「お前ホント、海好きな」 風向きが細かに変わる海風に髪を弄られても、たいして気にしていない下村は振り返って不思議そうな顔をした。 「別に、好きじゃない」 じゃあなんで休みとくれば海なのだ、と坂井は思う。坂井とて海が嫌いなはずもないが、とにかく寒いのだ。冷たい風 は耳を引きちぎりそうな勢いで吹きつけるし、手足は冷えて感覚が乏しい。見れば下村も鼻の頭を赤くしているのに、ど うしてそんな事が言えるのだ。大体、坂井にしてみれば、折角二人きりの休日なのだ。できればもっと限定された空間 で、完璧な二人きりの状況などを作りたい。なんと言っても、二人は所謂恋人同士なのだから。 しかしそんな坂井の夢想など、下村からすれば思いつきもしないらしく、極寒に犬の散歩も姿を現さないマリーナで震 えている。振り返ればここよりずっと素晴らしい、暖かい飲み物のあるホテルが見えるのに、下村が望まぬ限りそこは あまりにも遠かった。 「お前、寒がりだなあ」 自分の体を抱いてぶるぶる震えている坂井に、下村はなんとも暢気だ。相変わらず薄着だが、今日は流石にコートを 着ている。だが広い襟ぐりの辺りからは鎖骨が覗いていかにも寒そうだ。その様に坂井はぐるぐると巻いたマフラーに 首を縮めて、更にぶるぶると肩を震わせた。 「そんなに寒けりゃ、秋山さんのところに行ってろよ」 さらりとそんな酷い事を平気で言う下村の神経を真剣に疑う坂井である。本当にあっさりと見限られてがっくりと首を 落とす坂井に、下村は不思議そうな顔をした。 「お前って…」 「なんだ」 「…なんでもねぇよ」 色々くどくど言ったところで、その場では頷いても結局下村は理解できない。思考の根本的な差異は最後まで埋まら ないのかもしれないと、最近境地に達している自覚のある坂井は、ため息一つで気分を切り替え、どすんと下村の隣に 座り込んで陣取った。 「無理すんなよ」 「無理、して、ない!」 やせ我慢もいいところだが、優先順位を決めただけだ。下村は少し困ったような顔をした。いっぱしに心配なのかと思 うと、気分が上向く。それよりも困惑に近いと言われればそれまでだが、この場合楽天的に取るのが人生を楽しく過ご す秘訣なのだ。 「坂井」 しばらく足元の浅瀬にふっと現れては物陰に消える小魚を、煮付けにできるか思案していた坂井だが、呼びかけられ て振り返った。寒さと意地でぴったりとくっついた肩の向こうに下村の顔が見える。無表情は余計に坂井を寒々しい気 分にさせた。 「ほら、中入れよ」 「は?」 「ほら」 ぐい、と肩を引かれてドンと下村の肩にぶつかった。そのまま背中がふわりと温かくなる。目前には下村の首筋が見 えた。 「な、な、なに」 「何って、寒いんだろ?やせ我慢するなよ」 アホか、と呆れ顔の下村があまりに近くてドギマギする。引き寄せられた体を直に暖めるその体温に驚き、下村の着 ているコートにくるまれて、坂井は混乱の絶頂だ。 「こうすれば、少しはましだろう」 ましかもしれない。ましかもしれないが、普通はしない。こんな事。一見カップルが寄り添って暖を取る微笑ましい風景 だが、実際は三十近い男の二人連れだ。だがそんな坂井の動揺など気づかぬ風で、下村はますます体を寄せてコート の前を合わそうとする。そうなれば余計に体は密着し、背中に回された下村の腕には力が込められた。鼻先をくすぐる 霧に包まれた深い森のような匂い。下村が好んでつける香水だ。慣れたしぐさでそれをつける様子を、今朝も見たばか りだ。その直前までの戯れを思い出し、坂井はますます体が強張った。それを下村は寒いからと勘違いしてますます強 く体を引き寄せてくる。堂々巡りの幸せな悪循環に、坂井はぬけぬけと嬉しく下村の腰に腕を回した。 普段、男同士の引け目もあり、外であからさまに触れる事はあまりない坂井だが、実際そうしたところで下村が嫌がら ないと気づいたのは最近だ。そういった事が好きではないだろうというのは坂井の勝手な思い込みで、下村は触れたと ころで気にする風もない。