隅々まで夜空を埋めていた光の粒は、街中へ入ると派手なイルミネーションや街灯にすうっと解けて見えなくなった。 天を流れる星の川を眺める祭りといっても、大半の人々はその元で行われる祭りの余興や色とりどりの屋台の店先 に目を魅かれ、空を見上げる者はほとんどない。辺りを見回しても強すぎる人工の明かりに、サンジは目の奥が痛んで 何度か深く瞬いた。大通りの真ん中を進み、程なくして出た広場の中央には即席の舞台がしつらえてある。その上で は、軽やかに跳ねる踊り子たちの鳴らす鈴の音がシャンシャンとけたたましく鳴っていた。 それを良しと思わぬのは、どうやらサンジだけではないらしい。同じように広場を見ていたゾロの眉間には、不快の印 が深く刻まれていた。それを横目でチラと確かめ、サンジはあくまで平素の素振りでため息を心中で漏らした。 船を降りると言ったきり、何も言わないゾロである。 元々会話の弾む間柄では決してないが、だからと言って軽口の戸惑われる相手ではなかった。 だが今は、どんな言葉も言い出しかねて、何度か顔色を伺い、仕草に目を光らせながら、そんな自分が嫌になった。 しかし結局はそうなるきっかけをつくったのはサンジだ。だからまさかゾロを責めるわけにも行かず、そうなればますま す掛ける言葉は見つからなかった。 好きだと言った言葉に嘘はない。 勢いを借りてはいたが、ずっと胸の中にあった気持ちだ。 だがこんな状況になれば、それは虚しい強がりのように思える。 考え込んで歩いていたサンジは、ゾロの歩みに従っていたが、ふと辺りが暗い事に気がついた。あわてて辺りを見回 せば、いつの間にか露店はなく、人影もぐんと減っている。後ろを振り返れば中心街を抜けてしまったのは明らかだ。 サンジの少し前を歩いているゾロの足取りに迷いはない。サンジは一瞬、量りかねて息を止めたが直ぐにそれはため 息で開放された。 ゾロが方向音痴であるのは、本人以外には周知の事実だ。それを忘れていたとは言わないが、油断していたのは確 かだ。初めて方向音痴の本領を発揮している様を目前とし、なるほど、こんな風では確かに何処までも迷うだろうとかえ ってサンジは感心した。 おそらくは道など分っていまいが、ゾロの足取りはあまりにも軽やかだ。その歩みに任せた自分が馬鹿だったが、こ んなにも自信たっぷりにされては、歩むに任せていいだろうと勘違いしてしまう。 だがサンジはやはり気後れして、間違いを正すための言葉でさえ、上手く声にはならなかった。 ゾロの背中は、後ろのサンジなど気にする風もなく、ただ真っ直ぐに前を向いて揺るがない。左右を確かめるといった 素振りも一切なく、あらかじめ決まった道筋を辿っているようにも見えた。 ああ、なんで俺はこんなヤツを。 思ってはみても、吐いた毒はそのまま己に降りかかる。 見つけたのも選んだのも、囚われたのも拘るのもサンジ自身が望んだ事。いや、望みは語弊であったかもしれない。 心のありようは自分の意思によるものではない。 好きだという気持ちは、勝手に自分の心が決めてしまうのだから。 完全に中心部を抜け、市街地からもはずれた頃、ようやくゾロの足取りが鈍くなった。今頃キョロキョロと辺りをうかが っている。まるで今初めて状況を理解したといった風情に、サンジはおかしくなって軽く吹き出した。 「…気がついてるなら、さっさと言え」 振り返ったゾロの頬が僅かに膨らんでいる。すねているのだ。そう思ったらもう、サンジは抑えが効かず、情けなく眉 を下げて笑ってしまった。 「だってお前、なんの迷いもなく行くからさ」 どこまで行くのか、見てみたかった。お前が俺を、どこへ連れて行ってくれるのか。サンジのせりふにゾロは少し変な 顔をして、だが諦めたように息を吐くとすっと高台を指差した。 「どうせここまで来ちまったなら、あそこまで行こうぜ。空がよく見えそうだ」 ゾロの指差した先には、疎らになった家々の軒先の隙間に、開けた草原が見えていた。海から中心の山に至る細長 い町並みは、その草原で終わっているようだ。サンジは頷き、また歩き出したゾロの後ろに黙って従った。 「もう迷うなよ」 「…一度も迷ってねえ」 強がりのせりふは、吹けば飛ぶような儚さだった。 「…スゲェな」 「ああ」 感嘆の囁きは、あっけなく吹いた風に飛ばされた。