゾロはいつも少し眠そうにしながらも楽 しそうに聞いていた。いつだったか眠たければそうしろと言ったサンジに、お前の見てきたものを少しでも知りたいのだと言ったゾロに、胸がいっぱ いになってその夜は上手く眠りにつくことが出来なかったのを覚えている。 そういう自分の気持ちを経て、時折ゾロはサンジに昔の話を少しづつ語る。 だがそんな時ゾロは、本当に申し訳無さそうに言うのだ。 本当に俺は、何にも見ねぇで走ってきた。全速力だったから、周りの風景も覚えてないんだ。 だから語る事は少ない。サンジの様に楽しい話も、珍しい話も、怖ろしい話も、悲しい話も。美しいものや尊いものの話をお前にしてやる事はでき ないと。 それはそのままゾロが今まで、自分の中のどれだけの領域を刀一つに捧げてきたかを物語り、またそうするだけの誓いの重さを表していた。だ からサンジにはその一番深い部分にある、ゾロの最もやわらかい部分に踏み込むことを躊躇した。そして同様に自分のやわらかなものを見せる事 に戸惑った。 「それでもよ、最近はよく思い出す。…そん時の事じゃなくて、それよりもずっと前の事とか。遊んでて山から転げ落ちた事とか、川で捕まえた魚の 事とか。なんつーか、他愛もないけど楽しいような事、とか」 ふと、ゾロが首を傾けこちらを見た。ずっと見つめたままでいたサンジと目が合う。ゾロはそれを確認してから薄っすらと笑った。 「そういうのはよ、お前のお陰だと思う」 「俺…?」 「ああ」 今度は大きく笑い、そしてまた空に視線を戻した。 「お前と居て、お前の話を聞いていると、なんだか色々と思い出す。ガキん時の事とか、村の事とか、昔遊んだ山とか野原とか川とか。道場の仲間 や先生や…くいなの事」 なんでだろうなあ、とゾロは笑う。今までそんな事などなかったと。 「一人で村を出てから、思い出す事なんてほとんどなかったのにな。必要がなかったし、多分余裕がなかったんだろうけど」 自嘲はしかし卑屈ではない。やれやれといった感じに笑っただけだ。 「あの夜の事ばっかりだった。思い出すのは。最後まで敵わなかった。月の光を弾いてくいなの手の中にあったこれは――」 無音で白い刀を抜く。降りかかる月の光を受けて、刃はますます青白く光った。 「怖ろしくきれいだった。闇の中でくいなの目が光って…。その時誓った言葉はいつも胸ん中にある」 ぽん、と胸を叩いてゆっくりと鞘に刀を戻した。 「それが俺を支えてたのは事実だ。そのために俺は生きてきた。でもそれ以上に俺を支えてくれたのは、思い出しもしなかった細かくて些細なもの だって事、俺はお前の話で思い出した」 「他愛もない話ばっかりだぜ?」 「俺にはその他愛もない話もない」 ゴロリとゾロはサンジの方へ体を向けた。腕を枕に掲げいてる。サンジは首だけで振り向き見下ろしてくるゾロを見返した。 ゆったりとして仕種は緩慢で、眠る前のそれと酷似していたが、ゾロの目は強くサンジを見て瞬いている。動く度にぶつかる鍔鳴りがさあっと走っ た風に攫われた。 「ずっと忘れてた、アイツの楽しそうに笑った顔。今ならいつでも思い出せる」 「そうか」 そっと手を伸べ、ゾロの頬に触れる。冷たい指にそれは石膏の様につるりとした。 風に揺れる草が、耳元でさわさわとざわめき、夜気の冷たさが肌を冷やす。それなのに心は穏やかに温かかった。 あまりにも潔いゾロは、そうするために様々なものを切り捨ててきたのだろう。サンジが通俗だと思っていた事柄を、知らないという事がゾロには 少なくない。それが実質的に生き抜く術から離れれば離れるほどそれは顕著に現れた。それを切ないと感じるのはサンジの勝手だ。ゾロは自らそ うする事を望んでいたのであって、そう思うのは侮辱なのかもしれない。 だが、どうしたってサンジは思う。 全速力で走るゾロの隣で、行過ぎてしまう花の美しさや春の風のやわらかさ、夏の日に光る水面のきらめきを、腕を引いて知らせる事は出来る はずだったと。 遅くはない。今からでも。こうしてゾロが、サンジを知りたいと言ってくれるのならば。幼い昔を、思い出す心があるのならば。 「よかったな」 恥かしそうに、嬉しそうにゾロは笑った。ますます精悍になった顔に、一時の幼さが宿る。それはきっと故郷を出る時、胸の奥に閉じ込めた、小さ なゾロの笑顔だった。 「なあ、お前の故郷の話をしてくれよ。そうだな、料理の話も聞いてみてぇな」 「ああ」 一つ一つ確かめるようにゾロは語る。木々の間から漏れる木漏れ陽の様に不確かな記憶を辿りながら、でも暖かなその一筋の大切な光を手繰 り寄せ、サンジのために言葉を紡ぐ。 それがどんなにかサンジを幸せにするか、きっとゾロは知らないまま。 子供の様に染まる頬は、夜気の中に鮮やかに咲いていた。 |