(「step to far」「鍔迫り合いのメロディ」後くらい)






starlet







 本当は引き止めたかったのだろうか。
 サンジは隣で眠るゾロの背中をじっと見つめる。
 月明かりの中でそれは、ぼんやりと白く浮き上がり、まるで現実味を伴わない。
 そこへそっとサンジは指を伸ばした。
 毛布からはみ出た肩口に触れる。固い感触はサンジを拒むように頑なだ。
 しかしそのうちのやわらかな心を、その気持ちを知っているから、だからサンジはここにいられるのだと思う。
 けれどもあの時、自分達の間にあるのは信頼と友愛だけだった。
 仲間としての。同志としての。
 そしてその中に「引き止める」という選択肢は、初めからありはしなかったのだ。
 だからサンジはただ見送った。自分の気持ちも感情も心のうちも定かでないまま、その背中をただ見送った。
 それを深く、何度も後悔したのは随分経ってからだ。
 なめらかな潔い背中に、傷は一切見られない。離れていた間も、その背中だけは死守していたのだろうか。
 背中に傷を負うことよりも、その理由に拘っていた。
 相手に背中を向けることは、剣士という誇りを地に落とす事だとゾロはただ信じている。
 たとえそれに命を賭したとしても、ゾロは後悔などしないのだ。
 そっと肩を掌で包み込む。皮膚を通して伝わる体温は、二人で寄り添う事の本質を思い出させるかのように暖かく心
地よい。
 サンジはひたりとゾロの背中に体を添わせ、毛布越しに体を包み込んだ。

 暖かい。生きている。

 未だに不安なのかと、ナミには言われる。
 それにサンジは曖昧に笑って誤魔化す事しか出来ない。
 不安なのかと問われれば、少し違うように思うのだが、しかしまったく外れているとも言い難い。自分でも上手く判断が
つかないのだ。
 例えば、ゾロがまた消えてしまうのではないかという不安。
 突然の出奔はありえない話ではない。つい最近も鷹の目が姿を見せている。剣の道を究める事を本分とするゾロなら
ば、一緒に行く事さえやぶさかではないのかもしれない。

 しかしゾロは約束をした。
 サンジと約束を交わしたのだ。

 ぎゅう、と抱きしめ、ゾロのうなじの辺りに顔を埋める。高い体温がふうわりとサンジの鼻先を包んで熱いくらいだ。こ
のくらいではゾロは起きない。こんな時、サンジは安心してゾロに甘える事が出来る。
 不安。そういう意味で、サンジが不安を感じた事はない。ゾロは約束を死んでも守ろうとする男だ。そして今では、サン
ジの傍にいる事を自ら望んでくれている。万が一の杞憂を常に感じているわけでない。
 ではいったい何をそんなにと、サンジは自問自答を繰り返した。
 そうして最後に残ったのが、それだった。
 あの時。ゾロが船首に雄々しく立った瞬間。サンジは咄嗟に上げた手を、もう片方で押さえたのだ。

 無意識だった。

「…どうした」
 半ば自分の考えに埋没していたサンジは、突然の問いかけにあからさまに驚いた。咄嗟に体を起こして後退る。だが
腕を捕まれ、それは殆ど叶わなかった。
「お、起しちまったか?」
「そんな事はねぇが」
 そうだ、その通りだ。この男がこんな中途半端な時間に起きるわけがない。月はまだ煌々と二人を照らしている。
 月明かりを頼りに見つめる中で、ゾロは体を反転させた。
「眠れねぇのか」
 そのまま腕を引かれ、サンジはしばし逆らった。だが力でいえばゾロに分があり、サンジも結局は強固な抵抗をする
気もない。
 促されるままゾロの隣に寝転び、額の触れ合う近さで向き合った。
「いや、お前の事、見てた」
 唐突に前兆がサンジの目の奥を痛ませた。昼間は人目もあり、気も張っているからいつもの自分を保っていられる。
普通に受け答えをし、落ち着いた態度で接する事が出来るのに。それなのに、二人きりになるとダメだった。特に夜。
暗がりで見つめ合うと、言葉が上手く繕えず、心はひどく揺らめいた。途端に気持ちは昔に戻る。
 振り返ったゾロの顔。少しかすれた低い声。ぴんと伸ばされた背筋。美しい目。
 そうすると勝手に感情は昂って、初めはひどく泣いたりもした。
「俺?」
「ん」
 こつん、と額を合わせてじっとその目の中を覗き込む。ゾロも同じようにして見つめ合った。
 光の加減や角度によって、ゾロの目は多彩に色を変える。
 太陽には金、ランプには深い茶。
 今は穏やかな漆黒だ。
「時々、思うんだ。あの時、俺はお前を引き止めたかったのかも知れねぇって」
「……」
 少し顔を離して、うっすらと微笑む。ゾロはただこちらを黙って見ていた。
「だが俺にはお前を引き止める権利もねぇし、資格もねぇ。そんなもん、誰にもないんだ。お前の道はお前だけのもん
で、遮っていい道理はない。…だから俺は体のいい厄介払いみたいに、その事を忘れようとしてるのかも知れないっ
て、な」
 相手の本意を裏切る感情を直視できず、忘却のオブラートに包んで捨てた。だがそれは決して消えず、ずっとサンジ
の中にしまいこまれていただけだった。
 多分それがナミの言う、不安の正体なのではないかと思う。

 ゾロを無意識に裏切ろうとした自分。
 ゾロの道を遮ろうとしたあの時の自分の手。

 言い訳やプライドを取っ払ったサンジは、ゾロという一個の人格を無視した行動を取ろうとしたのではないか?

