「…ねえ、何してるの?」 「天体観測」 私たちはそのようにして出会い、次の年の春が来る前に別れた。 踏み切りの脇には大層大きな空き地があり、ナミが知る限りそこに建物が建った事は一度も無い。と、言ってもナミ がこの街に越して来たのは一年ほど前の事で、それ以前の事は知らなかった。 「またいる」 バイトが終わる終電間近の時刻。少し前から時々見かけるその男は、また同じように踏み切り横の空き地に一人で 突っ立ている。見れば随分と軽装だが、季節は十二月の半ばをとうに過ぎていた。ナミは自分まで寒くなり、ブルリと震 えてマフラーを巻き直した。 かん、かん、かん、と警報が鳴り踏切が降りる。ナミはゆっくりと自転車を止め、朽ちかけた柵にそっと手を添えると、 杭はキシと傾いた。男は見られている事に気づかないのか、じっと空を見上げて動かない。 ごうごうと音を立てて電車が通り過ぎてしまえば、住宅地の真ん中はまた夜の闇の中に沈黙する。ナミは自分の呼吸 が男に聞こえてしまうのではないかと恐れ、手袋の手を口に押し当てる。はあ、と吐き出した息が手のひらに暖かく広 がった。 「…ねえ、何してるの?」 けれども結局堪えきれず、それでも控えめにナミは男に声を掛けた。 男はゆっくりと振り返った。突然の事に驚いた風も無い。振り向くと男は案外若かった。 「天体観測」 「天体観測?そこから星、見えるの?」 「まあ、少しは」 予想外の答えにナミは途端に浮ついた。 「ねえ、天文学に詳しいの?」 「いや、全然」 ナミはとうとう堪えきれず、自転車のスタンドを蹴って立てると、柵をまたいで空き地に足を踏み入れた。男はただじっ とその様子を見ている。近づけばやはり男はまだ若かった。 「でも天体観測してるのね?」 「そうだ」 「ふーん」 それだけ言うとまた空を見上げてしまった男に倣い、ナミも空を見上げた。 「わあ…」 ナミは驚いて声を上げた。空一面にまるで白いガラスを零したようだ。初めて空を見上げたわけではない。天文学に 関しては、ナミも人よりずっと知識がある。だがこの街でこんな星空を見たのは初めてだった。 「周りに明かりが無いから、よく見える」 「なるほど」 確かにその空き地は、ぽっかりと落ち窪んだように明かりが無い。空を見上げると三百六十度空だけで、視界に街灯 が入り込まないのだ。そのせいで普通に見上げるよりもずっと星の瞬きは間近に見えた。 「すごい…っ」 少し興奮してナミは男を振り返った。すると男も丁度こちらを振り返った。 「だろ?」 そう言って笑った顔が得意げな子供のようで、ナミも思わず微笑んだ。 バイトの帰り道、見かければ一緒に空を見上げる仲になった。 男の名はゾロといい、この街の生まれではなく、二年ほど前に仕事の関係で移ってきたのだと言う。思った通りゾロは まだ二十歳になっていなかった。ゾロは寡黙で、身の上を聞き出すのは難しかった。それだけ聞き出すのにナミはその 三倍は自分の事を話して聞かせた。 「なに、それ?」 「望遠鏡」 年は変わり、寒さも本格的になり始めた頃だった。ゾロは大きな真っ白い筒を抱えて得意そうに笑った。 「買ったの?」 「いや」 「貰ったの?」 「まあ、そんなとこ」 三脚を立てるゾロの手つきは慣れていて、とても初めてには見えなかった。それなのに扱いは覚束なく、ナミが横から あれやこれやと口を出すと、じゃあお前やれ、と投げ出した。慣れているのか初心者なのか、まったく訳がわからない。 「はい、できた」 ピントを合わせて横へ避けると、ゾロはいそいそとレンズに目をあてがった。珍しく頬が赤くなっている。そんなに好き ならもっと早く持ってくればよかったのにとナミは思ったが、言わなかった。