なおじは小さな黒猫です。



※この時点でヤバいと思った人は、戻りましょう。









































 人間の下村は時々なおじをぽっけに入れて道を歩きます。
 お日様がぽかぽかとして、なおじはそれが大好きです。
 下村のぽっけはふわふわして、しっぽをふるとぽっけがもこもこ動きます。
 あんまり動くと下村がこら、と言うのでおなじは時々だけしっぽを動かすのです。
 道を歩く下村はとてもゆっくりです。
 本当はなおじも道を歩けますが、下村がなおじを持ち上げるので、それでいいのです。
 だから今日もなおじは下村のぽっけの中なのです。
 なおじがぽっけから顔を出したり入れたりしていると、下村がぴたりと止まりました。なんだろうと顔を覗かせると、他にもいっぱいの人間が止まっ
ています。でもなおじには、どうして止まっているのか分かりません。でも下村が動かないので、別になおじはかまわないのでした。なおじはたくさ
んの人間をきょろきょろと見回しました。その間から、道の向こうに草がたくさん生えているのが見えました。

 つくしんぼうです。

 ぴっとなおじの耳が立ちました。慌てて下村を見上げます。でも下村は気がついていないようでした。
 雨上がりの道を歩いている時、なおじに下村はあれがつくしんぼうだよ、と言いました。なおじは下村が指差すので、食べて良いのかと噛んだら
苦くてびっくりしました。それに下村はあはは、と笑って楽しそうだった、あのつくしんぼうです。
 大変です。下村は気がついていないのです。でもあれは下村があははと笑う、つくしんぼうなのです。
 どうしようときょろきょろしていると、下村が歩き始めました。周りのたくさんの人間も歩き始めます。つくしんぼは、どんどん遠くなるばかりです。
時々は見えなくなってしまいます。
 なおじはにゃあ、と鳴きました。でも下村は気がつかないのか、ずっと歩いたままなのです。

 下村、つくしんぼうだよ。

 どんなにかそう言えたらよかったでしょう。
 けれどもなおじは黒猫で、下村は人間なのです。
 なおじの言葉は、下村には聞こえないのです。
 なおじはもう本当に慌てて、ぽっけから飛び出しました。
 飛び出して、大きな声で鳴きました。