 ずっと感じていたのは、ゾロに対する不安なんかじゃない。
 ゾロが望むその道を、断ち切ろうとするかも知れない、サンジ自身に対してだ。
「昔の事だな」
「ああ、昔の事だ。でも、一生消えねぇ」
 あの瞬間の醜い自分は、一生自分の中にいる。
 いや、それこそが本質なのだ。
 俯いてゾロの視線から逃げようと身じろぐ。ひどい自己嫌悪で気分が悪かった。
 最後の最後でいつも自分は失敗をする。見誤る。冷静な判断ができなくなる。己の感情だけが、その瞬間を支配す
る。
 ゾロは大きく溜息を漏らした。
「違う」
「…何が」
 否定に顔を上げたサンジの目に映ったのは、どこか遠くを見るように空を睨むゾロの横顔だった。
「違う」
「だから、なに…」
 いきなり正面から見据えられ、サンジは思わず息を飲んだ。
 いつでもゾロの目は、相手の言葉を一瞬で奪う。
 真っ直ぐサンジの目を見たまま、ゾロは指の甲でサンジの頬をなぞり、顔にかかる髪を払った。露になったサンジの
両目は、水を含んで月の光に炯々とした。
「あの時上げたお前の手は、俺を引き止めようとしたんじゃねぇよ」
「お前、知って」
「一緒に連れて行けって、言ったんだ」
「…え?」
「お前の手は、一緒に行こうと言ったんだ」
 驚いて、サンジは眼を瞠った。
 見上げた先のゾロの目は、シンと静まり返った湖の様だ。漆黒の水面は、やわらかくサンジを見つめている。
「…一緒に?」
「ああ、そうだ」
 そんな風に考えた事はなかった。ただ自分でも定かでないあの瞬間の行動を、サンジはただ恐れただけだ。
 ぎゅっと手を握られる。あの時、ゾロに向かって伸ばされるはずだったその手。今は確かにゾロを掴んでいる。
 暖かい、ゾロの手を。
 ゾロはあの時、些細なサンジの行動を目に留めていたのだ。
 振り返った瞬間、ゾロはサンジを見ていたのだ。
「一生消えねぇのは、俺も同じ事だ。俺は俺の勝手で、あの時この手を無視したんだ。お前の為じゃねぇ。俺が嫌だっ
たからだ。俺は」
 お前をあの、爆音と断末魔と、貫く雷鳴の鳴り響く死地へ、連れてなど行きたくなかった。
 握ったサンジの手の甲へ、ゾロはひどく慎重にくちづけを一つ落とす。そのまま目を閉じ、頬にすり寄せた。
「そうだったと気づいたのは、随分経ってからだがな」
 あの瞬間を思い出し、何度も繰り返したとゾロは言った。
 その度に、やけにリアルに思い出すサンジのその手の意味を、何度も考えたと。
 そう言ったゾロの顔が、あまりにも寂しそうで、サンジはたまらない気持ちでゾロの頭を抱きしめた。
「お前、そんな風に、ずっとそんな風に、俺の事」
 思っていてくれたんだな。
 自己嫌悪に目を逸らしたり、受け止めかねて卑屈になっている間、いつだってゾロは真っ直ぐに自分を受け止めて、
明らかになった答えを否定したりはしなかった。
 だから今、こうしていられる。
 ほんの一時でも、ゾロをこの手に閉じ込めておく事が出来る。
「お前は考えすぎていけねぇよ」
「うん」
「少しは気楽にしねぇと」
「そうだな」
 すり寄せたゾロの髪がちくちくと頬をくすぐる。サンジは笑ってその髪にくちづけた。
「今度はさ、俺がお前を連れて行く」
 腕を緩めて、ゾロの頬を掬い上げる。
 真摯な視線が逸らされる事はない。
 自分の心情に誰よりも正直でありたいと願うから、ゾロの目はいつまでもきれいに澄んでいる。
 まるでその目に誓うように、サンジはゾロの目に映る自分を見た。
「俺がお前を、あの海へ連れて行く」
「ああ」
 楽しみにしている、と笑ったゾロの目に、サンジは穏やかに微笑んだ。

 一緒に行こう。

 別れるのではなく、引き止めるのでもなく。

 一緒に。

 どこまでも、一緒に。






初出 2004/06/06
再録 2011/11/17



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