気分が悪いからと早々に店を出たと坂井に聞いたのは、閉店間近の事だった。どうせ飲みすぎたのだろうと言うと、 そうではなかったと答える坂井は素っ気無い。そんなに心配なら店を閉めたら見に行けばいいと言えばあからさまに嫌 な顔をされた。 「俺が行って、どうなるもんでもないでしょう」 確かに、と頷きそうになった自分を危うく止めて、桜内は遠回しな訴えにため息を吐いた。 「具合が悪ければ、あっちから来るだろう。医者は呼ばれなければ行かないものだぜ」 週末前の店内は、珍しく閑古鳥が鳴いている。入口ではボーイが大分余裕な表情で立っていた。坂井はと言えば、あ くびこそしないが、とても忙しいとは言えない様子で、なるほど暇つぶしかとため息は余計に深くなる。決して反論するわ けではないが、気に障るような笑い方をする坂井をじろりと睨むと、今度はにっこりと営業用の笑顔で応戦してくる。そ れがまた、ますます気に障って桜内は少々乱暴な所作でグラスを置いた。 「…なんだ。言いたい事があるなら言えよ」 「いえ。お客様のプライベートに口を挟むような事は致しません」 汚れも指紋も埃もついていないグラスを小気味よく磨きながら、ちらつかせる言葉の端々は明らかに桜内と話題の男 との関係を匂わせている。癪に障って言い返そうにも、しかしそれが真実であるから桜内は一瞬躊躇した。その瞬間、 既に勝負はついたようなものだった。 「よろしければ、お車ご用意致しますが?」 「結構。…次はお前を酒の肴にしてやるぜ」 捨て鉢な気分で席を立った桜内の背中に、またのご来店を、と言う声が追って来たが、綺麗に無視して店を後にし た。 扉の前に立ち、桜内はドアノブに伸ばしかけた手を止めた。 手の中にはだいぶ以前に渡された合鍵があり、それはそのまま開錠に役立った。鍵を渡された以上、持ち主は入る 事を承知しているわけだが、しかし今は状況が状況だけに本人の認識が正しく行われるだろうかという疑問が残る。な んと言っても渡されたその鍵を使うのは、今夜が始めてでもあるからだ。 「………」 しばし迷い、だがままよとノブを捻った。こんな夜更けに、人の部屋の前で長々と突っ立ったままである方が余程怪し い。開けた途端にズドンだけは勘弁と思いながら、桜内はゆっくりとドアを引いた。 室内は家主の就寝に合わせ、当然明かりは無い。背後から入る廊下の蛍光灯が桜内の形を狭い上がり框に落とし ている。室内の物音を聞き取ろうにも、人の気配さえ感じなかった。心配は杞憂に終わったが、なんとなく玄関へ踏み 込み一歩が戸惑われた。 「…叶。居るのか?」 そっと呼んでみるも、寝室で寝ていれば聞こえるわけが無かった。もやもやと考え躊躇し、しかし結局桜内は上がり込 んで扉を閉めた。途端に密閉された空間は更に気密を高めて沈黙が耳の奥でキンと鳴った。数秒息を潜めて辺りを伺 う。やはり室内に人の気配はせず、奥から人の出てくる様子も無かった。ここまできて何を戸惑う事があると思う。ここ で帰れば何か余計な事まで認めてしまうようで、桜内は己の職を言い訳に靴を脱いだ。 カーテンを閉め切った部屋は真っ暗で足元もおぼつかず、狭いキッチンとリビングはシンとして、寝室へ続く扉はぴっ たりと閉まっていた。カチンとワザとらしく音を立てて明かりをつけると、ようやく少しほっとした。それで幾分と心地を取 り戻し、桜内は気軽い風を装って寝室の扉を開いた。ここへは近寄った事が無い。いつでも叶が桜内の元へ来る事の 方が圧倒的に多かったし、まして寝室に入る事など皆無だった。 「…?」 扉を開けた途端、聞き慣れない音が耳の底をついた。低いモーター音。次いで聞こえたコポコポという音に、それが 直ぐに何か分かった。 深く青い光に照らされ、ぼんやりと闇の中に浮かんだ水槽の、そこだけが鮮やかだった。 「…ドク?」 擦れた声に振り返る。水槽に気を取られ肝心な用件を忘れるところだった。 「勝手に入って悪かった。具合、どうだ?」 窓際のベッドに横たわった叶は酷く無防備な顔のまま、半ばぼんやりとした目で桜内を見上げている。近寄って首筋 に指先を触れさせれば、驚くほどの高温を読み取った。 「悪い事なんて…。ああ、熱が引かなくてね。坂井にでも聞いたのか?」 深く息を吐いて、叶は自嘲気味に笑って目を閉じた。言い訳がましい言葉は喉に詰まって顎を軽く引いた。 医者である自分に何故一番に知らせなかったのだという事は簡単だった。きっと叶は大した事はないからと答えるだ ろう。予想のつく強がりは、こんな時ばかりは気に入らず、桜内はぐいっと叶の顎を掴んで上向かせた。 