開けた草原が近づくにつれ、一面の夜空が頭上に迫る。 空には星の川などなく、いうなればそれは星の海といってよかった。 空は一面の星に輝き、川などというにはあまりにも壮大過ぎた。 「お前のトコの天の川も、こんなんだったのか?」 「いや、こんなにすごくはなかった」 後ろにのけぞるように空を見上げながら話すと、喉が締め付けられて苦しいのかゾロの声は掠れていた。昔の事を 思い出しているのか、横顔が少しぼんやりとしている。サンジは空を見る振りをしながら、その横顔を一心に見ていた。 「そういやあ、なんでか知らねぇが、七夕には短冊に願い事を書くと叶うとか言ってたなあ」 「…なんで」 「さあ?何でだろ」 ここでもそうなのかは知らないが。笹の枝にぶら下げるんだぜ。ゾロは楽しそうにそう言った。やはり昔を思い出すの か、笑い方が少し幼いような気がして、サンジはなんとなく不安になった。時々ゾロが浮かべるその表情に何故そう思う のかは分からない。だがその中に透明な悲しみの気配を僅かに感じ、それがゾロの柄で無いとサンジが勝手に思うか らだ。直接聞いたわけではないが、ゾロにはゾロなりの過去があり、そこについてまわる暗く冷えたものをサンジは感じ 取っていた。それは誰しも持っている多くの傷の一つであるかもしれない。だがしかし、ゾロのそれはあまりにも深々と サンジの胸を突き刺した。 初めの頃は、それが不思議で仕方なかった。そして知りたいと思った。 ゾロの中の悲しみや、幼い笑顔を覆うひんやりとした僅かな気配を。 「それで、願い事は叶ったのかよ?」 「いや、まあ…。ああ、そうだな。他愛も無い事だけどよ」 ゾロは眼下の町並みに目を凝らし、何度か瞬き、振り返るとそっと笑ってそう言った。 「ふん、ご利益ありって訳だ」 「まあな」 直ぐに逸らされた頬が微かに赤く染まっている。それこそ柄で無いと思ったのだろうか。サンジはそれにつられて目の 下辺りが熱くなった。先ほどまで感じていた気詰まりが嘘の様に消えていた。ゾロの言動に救われいてる。それが計算 ずくなのか無意識なのかは分からないが、そんなところも好きだとサンジは素直に思った。 好きだよ。好きだ。お前が。 横顔を見つめて、サンジは押し付けるような強さで思った。だが言葉にする事は今更ながら臆病風に吹かれて言えな かった。 また何事も無かったかのように振舞われたら、今度こそサンジは普通でいられる自信がなかった。 今でも、あの抱きしめられた夜の事をはっきりと覚えている。 たゆたう波に浮かんでそっと目を閉じているような、どこか不安で、けれども満ち足りた気持ちで眠った夜の事を。 目覚めれば爪痕が着くほど強く握られた手を振りほどきもせず、ゾロはただやわらかくサンジを抱きしめていた。 その時の、驚きと喜びと戸惑いを。その瞬間を、失いたくないという願いを。ずっとサンジは忘れられなかった。 「おい、あれ」 ゾロの声にはっとして顔を上げると、秘密の話を打ち明ける子供のような表情で、ゾロは先を指差した。その顔に少し 見とれ、けれどもすぐに指差す方に視線を向けた。 「うおッ…」 草原の中央に据え付けた櫓の横には、その櫓よりも遥かに大きな笹が支えられて立っている。そして瞬く星の光りに 照らされ、ひらひらと閃く幾つもの白い陰がそこかしこの笹の葉の間から覗いていた。 「こんなもんまで一緒なのか」 小走りに走り寄るゾロは年甲斐もなくはしゃいでいて、それが意外で嬉しく、どこか少し寂しくなる。そこにいるのは、 サンジの知らないゾロだった。そして、誰かのためのゾロだった。 笹の足元で追いつくと、ゾロは背を反らせて見上げている。手の届くところに葉はなく、ひらひらと舞う短冊も暗さもあ いまってよく見ない。だがゾロには細かなところまで見えているらしく、酷く楽しそうに笹の周りをくるくる回った。 「おい、なんて書いてあるんだよ?」 あまりにも楽しげな様子に興味を引かれ、後をついて回りながら問いかける。何度見てもサンジには紙の色も判別で きない。負けん気がむくむくと起き上がったが、そんな事で滅多に見れないゾロの無邪気な様子を壊したくなかった。 「ガキなら一度は思うことだな。…でけぇイチゴが喰いたいとか、足が速くなりたいとか…」 一瞬目を瞠ってからくすくすと笑ったが、ゾロはその先を読まなかった。