室内を満たす穏やかな眠りの気配や温かな空気は、一時の安らぎと日常の柔らかな香りを思い出させ、その反面各 人の体に残された傷の深さを余計に際立たせた。 外にはまだ、焔の匂いとざわめく人の気配がする。酒宴は時を忘れ生まれを忘れ、そして過去の様々な因縁や血の 記憶を洗い流していく。そしてまた新たに生れ落ちようとする国の息吹が確かに息づいていた。 それを心地よく、また少し気恥ずかしい気分で感じながら、暗闇の中一人ゾロは酒瓶を傾けた。 ここを使ってくれと用意された部屋は、全員が伸び伸びと寝転んでもまだ広々としている大広間だ。おそらく普段は何 かの集まりや催し事に使われる大きな建物の一室を、十指に満たぬ海賊の面々が占めている。あちらを向けば腹を 出して眠る船長。こちらを向けば王冠を抱きしめて眠る航海士。いつもの事だが男女の隔てなく転がる面々をゾロは見 渡し、ふと半時間前に寝入った時には揃っていたクルーが一人足りない事に気がついた。陣取っていた場所には、折 り目正しく整えられた毛布が一枚。なんとなく近づき触れてみても、ひんやりとしてまるで他人顔だった。 ゾロは一つ舌打ちし、立ち上がる。既に空になった酒瓶をぶら下げて扉を開いた。 「よお、起きたのか」 巨木の根元に座り込み、中央に焚きしめられた炎から少し離れて座る姿を見つけて、ゾロは真っ直ぐにそちらへ足を 向けた。近づけば直ぐに気づき声をかけるのに、軽く顎先で答える。それ以上特に答えを待っていなかったのか、また 視線は直ぐに逸らされた。 「…眠れねぇのか」 言って思わず舌打ちした。遠回しの言葉の通じる相手ではない事をうっかり忘れていた。案の定振り返った目は穏や かに正直に嬉しそうに細められた。 「たいしたことねぇよ」 高圧の電流を受けてたいした事などと、まったく暢気な言い草だった。近づけば血の匂いも微かに漂う。その上最悪 な事にこの暢気なコックは掌まで傷を作っているのだ。ゾロは半ば八つ当たりの気分でジロリと隣に座るサンジの横顔 を睨んだ。 「派手な姿になりやがったな」 「どーも、お陰さまで。お互い様」 口の端を少しだけ上げて笑う仕草を見るのは、随分と久しぶりのような気がして、本来ならそのままつかみ合いにで もなるはずだったが、ゾロは穏やかに笑い返し、そんなゾロにサンジも穏やかに笑った。 「…よかったな」 しばらく無言で篝火を眺めていたサンジが、ぽつりと呟いた。振り返るとサンジも同じようにゾロを見つめていた。 「皆、笑ってるぜ」 「ああ。そうだな」 そしてサンジは、笑った。どこか疲れたような声で。ほっとした声で。とても、優しい声で。 「いい事ばかりじゃねぇかもしれねぇが…。殺し合いより、ずっといい」 呟いた声は、ずっとゾロの耳に残った。 遠いなあ、と言ったサンジの声にゾロははっとして意識を戻した。知らずうち、上の空だったらしい。サンジもそれは承 知していたのか、はっとしたゾロをくっく、と笑った。 「…何が」 ばつの悪さを隠すようなぶっきらぼうな声は、余計にサンジの笑いを誘ったようだが、忌々しくも後ろめたくてゾロも追 求はしなかった。 「空島」 ん、と顎先で真上を示してサンジは軽く顎を逸らした。あらわになった喉元が、薄暗く照らすランプの明かりに白々と する。突然ざざざ、と波の音が耳元で鮮明になり、どこまでも続く白い海を思い出させた。 「ああ」 「今頃、どこの空の上か…」 煙草を船外に投げ捨て、ごろりと後ろに寝転がる。強く残った煙草の残り香が、しばらくゾロの鼻先を掠めて直ぐに海 風にさらわれて行った。 「さあな…」 空から落ちて直ぐの騒動に感傷に浸る暇もなかった船員たちも、疲れ果てて今は皆眠りの中だ。本来ならサンジもと うに休んでいる時間だったが、船首で夜の見張りについていたゾロの隣に黙って座り、ぼんやりとしていたのはどうやら そういったわけらしい。珍しく両手にぶら下げた酒瓶でいつもと違う事は承知していたが、今更のように思い出していた のかと少しゾロは驚いた。自分とて思い出さぬわけもなかったが、なんにせよあの国の先は明るい。