Stubborn



















 止めようと思った事は一度もない。
 少なくとも自分は。

 サンジは食後の一服を深く吸い込みながらぼんやりと天井を見上げた。
 ゆら、ゆら、と幾分か風の強い波に合わせてランプが揺れる。見れば時間は夜半を過ぎていた。キッチンの片付けは
済んでいる。後は自分の心持如何で風呂に入るか、そのまま寝るかの境目だ。サンジはどうしようか、と半瞬迷う。だ
が結局結果は決まっていた。
 ゆらゆらとランプの揺れるのに合わせながら、室内の細かな陰影が形を変える。その度にサンジはその影の中に、
光の中にいつかの夜の光景を重ね合わせた。もっともその時はランプの光はギリギリまで落とされ、足元が危うくない
ようにという最低限の光量だった。そのさ中、陰影は何度も形を変え、質量を変え、色を変えてサンジの視界を翻弄し
た。

 ゾロ。

 くわえ煙草の口で、声にはならなかった。それでももう一度呟く。

 ゾロ。

 応とも否とも、答える人はない。ラウンジにはサンジ一人だ。それでもサンジはもう一度呼ばわった。

 ゾロ、と。

 その度に胸がぐっと迫り、呼吸が不規則に早まった。興奮よりも不可思議な体の変調に過ぎぬそれら一連の変化
は、ともすればチョッパーに診察を受けねばならない類だ。だがその必要がない事をサンジは知っている。

 ゾロ。

 もう一度だけ。声にならぬ声で呼ばわった。






 実際ゾロがどのような気持ちの変遷でサンジと今のような関係になったのか分らない。おそらく聞いたところで答えは
しないだろう。それにあえて自ら不快になろうとは思わなかった。
 ゆら、ゆら、と一定の間隔で波は船を揺らし、ランプを揺らし、サンジの頭を揺さぶった。緩やかだが確固たる力でも
って繰り返されるそのリズムを、サンジは受け止めようと思うのに心が上手く追いつかず、信じられないことに船酔いの
ように胸がぐらぐらした。腹から喉、口元へ遡ってくるあがらえない気配にさっと立ち上がりシンクに顔を突っ込んだ。

  吐くな、馬鹿。
  コック自らが食料を無駄にしてどうするのだ。

  栄養を取らねば食物の意味は消える。それを供す自分自身も。
 何とか寸でで堪えたが、額に浮かんだ冷や汗がゆっくりと頭皮を伝って米神を流れた。不愉快な塊が胸の中でもやも
やと行き来する。それをどうにかやり過ごし、シンクにもたれてずるずると座り込んだ。
 シンクに落ちて消えてしまった煙草の代わりを取り出すが、火をつける気に到底ならず再び懐に戻して蹲った。
 もう何度か、いや、正確な数だって本当は分っている。しかしあえてそれを持ち出して、いったいそこに何の意味があ
る?一度も二度も、あの男にとっては同じ事だ。一度が十度だって、百度だって。そう考えてサンジは身震いした。自分
ばかりが深く入り込んだつもりでも、あの男にとって等価値とは限らない。なんだあんな事、重要でもなんでもないと一
言断罪されれば反論などあろうはずもないのだった。
 だが今でも、昨夜だってゾロは何も言わず、サンジが隣に忍び込んでも気にする風もなく、まるで女にするかのように
何度か背中を撫でただけだった。

 止めるつもりはまったくない。
 だがもしそれ以上の約束が貰えるのならば、たとえば止めてしまってもいいと思う。

 それ以上の約束が、もし存在するのならば。

 貰えるはずもない、途方もない妄想の産物だが、近頃になってそればかりを考えてしまう自分をサンジは十分自覚し
ていた。
 だからこそ、こんな風に夜中を過ぎた時間に一人、おぼつかない気分になっている。
 なんとも情けない話だと思うが、もはや自分でもどうにもならないところまで追い込まれている事にも気づいていた。
「弱えーな、俺は…」
 こうまでなっては、本当にため息と苦笑しか浮かべようがない。否定する力もとうに尽きてしまった。最初は抵抗してい
たものだが、認めた方がずっと楽で納得がいくと今では思う。

 いつまで経っても揺れの治まらない船はいつもの事であり、いつまでも続く。
 船が海の上に浮かんでいる限り、生涯治まる事がないのだ。
 ならば陸へ上がればいいのか。
 しかしそうなれば元々の意味を失う事になる。

 ジジ、と低い音がして、ランプが突然ふっと掻き消えた。油が切れたのだ。同時に揺らめいていた全ての陰影と揺ら
めきが掻き消えた。
 そこまで至り、サンジは自嘲した。
 ああ、今夜は少し考えすぎる。考えては駄目だ。無だ。この闇のように。
 唯一の光である月も、ラウンジまでは届かない。わずかに窓の周りがほんわりと浮かんでいる。それは到底サンジの
元までは照らさなかった。
 伸べた指先も、だらしなく投げ出した足も、すべては夜と闇に同化し、あるのかないのかも分らない。ただ自身が知覚
し、そこにあると思っているだけの儚いものだ。もし自分と言う意識が消えれば、それらも同時に闇に解ける。なんとも
不確かで不確定なものなのだろうか。自分と言う存在を、思い込みだけで具現しようとは。
 くくっと思わず声が漏れる。しんとして室内に反響し呼応して、他の誰かが漏らした吐息のようにも聞こえた。

「ゾロ」

 呼んでみる。やはり違う誰かの囁きの様だ。

「ゾロ」

 言葉は闇に吸い取られた。反響さえしやしない。

「…好きだよ」

 いっそこの陰鬱な感情も、吸い取られてしまえばいいと思った。





























(2004/09/16)

end



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