思った通り、観覧車の販売券売り場は閑散として、寒い夜には余計に寂しげだった。 それが今のみすぼらしい自分とだぶり、サンジはいたたまれずポケットにぎゅうぎゅうと手を突っ込んだ。 海沿いの風はまだ冷たく、陽春の声はまだ遠い。風になぶられた頬がカサカサとして痛かった。 ナミに日付と時間を教えたのはサンジだが、必ずしもナミが今夜ゾロと訪れているとは限らない。それでもサンジは居 ても立っても居られず、結局強引に仕事を早引けし、自らに引導を渡すため、観覧車の足元に立っていた。 自分の気持ちは、きっとこんな事ではどうにもならないとわかっていた。それでも二人の姿を見ない限り、自分を納得 させることはできないとも思う。 そうでなければ「人のものには手を出さない」という、サンジにとって最低限のルールを、もっとも汚い形で犯してしま いそうだった。 見ろ。 お前の気持ちが通じることは決してない。 伝える事も許されない。 永遠に二人の「友人」でいるために、すべての感情を胸の中に閉じ込めろ。 いつか出口から姿を現す二人の幻想を見る。正面に立つサンジに、二人はなんと言うだろう。ナミは少し驚いて、この 前は教えてくれてありがとうと言うだろうか。それとも、何をしているのと不思議そうに笑うだろうか。ゾロはきっと関心な ど示さず、面倒そうに眉を顰めるに違いない。 思えば思うほどサンジはそれがまるで事実あった事のように傷ついて、こらえる様に唇を噛んだ。 早く。早く。これ以上引き伸ばさないでくれ。これ以上の責め苦を負わせないでくれ。 しかしそれと同時に、出てこないでくれとも願うのだ。 自分の砕ける瞬間を、目の当たりにする事を臆病な心は恐れた。 「おい」 突然後ろから肩を掴まれた。 この辺りでは一時期カップル狩りが流行っていた。その類だろうかとサンジは苛立った。 冗談じゃない。こんな時に絡んでくる馬鹿はどこのどいつだ。殺されたくなければ、放っておけと振り返る。 「なにやってんだよ、こんなところで」 しかし振り返った先の予想外の人物に、サンジは呆けて口を開いた。 「ゾ、ゾロ」 「おう」 寒そうに肩を竦めてゾロが一人で立っていた。 サンジの呼びかけにひょい、と片方の眉を上げた仕草はいつもの見慣れたゾロのものだ。 「…ナミさん、は…」 いつの間に観覧車から降りたのだ。いや、もしかしたらこれから乗るところなのか?そうだとしたらなんとタイミングの 悪い。サンジの前にはまだ誰のものにもなっていないゾロがいる事になる。サンジは混乱して口をぱくぱくと開いては閉 じた。 「ナミ?ああ、そうだ」 「な、何が」 要領を得ずサンジは混乱するばかりだ。何がどうなっているというのだ。一体何が「そうだ」なのだ。ナミさんがゾロを 好きだということ?今日は観覧車に二人で来るということ?告白のこと?それとも、まさか。まとまらない思考がぐるぐる と回る。ゾロはただ黙ってサンジを見ているだけだ。 ゾロは首の後ろを擦って、ふと観覧車を見上げた。つられてサンジも顔を上げる。ゾロは観覧車をじっと見て、近くで 見るのは初めてだ、と言った。 「ナミさん。なあ、ナミさんはどうしたんだよ」 「は?ナミがどうしたって?…まあいいや、それよりもうちょっと寒くねぇとこ行こうぜ。ここじゃ風除けもねえし」 石畳が隙間なく地面を埋めたの中央に仁王立ちしてたサンジの上着を、ゾロはちょい、と引っ張った。東屋の屋根が 低い林の奥に見えている。ゾロはそこを指差した。 「ほら、行くぞ」 引かれるままゾロの後ろに従った。小道を一本入ったところにある東屋は、きちんと手入れがされている。イスもテー ブルも綺麗に拭かれていた。 「流石にこんな寒い日に来る奴はいねぇらしいな」 ゾロはさっさと中へ入り、ポケットに両手を突っ込んだままベンチに座った。