それに常に前ば かりを見ているゾロにとって、感傷でもって振り返る事はあまりなかった。人にはそれぞれの道がある。そしてそれはい つか別たれるものなのだ。それをゾロは、まだ幼いあの日に知ったのだった。 だが、だからといって感傷的になる者を責める気も、見下すつもりもない。ただ自分よりも心が豊かなのかもしれな い、と思うことはあったが。 「素っ気ねぇの」 お前らしいね。頭の後ろで腕を組んで呟いたサンジの体にはまだ傷跡も生々しく、腕に巻かれた包帯には血が滲ん でいる場所もある。治癒の追いつかない体のあちこちは、まだ血の匂いが染み付いていた。 「…元気にやってるだろうよ」 答えたゾロに、サンジは少し驚いた顔をした。どうせ馬鹿にでもすると思ったらしい。ゾロは合わせた視線をぷいと逸 らして空を見た。雲ひとつない夜空に、転々と小さな光の粒が散っている。月はほんの少しだけ欠けていたが、丸みを 帯びて空を海を明るく照らしていた。 しばらく黙っていたサンジが、ぽつんと呟いた。 「また、会えるといいな」 きっとそれはとても難しい事だった。空の下の世界でさえ、それはとても難しい。それが空の上ともなれば余計だっ た。だがきっと、この船に乗る者たちは疑いもなく思っているに違いない。 またきっと、会える、と。 突然ぐい、と腕を引かれて振り返ると、サンジがじっとこちらを見ていた。問いかけのような目に一つ強く、心臓が鳴 る。何故かその時、心中を見透かされたと感じた。途端に頭に血が上った。 「離せよ」 「うるせぇ」 ぐい、っと要望とは反対の行動をとられ、咄嗟の抵抗も出来ずサンジの体に重なるように倒れこんだ。掴まれたまま の腕を乱暴に払おうとしても、サンジはがんとして離さなかった。 「おい」 もう片方の手を付いて体を起こし、文句の一つでも言おうと顔を上げると、突然真剣な面持ちとぶつかり言葉を呑ん だ。 「いてぇか」 「全然」 「嘘ばっかり」 ふ、と目の力を抜いてサンジは口元を歪めたそれが少しばかり痛々しく、自分の心配でもしていろと怒鳴りつけようと したところで口を閉じた。それが随分とサンジを喜ばせる言葉だと気づいたからだ。 「嘘じゃねぇ…」 否定しながら、しかしゾロは腕から力をそっと抜いた。そのまま頭をサンジの胸の上に降ろす。シャツ越しの体温がじ んわりと頬に染みた。片方の掴まれた腕からも、同様にサンジの体温は心地よく伝ってくる。体温。そしてその鼓動が ゆったりとリズムを刻んで力強くサンジの命を繋げている。それがどれだけ稀有な事であるか。ゾロは深く目を閉じた。 あっさり抵抗を止めたゾロの頭をサンジは嬉しそうに何度か撫で、戯れの指先はそっとゾロの耳やその飾りや体を包 むシャツの襟首をなぞっている。サンジの指は冷えていて、だが柔らかく細やかでじんわりと気持ちが染みてくるようだ った。 ああ、本当に。お前の信念みてぇだな。 自分との隔たりを、強く感じるのはこんな時だ。 本来ならばサンジは、誰かを傷つける事など必要のない人間だ。ただ目的のため、誰かを守るために揮われるだけ だ。自分とは違う。殺し合いや斬りつけ合う刃の下にしかゾロの目的も信念もない。 『殺し合いより、ずっといい』 ああ誰かコイツを、そんな世界へ連れて行ってはくれまいか。 「ゾロ?寝たのか?」 目を瞑って動かないゾロにそっと声がかけられる。伺うような穏やか声は、ほっとしたようにも聞こえる。生傷の絶えな い体を慮ってと知っているからゾロは目を開けなかった。 素直になりきれない。受け入れられない。強情ばかりが先に立って、本心はいつもしばらくしてから顔を出した。それ でも精一杯近づこうと足掻く様子は、見ようによっては滑稽で、馬鹿馬鹿しい笑い話だ。だがそれも悪くないとゾロは思 う。そんな風でしか居られない自分たち。それでいいのだと思う。 目的も信念も、考え方も生き方も違う。それでも寄り添おうとする気持ちは本当だった。相手を本心で大切に思う気持 ちも。 ああ、誰かコイツを、殺し合いなどない世界に。 暗闇の世界は繰り返される鼓動に埋め尽くされ、それがまるで世界の真理のようだと思いながらゾロはゆっくりと眠り に落ちた。 |