「口、開けろ」 一瞬驚いて瞠られた目は、直ぐに承知し閉じられ口をそっと開いた。喉が痛くておそらく大きくは開けないのだろう。 重々しい仕草に桜内は僅かに乱暴に舌の上に指を乗せた。 「ああ、腫れてるな。後で薬を持ってくる。何か欲しいものは?」 ワザとらしく素っ気無い言葉は、心の中で悔いる気持ちがあるからだ。分かっていてもそれを正せず、桜内は舌打ち したい気持ちで顔を背けた。 「いや、何も…」 語尾はかすれて消えてしまった。はあ、と小さく早い呼吸を回数だけで補っている。今年の感冒は喉に来るから等と いう台詞を言う気にもならなかった。 この胸の重くなるような苛立ちやいたたまれない据わりの悪さの意味を、何時までも図りかねている。 桜内は無意識に唇を噛んだ。 「それじゃあ…」 「待って」 先が続かず、まるで逃げるような格好で半身のところを引き止められた。ハッとして振り返る。何時の間にか起き上 がった叶の手は、熱を含んで桜内の手首を絡め取った。 「少しだけ、居てくれよ」 「だが薬を…」 「少しだけで、いいから」 離れていても叶の間接からは、ぎしぎしと不協和音が届くようだった。高熱に体は確かに蝕まれているはずなのに、 桜内を見上げる目はいつものように鋭く力強い。それに耐え切れず咄嗟に目を逸らした。 「…悪かった」 それをどう捉えたのか、叶の手からは一瞬で力が消えた。ぽす、とベッドに手が落ちると、そのままなだれ込む様に 枕に顔を埋めた。 「…少しだけだ」 言い訳だ、と分かっていた。 誰に対してかは、分からなかったが。 眠ってしまったのを見計らって部屋を出た。 手っ取り早く熱を下げる方法を取るためだ。その考えに自分でうんざりする。手っ取り早く?普通に薬でも与えておけ ばそのうち下がる。いつもならそう言うのではなかったか。そのせいで自分が動揺していることを自覚してしまった。冗 談じゃない。どうして自分が。 足早にエントランスを抜け、車に飛び込んだ。ばからしい。息が切れて少し胸が痛んだ。腹立ち紛れに、それを運動 不足のせいにした。 「何か食べるか?」 「いや、いい」 幾つかカバンに詰め込んで戻ると、叶は目を覚ましてぼんやりと天井を見上げていた。出来るだけ目を合わせない様 にして傍に膝をつく。カバンからアンプルを取り出した。 「腕」 「ん」 捲り上げて消毒し無造作に針を突き立てた。叶はそれを無言でじっと眺めている。まるで他人事のように。細い針で は痛みを与える事も出来なかった。 「医者は皆、注射が下手なのかと思ってた」 「慣れないからだろう」 簡単な処置は看護師がこなしてしまう。医者は言葉一つで済む事が多いのだ。 「薬は置いていく。必ず何か腹に入れてから飲めよ」 枕元に顆粒と錠剤、飲む回数と分量を書いて一緒に置く。叶は何度か咳をして、分かった、と頷いた。 「じゃあな。何かあったら連絡しろ」 「ありがとう」 立ち上がってさっさと部屋を出ようとした背中に叶は素直にそう言った。神妙な。皮肉は出なかった。引き止めもしな い事に感じる罪悪感は勝手なものだ。責めればこれ幸いと出て行けるのに。計算ずくだと思いたくはないが、それでも 自ら罠にかかったようなものだ。それも半ば望んでの事。ほんの数秒、目を閉じる。覚悟の時間はそれで十分だ。次の 瞬間には身を翻していた。 「ド…?」 目前に迫った叶の目が、今まで見た事がないほど見開かれている。だがそれも直ぐに閉じた瞼の向こうになった。触 れた唇はカサカサとして熱かった。 「早く直せ…。俺が困る」 捨て鉢な呟きにまた叶は驚いて、だが直ぐに目元を和らげああ、分かった、と頷いた。 「優秀な主治医がいるから、あっという間だ」 「当たり前だ」 顔を背けて、立ち上がる。カバンはその場に放り投げたままだ。 「その上、付きっ切りで看病までするんだ。直らない訳がない」 「ああ」 振り向かずとも気配で叶が笑ったのが分かった。だが不思議と腹は立たない。多分それが、とても嬉しそうであった からだ。 「作るから、喰えよ」 「ああ、…もちろん」 現金な返答がいつもらしくて思わず口元が緩んだ顔を見られないように、急いで部屋から台所へ逃げる。それでもき っと、叶にはばれているだろうと分かってはいても、それが精一杯だと今は思う。 まだどうしたって向き合えない気持ちの方が多い。心ではそちらを確かに指し示しても、頭が納得できないのだ。それ でも叶はそれを許すから、少しづつ近づいていければいいと今は思う。 ほとんど使った形跡のない台所に立ちながら、きっと真っ赤になっているだろうと天井を仰いだ。 |