なんとなく、聞かないほうがいいような気がし た。 「おお!よく見える!」 「結構いいヤツでしょ、これ。高かったんじゃないの?」 「さあ?どうだろ」 そっけなく答えて、それでもゾロはレンズから顔を離そうとはしなかった。今日はよく晴れていて雲も無い。天体観測に はもってこいの夜だ。 頬を赤く染めてレンズを覗き込むその横顔は子供の様だ。とても自分より年上とは思えない。 だがじっと、一人で空を見上げている時のゾロは、達観とも諦めともつかない、愁いを含んだひどく大人びた顔をして いた。 「なあ、お前見ないのか?」 「え、見る見る」 気がつけば不思議そうな顔でゾロがこちらを伺っていた。ナミは慌ててレンズを覗く。そこは紺色の水面に砂の粒を 投げ入れた様に、美しく散りばめられた星の瞬きがあった。 「…すごいね」 「ん」 ストールを口元まで引き上げ、ナミは夢中になってそれを見た。そんな様子に、ゾロは少し笑ったようだった。 肉眼では見る事のできない美しい世界は、まるで現実のものではないかのようだ。 しばらくそうして眺めていた。ゾロは隣でじっと空を見上げている。突然、ナミはゾロが泣いている様な気がして驚いて 振り返った。 「ゾロ?」 「なんだ」 振り向いたゾロは、いつもと変わらない顔をしていた。もちろん泣いてなどいない。だがどうした?と首を傾げるゾロ が、やはり泣いているような気がして、ナミはたまらない気持ちになった。 「好きだったの?その人」 ゾロはきょとんとして目を瞬いた。しかし次の瞬間、すうっとその顔から表情が消えた。 「誰」 「これの持ち主の人」 だってこんな高価な望遠鏡をわざわざ買うくらいだから、よっぽど星が好きだったんでしょう?そっけなく言えば、ゾロ は突然不安げな顔をした。 夜中を回った住宅街に物音はなく、遅い帰宅に先を急ぐ人影も無い。終電は少し前に終わってしまった。しんとした空 き地にまるでゾロは一人きりで取り残されたような顔をした。 「…よく、俺にこいつを担がせて、ここまで見に来た」 ぐるりと空を仰いでから、俯いて大きく息を吐いた。 ナミはそっとゾロの傍により、ぎゅうっと手を握った。暖かい。乾いたゾロの手のひらは固くてごつごつと節くれだって いた。 「天気がいいって聞くと、我慢できねぇで、真夜中でも平気でたたき起こされた」 ゾロは遠くを見るような目をしていた。話す声は呟きの様に小さい。ナミはゾロの硬いコートの表面に額を擦り付け た。 「一度なんかいきなり雨に降られて、ひでぇ目にあって。お前は濡れてもいいから、そいつ濡らすなとか無茶言ってよ」 我侭なヤツだった。すんと鼻を鳴らしてゾロは笑った。凪いだ目が楽しそうだ。きっとゾロには、その時の相手の顔が 浮かんでいるに違いない。ナミは無性に悔しくて、引き戻すようにぎゅうっと手を握った。ゾロは握り返したけれど、振り 返りはしなかった。 「…でも結局、置いて行っちまった」 荷物になるからかな。俯いた顔は無表情だったけれど、やっぱりゾロは泣いているのだとナミは思った。 目の置くがじわじわする。ナミは強く強く目を瞑り、なんとかそれをやり過ごした。 強く強く瞑った目の奥に、無数の白い光が瞬いた。 空き地の少し奥まった、その決まった場所にゾロはいなかった。 ただ、天体望遠鏡が折りたたまれたまま、草の中に半ば埋もれるように置いてあった。 『やる』 そんな風に書いたメモをそっけなくテープで止めて。 そして何故かその横には、ひどく豪華なお弁当が添えてあった。 お弁当はまだ温かくて、ナミは疑いもせず残さず食べた。 私たちは古い年の冬に出会い、そのようにして別れた。 ベタで申し訳なく… |