サンジはどうしていいのかわからず、入り 口でウロウロと視線をさ迷わせる。すると何してるんだとゾロに睨まれ、仕方なくゾロから少し離れて腰掛けた。 「……なんでこんな所にいるんだ」 しばらく二人の間には、公園の横を通る幹線道路から聞こえる車の音だけが過ぎ去っていた。 沈黙を破り、そう切り出したのはゾロだった。 「………」 「答えたくねぇなら、それでもいいけど」 ふう、と息を吐いたゾロにサンジはうつむいた。 答えられるわけがない。二人の姿を見て、自分の気持ちを抑えようと思ったなどと。 サンジは馬鹿なことを口走らないよう、唇を噛んだ。 「いきなりナミから電話があってよ、ここへ来いって。相変わらず人の都合もなんもねぇな、アイツは」 呆れた口調には愛情がこもっている。サンジの勘違いではないだろう。ゾロとナミはいつも互いにこんな風なのだ。 ゾロは首を仰け反らせて背もたれに頭を乗せ、空を仰いでふう、とまた息を吐いた。 「お前が待ってるから、絶対来いって言いやがって」 「え」 「流石に無視できねぇだろ。こんな寒空に」 驚いて顔を上げると、空を見上げる横顔が見えた。 「俺……?」 俺の為に、お前は来たのか。そう問えばゾロはそうだと肯定した。 「おま、お前、ナミさんとデートじゃなかったのか?」 「あ?何で俺がナミと。んなわけあるか。大体こんな寒いところにアイツが来るわけねぇ」 損得の勘定をいかにナミが大切にしているかという話を始めたゾロを、サンジは焦って遮った。 「そうじゃなくて、ナミさんになんか言われてねぇのかよ?」 ナミの意図がわからず、サンジは相変わらず混乱したままゾロに詰め寄った。ゾロはようやく首を戻すと、サンジにじ っと視線を寄せた。 「な、なに」 途端に怯んで逃げ腰になるサンジに、窺うような様子を見せた。 「いや。お前…」 その時、ピチュピチュとサンジの懐で小鳥が鳴いた。ゾロの言葉を逃すまいと意気込んでいたサンジは、出鼻を挫か れ軽く眩暈がした。 「わ、悪ぃ」 無言で取れとゾロに促されるまま、携帯を取り出しボタンを押すと、当のナミからメールが入っていた。 ナミさん? かじかんだ指を無理やり動かし、焦って開く。メールは一言だけだった。 『プレゼント』 大きく震えた指に、危うく携帯を落としそうになった。文字の向こうに企みを見事成功させて、してやったりと喜ぶ笑顔 が見える。サンジはますます混乱し、余分な力の入った手の中で、機体がミシと変な音を立てた。 なんで。いったい、いつから。どうして。 どういう意味だと問うのは今更だった。以前に交わしたナミとの会話を思い出そうと必死になる。たとえ知っていてもそ のような様子はおくびにも出さず、深く笑うナミの顔が浮かんで消えた。 「誰からだ?」 突然ゾロは立ち上がると、サンジの隣に腰掛けた。流石に画面を覗き込むようなまねはしないが目が強いている。サ ンジは項垂れ、パチンと携帯を折って懐に戻した。 「ナミさんからだ」 内容をそのままゾロに伝えても差し支えないことはわかっていたが、どういう意味だと問われればサンジには答えられ ない。まさかお前がプレゼントなのだと言えるわけもなかった。 「ふーん…」 だが内容に関しては興味がないのか、ゾロはあっさり頷いた。それにほっとしたものの、冷える指先がこのままこうし ているわけにもいかないのだと切実に訴えて、サンジはどうしたものかと思案した。 とりあえず、ナミがゾロを好きだという勘違いは覆された。それどころかナミはサンジに言ってしまえと背中を押した。 こんな遠回しなお膳立てまでして告げさせようとするナミの真意がどこにあるのかわからない。だが少なくとも後ろめた い罪悪感だけは背負わずに済んだとほっとした。そして結局そうなれば、サンジがゾロに告げてはいけない枷は何もな かった。あとは自分の心ひとつ。覚悟ひとつの問題だった。 