朝から天気が悪いせいか、昼過ぎになってレナに姿を見せた下村はのっけから機嫌が悪かった。 雨はまだだが湿度が高く、海から吹き込む風はますますべったりとして肌に絡みつく。時々下村が左腕を無意識に庇 っていた事を知っていたから、今日は痛むのだろうと坂井にも容易に予想はついた。 「今日はお休みよね?」 坂井が度々レナに顔を出すのはいつもの事だが、下村は仕事前に坂井と待ち合わせる時くらいのものだ。その下村 が店の定休日に顔を出した事が意外だったのか、カウンターの中で菜摘が物珍しげに瞬いた。 「ええ、たまには」 答えになっているのか怪しい返事だが、あえて菜摘はそう、と頷いただけだった。長年客商売をやっているだけに、触 れていい部分とそうでない部分との判断が早い。カウンターの中央に座っていた坂井には見向きもせず、下村はテラス 寄りにある一番奥のテーブルに一人でついた。 「あら、嫌われちゃった?」 くすくすと小さく笑う菜摘の声は、下村には届かなかったろう。それにほっとし、坂井はじろりと菜摘を睨んだ。 「悪いも何も」 そんな仲じゃないですよ、と今更白々しい事を言う坂井に、菜摘はあらまあ、と肩を竦めた。 そういった意味で坂井と下村が付き合いだしたのを一番に察知したのは意外にも菜摘だった。言を借りれば下村を 待っている間の坂井の態度と、待っている坂井を見つけた時の下村の目で気がついたと言う。以前と何がどう変わった のかさっぱり分からない坂井だったが、下村だけは神妙な面持ちでそうですか、と一言返事を返していた。そういった 部分で坂井は些か鈍感であったが、しかし下村はもっと肝心なところで無神経であるから、あまりその時も気にはしな かった。しかしそれ以後、レナへ向ける下村の足が少しばかり鈍かった事は確かだ。それを坂井は二人の関係が露見 した事を厭うての事と気落ちしたものだが、ほとぼりが醒めた頃、ポツリと下村が恥ずかしかったのだと言った時の気 持ちを、坂井は今でもよく覚えている。その時ばかりは年上の女に言葉の上で弄ばれる据わりの悪さも、こんな言葉を 聞けるのならばと感謝したものだった。 カウンターに肘をついて振り返ると、下村は頬杖をついて海を眺めていた。肩越しの横顔は、下ろしたままの髪に遮 られて見えなかったが、大体の予想はつく雰囲気の冷たさだった。 「…ご機嫌斜め?」 「その様ですね」 コーヒーを置いて戻ってきた菜摘が、コソッ坂井に耳打ちした。言葉少なの中にもひんやりとしたものを感じたらしい。 あからさまに冷たくする事はないが、気配でそれと伝えるのが下村は上手い。坂井にはない芸当だが、あまり自分を話 さない下村には丁度いいのだろうと思っている。 こちらを見向きもしない下村の後頭部にため息一つ。坂井はしばらく放っておこうと向き直った。 その時。 「お邪魔するよ」 「いらっしゃい」 なんてタイミングだ、と坂井が思わず頭を抱えた目の前で、桜内は至極暢気な面持ちで片手を上げた。 「?」 すかさず坂井と下村を見比べ、一瞬不思議そうな表情を浮かべた桜内のそれが、瞬く間に満面の好奇へと変わるの を坂井はしっかりと目撃してしまい、いっそ入れ替わりで帰ってしまおうと腰を浮かしたその肩を、桜内はそつなく掴んで 引き止めた。 「残すのは失礼だぜ」 半分残ったカップの中身に、坂井はため息を漏らし、大人しくもう一度座り直した。 そんな二人のやり取りにも、下村はまったくの無反応だ。ちらりともこちらを見ないし、先ほどから体勢も変わっていな い。一瞬に居眠りでもしているのかと訝ったが、ソーサーをなぞる指先が僅かだが動いていた。 「なんだ。痴話喧嘩か?」 そんなもんは家でやれよ。コソッと耳打ちした桜内をぎっと睨む。それが余計に相手の興味を煽ると分かっていても、 どうにもならないのだ。 桜内は菜摘と違って坂井と下村の本当の所を知らぬはずだが、時々こんな風に含みを持ったからかい方をする。ど うも鎌をかけているようなのだが、今のところそれに乗ってやる気はまったくなかった。 「…傷が痛むんじゃないですか」 桜内相手なら、ストレートに言ってしまった方が手っ取り早い。変な勘ぐりもされずに済むと思ったのは、いかにも浅は かだった。はっと気づいた時には、最高の言い訳を与えてしまっていた。 桜内は聞くなり腰を上げると、口元へ僅かに浮かべた笑いで坂井を退け、迷いなく下村の席へと足を向けた。 「よう、調子どうだ?」 わざとらしく顔を寄せ、こちらに背を見せ下村の隣に腰掛ける。下村はてらいもなく顔を上げ、ええ、まあ、と答えた。 下村は時々、思い出したようにがくんと体調を崩す。左手を落としてからだいぶ経つが、その周期だけは未だに途切 れる事がない。