ただし、それはプライベートな時に限っていて、店の中で会話に二人の事を匂わせたり手を 出せば、容赦なく左手で殴られた。その言い分が「社内恋愛は禁止」なのだから、本当に少し下村はずれている。まあ 実際、呆れるどころか自分たちの関係をあっさりと「恋愛」と振り分けた言葉に嬉しくて、つい閉店から朝方までバイクを 飛ばした坂井だったが。 そういったわけで、引っつかれても触っても、拒否するどころかぎゅうぎゅうと体を締めける腕の苦しさに気づかないほ ど、坂井はうっとりと下村の体温を堪能していた。 「よお、見せつけてくれるじゃないか」 「桜内さん」 ぱっと下村の腕が離れる。それを惜しいと思う間もなく、桜内はにやにやと坂井に揶揄の視線を投げた。 「お邪魔かな?」 「いいえ!別に!」 ありありと嫌そうな顔をする坂井だが、桜内は気にした風もなくポケットから取り出した煙草を指先でくるくると回した。 「珍しいですね、こんなところに」 坂井からコートを取り去り、きちんと前を合わせて下村は桜内を見上げ、太陽が眩しいのか二三度瞬いた。桜内がま あなと返している。その横で坂井は、元に戻っただけなのに、寒さがぐっと増したように感じてぶるりと体を震わせた。そ れを誤魔化すように立ち上がり、うーん、と両手を上げて伸びをすると、桜内が呆れたように顔を顰めた。 「お前らこんな所にいて寒くないのか?感覚がおかしいのか?」 「寒いですよ、ちゃんと。だから暖まって…」 「へえ」 はっとして桜内を見ると、またにやにやと笑っている。それに不貞腐れて舌打ちし、諦めて息を吐いた。 「これから秋山と食事でもと思ってな。お前らもどうだ?」 キーラーゴを顎で示した桜内は、実際他意なく誘いに来ただけだったらしい。言い募ってもどうせ十倍返しの厄介な相 手だが、そんな理由であっては責める事も叶わず、坂井はじゃあ、と桜内の後ろに続こうとした。しかし二三歩歩いたと ころで、ついてくる気配のない事に気がついた。不思議に思って振り返ると、下村はまだ座ったままで、じっとこちらを見 上げていた。 「?下村?どうした」 坂井が呼びかけても反応せず、下村はただ坂井を見つめている。そんな下村は初めてで、坂井はどうしたのだろうか と心配になった。 「おい、下村?大丈夫か?」 「どうした?」 桟橋を抜けたところで桜内も異変に気づいたのか、こちらの様子を窺っている。坂井は慌てて引き返すと、膝を突い て下村の顔を覗き込んだ。 「下村?」 そっと頬に触れると冷えている。ずっとこんな突端にいれば当然だが、なんとなく坂井は不吉な感じを受けて顔を顰め ると、下村は細く吐息を漏らして目を閉じた。 「なあ、どうしたんだよ」 「…なんでもない」 答えてさっと立ち上がり、桟橋を戻り始めた下村を慌てて追いかける。ポケットに手を突っ込んで、大股で進む下村の 背中はどこか不機嫌だ。その真偽を確かめようと肩を並べた坂井だが、下村の表情は常と変わりない。戸惑って呼び かけようにも、すぐ桜内に追いついてしまい、また話のネタの提供になるような事は避けて黙った。 「なんだ、体が固まっちまったのか?」 「別に」 そのまま桜内を追い越し、さっさとキーラーゴに向かう下村の背中に、桜内もきょとんとしている。意見を求めるように 見られたところで、答えが欲しいのは坂井の方だった。 「なんかあったか?」 「いえ、別に。…マジで寒かったのかな」 それくらいしか思い当たらず、首を捻る坂井を見ていた桜内が、突然、ぶはっと吹き出した。 「ああ、なるほどな。ふーん」 「ドク?」 「ま、なんでもないだろう。ほら、寒いから行くぞ」 「は?はあ」 納得いかない坂井を置いて、肩を竦めて小走りに踵を返した桜内をしばし見送り、だが結局は分からず終いの坂井 は寒さに押されて慌てて追いかける。前を行く桜内の肩が揺れても、それを寒さのせいだと思い込んだ坂井は、まった くまだまだ話のネタになる運命だった。 |