誰かに奪い取られる可能性以前に、言ってしまえば自らその場所を捨てることになる。おそらく今、サンジが思ってい る事すべてをゾロに言ってしまえば、今まで通りの二人でいることは不可能だろう。 それでも。 あの絶望よりはどんなにかマシか知れない。 「ゾロ」 「おう」 ひゅう、と吹き抜けた風に首をすくめてゾロがこちらを振り返った。外灯の光が目の奥で反射してキラリと光る。それ に目を細めてサンジは一度、大きく息を吸った。 「お前がナミさんとデートするって聞いて、落ち込んでた」 「は?だからデートなんて…」 「黙って聞けよ」 顔を顰めるゾロをさえぎり、サンジはじっと目をそらさなかった。きっと一度逸らしてしまえば、二度と見られないと思っ たから。 真剣味が伝わったのか、ゾロは反論せずに口を噤んだ。覚悟を決めたにもかかわらず、ますます逃げられなくなった 己の立場に、サンジはゴクリと唾を飲み込んだ。 「お前とナミさんが付き合うんじゃねぇかって思って、落ち込んでた」 眉を顰めたがやはり何も言わず、ゾロは口を引き結んでいる。それにサンジは少しばかり自嘲した。 「取られると思って、焦って。でもどうしようもないなんて思って」 「お前、ナミの事…」 「違う」 珍しく気遣うようなゾロの言葉を遮り、サンジはゆっくりと首を振る。ならばなんだとゾロの目が言うので、サンジは小さ く息を飲み込み覚悟を決めた。 「ナミさんじゃない。ナミさんじゃねぇんだ。ゾロ」 ゾロの目が迷っていた。戸惑っている。言葉の意味が上手く理解できていないのは明白で、小狡い言い方をしたかと 無意識に逃げた自分を叱咤した。 「俺はお前が好きだから、ナミさんに取られると思って落ち込んでた」 緊張で背筋がきしむ。ゾロが仰天したように目を見開いた。 それがどうにもいたたまれず、サンジはとうとう目を逸らしてしまった。 「そんだけだ!」 肩をいからせ虚勢を張っても、かたかたと指が震えている。きっと声も震えていたろう。たった一つの告白で、こんな にも緊張したのは初めてだった。返事どころか、呼吸一つにさえ怯えている。サンジはぎゅうっと目を閉じ俯いた。 逃げたい。逃げ出して今すぐどこかへ消えてしまいたい。 「サンジ」 名前を呼ばれ鼓動が跳ねた。滅多に呼ばれぬその名がまるで断罪の言葉のようで、サンジは肩を震わせますます 俯いた。 「サンジ。こっち見ろ」 だがゾロはそれを許さない。残酷なほど潔いその気性は、サンジの逃げを許さない。 「サンジ」 もう一度呼ばれ、サンジはそっと顔を上げた。目の前には変わらぬゾロがいる。だがその内面まで覗く事はできず、 恐れはますます膨れ上がるばかりだ。 ゾロは顔を上げたサンジの目をじっと見ると、殊更大きく息を吐いた。それにサンジが大げさに肩を揺らすと、ゾロは 突然困ったように眉を下げた。 「情けねぇ面すんじゃねぇよ」 男だろ、と言ってゾロは呆れたように呟いた。 「男も女も関係ねぇ」 箍が外れたように言葉が出た。先ほどまでの恐れがいつの間にか消えている。半ば呆然としながらサンジは続けた。 「男とか女とか関係ねぇんだ」 呼吸が引きつり、喉の奥がひゅっと鳴る。からからに乾いた舌が口の中で張り付くようだ。 「男とか女とか関係ねぇよ!好きな相手にフラれりゃ誰だって、情けない顔の一つもすんだよ!悪いか!馬鹿!」 がんっと柱を蹴り飛ばす。いきなり激昂したサンジにゾロは瞬間あっけにとられ、次いで突然笑い出した。 「お、お前っ、混乱するとキレる癖、どうにかしろよっ」 あははっと弾ける様に腹を抱えて笑うゾロは、目元に涙まで浮かべている。今度はサンジがあっけに取られる番だっ た。 「お前…なに笑ってんの」 俺に何言われたか、わかってんの?本当にわかってんの?問えばゾロは笑いながらも、大げさな素振りで頷いた。 「じゃあ、笑うなよ!馬鹿にしてんのか!」 