そのせいで世にも珍しい鬱々とした下村を見られるのだが、傍にいる坂井はたまったものではなかっ た。八つ当たりをされるからではない。見ていられないからだ。横目で二人の様子を監視しながらぼんやりとしている と、菜摘がふふ、と小さく笑った。 「ああしていると、猫がじゃれているみたいね」 え?と思って振り返った時には、既に菜摘はカウンターから出て桜内にコーヒーを運びに行ってしまっていた。今の言 葉は幻聴だったろうかと考え、そんな訳がないと思うものの、ではその真意がどこにあるかというのはまったく分からな かった。 猫。ねこ?下村と…ドクが? 考えるがやはりよく分からなかった。だが菜摘にはあの二人がその様に見えるという事だろう。 まったく女の考える事は分からないと、坂井は何度目かのため息をカップの中に吐き出した。 「ちょっと見せてみろ」 「いえ、大丈夫です」 常から擦れた様な話し方をするせいで、下村の声は少し離れればほとんど聞こえない。あれがいざと言う時は驚くほ どよく通るのを知っているから、そのギャップを坂井はいつも不思議に思う。ともするとワザとなのかと思えなくもない が、少なくとも今は桜内と秘密の話をする気はないらしい。小さいが二人の会話は坂井までぎりぎり届いた。 「いいから…ほら」 上司が部下の女の子に詰め寄る様がなんとなく頭に浮かんだ。そんな場面を見た事はないが、ドラマにでも出てきそ うな会話だ。違うところはどちらも男で、片方が正真正銘の医者だというところだ。 まあ、セクラハに近いものは確かにあるのだが。 「ふーん…少し熱あるな。辛いようなら、薬取りに来いよ」 「ええ、ありがとうございます」 医者と患者の会話にやっと戻ったところで、坂井はなんとなく安堵の息を吐いた。相手が誰でも下村と二人きりでベタ ベタされていては坂井とていい気分ではない。さっさと離れろと内心では桜内に泥をぶつけている。未だか未だかと振り 返った坂井の前で、突然桜内は下村の耳元に顔を寄せた。 「……!」 ガタッと腰がスツールから浮いた。カウンターに戻った菜摘がちらりとこちらへ視線を投げたのが目の端に映ったが、 それどころではなかった。だがそんな坂井の動揺など気づきもせず、二人は直ぐに体を離した。 下村の横顔が、見慣れぬ表情を作っている。坂井は思わず立ち上がった。 「ドク」 「なんだ?」 振り向きざま立ち上がる。坂井の方が明らかに長身だが、どこか上の空な桜内の目は、何故か下村を思い出させて 坂井は一瞬たじろいだ。 「用がないなら、俺は帰るぞ」 ご馳走様、とカウンターに小銭を乗せて、言葉を無くした坂井の横を平然と通り過ぎ、桜内はじゃあなと一声かけてド アベルを鳴らして出て行った。カランカランと余韻が残る。途端に店内は静かになった。 扉に消えた桜内を見送っていた坂井はハッとして下村を振り返ると、下村はいつの間にか坂井をじっと見つめてい た。 「…馬鹿」 大きなため息を一つ。呟きに添えながら下村は立ち上がった。 「怒ってるのか?」 そっけない素振りを装っても、結局見透かされるのが関の山で、それでも坂井はあえてそうしている。下村もそれを分 かっているのか、こちらも素っ気なく別に、と一言答えただけだった。 レナを出て、結局下村は坂井をおいてさっさと自宅に引っ込んでしまった。そうなってしまっては本来なら放っておく方 がいいと坂井も重々承知していたが、しかしどうにも我慢がならず、結局日没を見計らって下村の部屋へ押しかけた。 越したばかりの下村の部屋には、家財と呼べるものがほとんど無く、唯一の大物と言えば居間に置かれたソファだ け。それも川中から無理やり押し付けられたシロモノで、自分から進んで購入したものではなかった。テレビも無く、本 棚も無い。テーブルは折りたたみ式の昔懐かしいちゃぶ台で、今は部屋の隅に畳んで立てかけられていた。坂井はソ ファの上に怠惰に寝そべっている下村を見下ろし、何度見ても代わり映えするわけもない部屋を見回し、大げさにため 息を漏らした。 「…手、痛むのか」 「いや」 即座の返答に坂井は顔を顰め、少し離れて立っていた歩みを進めた。 「…考えすぎだ」 「何が」 無言で腕を取った坂井の目を、しばしうかがう様にじっと見つめ吐息混じりに下村は呟いた。判じかねて眉を跳ね上 げた坂井に、今度ははっきりとため息を吐いた。 「桜内さん」 「ッあれは」 「考えすぎだ」 主語も無く本来なら意味も捉えかねるやり取りも、いつの間にか板についていた。だが今度ばかりは適当に済ます気 分になれず、坂井は食い下がるように腕を引いて強引に下村の体を起こした。 「おい」 「考えすぎでも、いい」 そのまま勢いでくちづけた。