人の願い事を笑うのが失礼だと思ったのか、 途中ではむ、と口を閉じた。 「お前も書いてみれば?」 無意識に口を尖らせていたサンジに、ゾロは櫓の下を指差した。小さなランプが置かれた台には、細長い紙が幾つも 重ねてある。 「勝手に書いていいのか?」 「祭りだろ。いいんだよ、誰が書いたって」 スタスタと櫓の下にもぐりこみ、ゾロが早く来いと手招いている。サンジはふらふらと近寄って、ゾロの手元を覗き込ん だ。 「あ、てめ、そんな夢のない事を」 「いいだんよ、書きたいこと書きゃ」 ごちゃごちゃと言い合いながら、サンジはそれでも願い事を書く。一足先に書き上げたゾロは、梯子も使わず器用に 櫓を登ると、あっという間に櫓の上に立ち、ぐいと笹を引いて撓らせ天辺に紙をくくりつけた。 「ほら、お前も早くしろよ」 笹を持ったまま催促されて、サンジは慌てて梯子と登った。 「笹折れねぇのか?」 「笹はしなやかだから滅多な事じゃ折れねぇよ」 笹の葉を使った料理はした事があっても、実物そのままを見たのは初めてだったサンジは、珍しげに眺めながらゾロ より更に高い場所にくくりつける。するとゾロが横で恨みがましい視線を寄越して来た。それを鼻で笑って手を放すよう に促すと、ゾロはいきよいよく跳ね上がる笹から一歩引いて手を放した。 「おお、一番空に近いんじゃね?俺の」 「てめぇは…ちゃっかりしてやがる」 「どうも」 「で、なんて書いた」 「そんなの秘密です」 「…ちゃっかりしてやがる」 二人して空を見上げた。あまりにも瞬く星の数に圧倒され、どれが天の川なのかも分からない。それは川というより海 に近いとサンジは思った。遠くの方では街の光りが地上の星のように美しく、空とは違う、命のきらめきを放っていた。 「ゾロ」 振り返ったゾロの手を握った。ぴくりと眉が動く。だが払われず、その目を見つめたままぎゅう、と力を込めた。 あの夜、なぜゾロがサンジを抱きしめたのか、なぜその手を払わなかったのかは分からない。 たとえ自惚れでも、嫌われてはいないと思えた大切な夜だった。 サンジの背中を静かに押した夜だった。 「好きだよ」 恥ずかしくて少し笑ってしまった。上手く誤魔化せたろうか。繋いだ手が、少しだけ震えてしまったことを。 ゾロは合わせた目を逸らしもせず、ただじっとサンジを見据えていた。ざわざわと笹のざわめきが一瞬途切れる。無 風は沈黙をかきたて、突然暗闇に突き落とされたような気持ちにさせた。それでもじっと、ただ縋るような気持ちでゾロ 見た。暗がりの中で尚、湖面の様に澄んだ目を。 「どうしたらいいのか、分からねぇよ」 ぽつりとゾロが呟いた。不意に伏せた目が繊細な陰影を作る。明るいはずの星は、こんな時ばかりは表情を隠した。 「お前は一体、どうしたいんだ…」 心もとない声だった。迷っているのだ。そう感じた瞬間、頭の何かがぷつんと切れた。 「俺はお前が、俺の事を好きになるようにする」 「…は?」 「お前が俺を好きで好きでたまんねぇように、」 「ば、馬鹿かてめぇ!そんなンなるか!」 後退ったゾロは、腕で顔を隠そうとした。そんな動作は、動揺をばらしているようなものだ。きっと明るいところで見れ ば、顔は真っ赤に違いない。それを見られず大層残念に思いながら、握ったその手を引き寄せた。 「だーめ、観念しな。この手は離れねぇよ」 ちゅ、と手の甲に音を立ててくちづける。ゾロはたまらないといった風に体を離そうとするので、サンジはそれがなぜだ か楽しくて、今度は腕を引いて体を抱きとめた。 「おま、放せ!馬鹿!」 「俺に馬鹿と言っていいのは俺だけだ」 くすくすと耳元で笑いながら、合わせた頬が熱かった。それがゾロのものなのかサンジ自身のものなのか分からな い。まるで境目をなくして溶け合うように感じるその暖かさにサンジは酔った。 「あー早く俺にメロメロなゾロが見たいなあ」 「見れるか!アホ!」 罵りながらその割りに、腕を振り解こうとはしないゾロを、サンジは大切に大切に力任せに抱きしめた。星の岸辺の恋 人たちが、嫉妬するほど熱烈に抱きしめた。 年に一度の逢瀬を待つ、消極的な恋人たちに、悔しかったら星の川を渡って見せろと、サンジは空を見上げて笑って 見せた。 |