「にゃあ!」





「なおじ!?」





 突然の声に驚いて振り返ると、いつの間にか薄手の上着から飛び出した、黒猫の後ろ姿が目に入った。慌てて見上げた横断歩道の信号はもう
赤だ。途中に中州のあるような四車線の長い横断歩道を、その小さな黒猫が車の来ぬうちに渡りきれるはずもない。下村は咄嗟に道路へ飛び出
した。
「なおじ!ダメだ!戻れ!」
 叫んでも子猫はすごい勢いで駆けて行く。何てことだ。その小さな体のどこからそんな力が出るのかと思うその姿はまるで弾丸だ。こちらを振り
返ろうともしない。下村が道路の中央まで来たところで、動き始めた車は容赦なく下村の行く手を遮った。車の向こうにまだ渡りきれない子猫の姿
が見え隠れしている。このままでは渡りきる前に轢かれてしまうに違いなかった。
「なおじ!なおじ!!」
 一歩踏み出した下村に、車はけたたましくクラクションを鳴らしていく。それを口汚く罵って、どうにか前に進もうとするもどうにもならない。
「くそっ!」
 その間も小さな黒猫は車の隙間を縫って行く。目の前の車が目隠しになり、一瞬視界から消えるも再び目視した時には、あと一車線で元いた歩
道に渡りつくところまで黒猫は進んでいた。だが振り返ったその車線の後方には、ワゴン車が猛スピードで突進していた。
「なおじ!」
 パッパーッとワゴン車がクラクションを鳴らした。だがスピードを緩める事はない。
 馬鹿なことを。そんな事をしたら。
 案の定黒猫は驚いて、道路の真ん中で固まった。近づいてくる車を目前に。
「なおじ!!」
 乗り出した下村の目の前を、土砂を積んだトラックが猛スピードで横切った。咄嗟に体を引いて避ける。ぱらぱらと撒き散らされた砂が降りかかっ
て視界を埋める。顔を庇って後ろに下がると、車通りが途端に止まった。
 信号が変わったのだ。
 下村は猛烈に走り出した。黒猫のいたはずの場所には何もない。ほっとするも束の間、跳ね飛ばされた可能性に気づき青ざめた。
「なおじ!」
 歩道へ走りこむ。何事かと振り返って行く歩行者を無視し辺りを見回すと、道路とは反対側の歩道と草原の境目に、男が一人立っているのが目
に入った。
 そしてその男の胸元に。
「なおじ!」
 駆け寄って男の胸元を凝視する。黒猫は何事が起こったのかわからないような顔で、きょとんとして下村を見上げていた。
「…よかった」
 あまりの安堵感に胸を押さえ、その場にへたり込んだ。こんなに緊張したのは随分と久しぶりだったのだ。そんな下村の様子に男は何も言わず、
ただその隣に座り込んだ。
「にゃあ」
 男の腕の中で、黒猫は暢気に鳴いて、しばらくするとじたばたと暴れて男の腕から逃げ出した。
「本当、よかった。なおじ」
 ちょこんと座って見上げている小さな黒猫を持ち上げて、そっと抱きしめた。首筋に当たる毛がふわふわと心地よく、その柔らかさに余計安堵し、
下村は大きく息を吐き出した。
「大丈夫か?」
 そう声をかけられ、初めて目の前の男の存在を思い出して、下村は慌てて顔を上げた。無事であった事ばかり精一杯で、男の事を失念してい
た。そもそも状況から言って黒猫を救ったのがその男である事は明白だった。
「あ、ああ。ありがとう。どこも怪我はないみたいだ。本当に…助かった」
 同じように隣に座り込んだ男の目が、思いの他近くてびっくりする。
 だがそれが黒猫を覗き込むためである事に気づいて、下村は口元を和らげた。
「いや、猫もそうだけど、あんたも。死にそうな顔してたぜ」
「え、俺…?」
「真っ青だ」
 そう言って突然、頬に触れられた。そんな行動を予想していなかったせいで、下村は素直にそれを受け入れていた。
「だ、大丈夫だ。少し…驚いただけだから」
 乱暴にならないように、そっとその手を払いながら顔を引く。男のとの距離があまり適当ではないと判断したためだ。だが男は下村のそんな心情
など気にする風もなく、下村が引いた分だけ身を乗り出した。
「なあ、その猫、なおじって言うのか?名前」
「あ、ああ。そうだ」
 疲れてしまったのか、ぐったりと下村の肩に顎を乗せてうとうとしている黒猫を指差す男の目が、やけに楽しそうだと思いながら頷くと、今度はは
っきりと男は愉快そうに笑った。
「俺も、なおじっていうんだぜ。名前」
「え」
「すげぇ必死な声で名前、何度も呼ぶから、びっくりして振り返ったんだよ。そしたらこいつが目に入ったから」
 助けてくれたらしい。下村はあまりの偶然に呆然とし、男の顔を凝視した。
「本当、あんた大丈夫か?家、どこだよ。送るから」
 男は下村の腕を掴んで強引に立たせると、そのままツカツカと歩き出してしまった。
「ちょ、ちょっと。一人で大丈夫だから…」
「まあまあ、いいから。こっちに車止めてあるからさ、遠慮するなって」
「いや、別に遠慮してるわけじゃ…」
 腕を掴まれたまま、下村は展開の速さについて行けず、引かれるまま男の後をついて行く。
 そこでふと、男の手の甲から血が出ているのが目に入った。
「手、血が出てる」
「あ?ああ。どっかに引っ掛けたかな」
 大して気にした風もなく、ちらりと見ただけで無関心だ。だがそれは明らかに猫の爪による引っかき傷だと下村には分かった。おそらく黒猫を助け
た時に、必死でしがみ付いたその爪が男の手の甲を傷つけたのだ。
 これでは、ありがとうと言って、その場で簡単に別れることは出来なくなってしまった。
 小さくて可愛らしい大切な黒猫の、命の恩人であるこの男と。
「なあ、あんた、なんて名前?」
 未だに腕を離さず、男は振り返って名を問うた。一瞬躊躇した下村に男はああ、そうか、と呟いた。
「俺はなおじ。坂井直司。あんたの名前も教えてくれよ」
「…下村、敬」
「ふーん…。下村か」
 男は何度か嬉しそうに下村の名前を繰り返し、最後に敬って名前、あんたに合ってるね、と言って笑った。
 よく笑う男だと見当違いな感想を持ちながら、下村は不思議と悪い気はしないと思って笑い返した。
 耳元で、小さな黒猫は寝言のようににゃ、と鳴いた。 




















(04/10/12)

お わ り