下村は一瞬、目を瞠ったが、直ぐに諦めたようにゆっくりと目を細めた。坂井も完全には 目を閉じず、近すぎてぼやけた下村の目をじっと見つめた。 明かりを受けた薄く茶色い目の中には、何の感情も浮かんでおらず、坂井は咄嗟に怯みそうになる。しかし下村はそ の気配を感じ取ったタイミングで坂井の背に腕を回した。 「…怒ってねぇよ。ただ…」 離れた唇が、触れる近さで呟いた。少しだけ息を切らし、下村は目を伏せた。 「ただ…何」 こちらも同じように息を乱した坂井が先を促すも、下村はなかなか後を続けなかった。だが坂井が促すように幾度か 軽くくちづけると、ようやくといった風に口を開いた。 「匂いが、一緒だって言われた」 「……え?」 「いつ嗅いだんだよ」 「は?」 あれ?と思って体を起こし正面から少し離れて見下ろすと、明らかにしくじったという表情で舌打ちした。 「気にいらねぇな」 「ちょ、ちょっと待て。匂いってなんの」 下村は不機嫌そうに何度か肩を揺らし、ばっと顔を上げると突然坂井の髪をぐいっと引っ張った。 「い、いててててっ!抜けるっ!」 思い切り前髪を鷲掴み、下村は何の遠慮も無い力でそれを引いた。坂井は痛みのせいで逆らえず、そのまま下村の 上に倒れこんだ。 同じシャンプーな。お前ら。 「え?」 滲んだ涙を隠さず、坂井が顔を上げると下村はぶすっとしてそっぽを向いていた。 言葉の意図が読み取れず困惑していると、今度はそっと下村が坂井の髪を撫でた。 「桜内さんに言われた。髪から同じ匂いがするって」 遠回しの揶揄だった。憮然として言う下村に坂井はしばしあっけに取られ、次いでじわじわと口元が緩むのが分かっ た。 「それで怒ってたのか?」 「…怒ってない」 口を尖らせ、ますます顔をそむける下村の頬に、そっと手を当てこちらを向かせる。下村もそれには逆らわず、素直 にこちらを向いた。 「可愛いの…」 嬉しげにそう言った坂井の頭をぼこんと叩いて、けれどもやっぱり下村は逆らわず、やっと両目をそっと閉じた。 ゆるゆると天井にカーテンの隙間から入り込んだ光が揺れている。それをぼんやりと眺めて、坂井は傍らでじっと横 たわる下村の気配を感じていた。ピクリとも動かないが、下村は確かに目覚めている。時々話を振ると、獣の唸り声の ような返事を返した。 「…まだ、だいぶ痛むのか」 ふらふらと煙草の先を揺らすと、真っ直ぐに昇っていた煙が千地に乱れた。眼前に広がるそれを目で追いながら、坂 井は小さく問いかけた。返事を求めてはいなかった。ただの自己確認作業に近かった。だが下村はもそりと動くと、肩 が触れ合う近さまで近づいてきて坂井を驚かせた。 「傷が痛むわけじゃない」 擦れた声は小さいが、物音の無い部屋では良く通った。吐息が微かに肩を掠めて暖かい。坂井は煙草をもみ消し、 ぴったりと体を寄り添わせた。 「左の手の甲を砕かれた時の痛みを、時々感じる事がある」 「しも…」 開きかけた唇を指先で制される。坂井は言葉を飲み込んだ。 「そういう事って、あるらしいぜ。無いはずの指先が痒くなったり。無くなったその先を、神経だけが覚えてるんだ」 未練がましいが、と下村は少し笑った。 「それがまあ、情けない気分でな。…少々機嫌が悪かったのは認める」 坂井の肩口に額を押し付け、下村は目を閉じ息を吐いた。眠いのか呼吸は緩慢だった。 「そうか」 それ以上、坂井は何も言わなかった。いや、言えなかった。 下村の中でその時の事をどのような形で飲み込んだのか坂井には分からない。今まで話題に出た事もほとんど無か ったし、あえて持ち出そうとも思わなかった。一度だけ、身辺整理のために付き合った東京の部屋で、死んだ女の気配 を感じただけだ。 その時坂井は、下村の顔をまともに見なかった。 「…同じシャンプー使ってれば、同じ匂いがするなんて当たり前だよな」 「うん…?」 下村の髪に鼻を埋めると、微かなラベンダーの匂いがした。きっと自分も同じ匂いがするのだろう。まともにデートもし ない仲だが、買い物はよく一緒に行く。生活雑貨もその時一緒に補充するので、当然坂井の風呂場にも同じものがあ った。 なんて事もないそれが、突然特別な事と気づいて坂井はじんわりと頬が熱くなる。 「なんか…ちょっと、照れるな」 髪にくちづけ、少し下ってこめかみや頬にもくちづけると、下村はクスクスと笑った。坂井の頬が赤くなっているのを見 つけたせいだ。下村はずり上がると坂井の頭を抱え込み、同じようにその髪にくちづけた。 「本当だ。同じ匂いがする。俺と同じだ」 「…やめろって」 からかわれた仕返しに、喉元に噛み付いた。それに初々しいなあ、と下村がまた笑った。 |