「してねぇ」 ぴたりと笑いを止めて、ゾロは突然真顔になった。その目でじっとサンジを見る。サンジは息を飲んで見返した。 「馬鹿になんかしてねぇよ」 本気の時、真剣な時、大事な事を伝えようとする時、ゾロは絶対に目を逸らさない。相手の本心から無意識の領域ま で見透かすように、じっと目の奥を見つめてくる。サンジは試されている事を感じ、顎を引いてコクリと息を飲み込んだ。 「変わんねぇよ」 「……え?」 「確かに、男でも女でも、変わんねぇな」 そう言って、ゾロは口元だけでそっと笑った。サンジは意図がわからず混乱する。ゾロはなぜか自嘲の様な笑いを浮 かべた。 「だから俺には、余計にわからねぇ。たとえお前が女でも、男でも。好きって意味がわからねぇ」 ゾロはずるずると半分ベンチからずり落ちながら、また空を見上げて何度か瞬いた。 「そういう気持ちになった事がないのは、あんまり自慢にはなんねぇな」 きっと。ゾロは背後の逆様になった観覧車のイルミネーションを眩しそうに眺めている。サンジは何を言っていいのか わからず、ただ黙ってその横顔を見ていた。 そんな風にゾロが考えているなどと、サンジは考えた事もなかった。惚れっぽくてすぐフラれるサンジを、ゾロはいつも 遠巻きに眺めていた。お前は馬鹿だと思っているんだろうけど。拗ねてサンジがそう言えば、ゾロは困った顔をしてそん な事はないと首を振った。ふうん、とサンジは納得した振りをしたけれど、呆れているだろうと思っていたのだ。 だからゾロが本当はそんな風に考えていたなどと、思いもよらなかった。 ゾロは顔を戻すと、困惑しているサンジに苦笑した。 「情けねぇ面すんじゃねぇよ」 笑いながらそう言ったゾロにこそ、その言葉がぴたりと来る。 そんな顔、するなよ。こぼれそうになった言葉は、ふと胸に沸いた考えに消えた。 「…ゾロ」 「ん?」 背もたれに両肘を掛けて、ぼんやりと暗がりの林を見ていたゾロが振り返る。サンジは唐突に立ち上がってゾロの腕 を掴んで引いた。 「観覧車乗ろうぜ」 「…は?」 「観覧車。奢ってやるから」 「おい、何言ってんだよ」 「つべこべ言わずに、ついて来い」 「ちょ、何だよ急に!」 肘の辺りを力を入れて掴めば、ゾロは素直に腰を上げた。一見ただ掴んでいるように見えるが、抵抗すればかなり痛 む急所に指先は当たっている。しかし元々それほど抵抗する気のなかったらしいゾロは、東屋から飛び出たサンジに 引きずられながらもついて来た。 「つり橋の恋って、知ってるか?」 「なに?」 「身の危険を感じると、人間は緊張して心拍数が跳ね上がる。どきどきする。その状況を他人と共有すると、そのどきど きを心が勘違いするんだ」 「勘違いって…」 「その相手に、恋をしてどきどきしてると、心が勘違いしちまうんだよ」 「それがなに…」 もうそれほど力を入れていないサンジの手を、ゾロは振り解かない。それをいい事にサンジは人気のない小道を歩き ながら、ゾロの肩に腕を回して引き寄せた。 「おい、なにやって…」 「そういう気持ちになった事がないんなら、これが初恋って事になるんだろ?」 「は…?はあ!?」 「天辺に着いた時、思いっきり箱揺らしてやる。そうすりゃお前、俺と恋に落ちるんだ」 「だって勘違いなんだろ!?」 「ばーか。恋なんて勘違いから始まるもんなんだよ」 「……そうなのか?」 「そうだよ」 お前は知らないかもしれないけどな。そんな風に経験者の振りをして、サンジの膝は半ば笑っている。大言壮語をど れだけ上手く信じ込ませるか、果たしてそれが可能かと頭の中はフル回転だ。 いや、思い込ませてやる。恋の形も知らぬというのなら、信じ込ませてオトしてやる。 既に半分言いくるめられ、首を傾げて考えるゾロを横目に、サンジは意気揚々ときらきらと光る観覧車の入り口へと 向かって突進した。 |