やわらかな潮風が髪を揺らす昼下がり、おやつ前のひと時は格別幸せな時間だ。立ち入り禁止のラウンジからは微 かに甘く芳しい香りが漂い、じれったくも期待に満ちて胸が躍る。ささやかな我慢はそれを際立てるスパイスだ。今も船 のところどころで、それぞれが隙なく身構え待ち構えている。それを前甲板に広げたパラソル下の素敵空間で一足先に 供された紅茶を一口、ナミは優雅に眺めている。自ら出向かなくとも、向こうからやってくるのを知っているからだ。その 横では同じくロビンがゆっくりとしたペースで本のページを繰っていた。 「そろそろかしら」 ひと時瞑った目の中で見た光景を、そんな言葉でロビンはナミに伝え、ナミはそう、とラウンジの入り口を注視した。そ れと同時に扉が開く。いつも思うが今にも蝶番が外れそうな勢いだ。 「お茶の時間だ!」 「くれ!」 扉のすぐ前の柵にぶら下がっていたルフィが、ぴよんと飛び上がりサンジを押し退ける勢いでラウンジへ飛び込んで いく。その後を我先にと他のクルーが続いた。サンジは一度ラウンジへ引っ込むと大きな音を何度かさせ、それからト レイを片手に再び姿を見せた。そのままゆっくりとナミとロビンの元へ来る時間を、ナミは楽しみながら待つのが日課 だ。 「ナミさん、ロビンちゃん。お茶の時間です」 そうして菓子の解説をしながら、彩の美しい皿を並べていく。それを見る度、ナミはここが船の上であることをうっかり 失念した。 「ありがとう、サンジ君。美味しそうね」 最後にさっとソースをかけて、サンジはにっこりと笑った。 「ありがとうございます。さあ、召し上がれ」 そう言ってサンジは早々に二人の前から辞していく。ラウンジにも甲板にも顔を出さなかったクルーのために、男部屋 へおやつを持って行くのだ。甲斐甲斐しいその後姿を見送りながら、本当にグランドラインは不可思議だとナミはアイス クリームを味わいながら改めて感心した。 子供って、男でも産めるものなのね…。 もちろんそれは、間違った認識であったが。 足音を消して男部屋に飛び降りると、案の定ゾロはソファに横になっていた。最近盛んに腰が痛いと言い出したゾロ は、ソファで寝ることが多い。ハンモックは安定が悪くチョッパーに禁止され、床は冷えるので余計に悪いとサンジが禁 止したからだ。それに初めは抵抗を示したゾロだったが、お前一人の体じゃねぇからと言われれば黙って従う他ない。 それはもちろん、ゾロ本人も思うところあっての行動だったわけだが。 「ゾロ、なんか飲むか?」 朝食後からずっと寝たきりで水分もあまり取っていない。以前であればそんなこと歯牙にもかけないサンジだったが、 今は状況が状況。いつでもゾロの体調を最適にしておきたい。 だがゾロは返事どころかぴくりともせず、くうくうと健やかに寝息をたてて眠っている。きっとサンジには思いも寄らない 疲労がたまっているのだろう。分け合えない寂しさも混じって申し訳なくゾロの頭をそっと撫でた。 どういったわけかは知らぬが、ゾロの体に異変が起きてからしばらく経つ。いつもと変わらぬゾロだが、それに反して 日に日に体は異変を訴え、前にも増してこうして寝ていることが多いゾロだが、本人はとんと気にする風もなく、天気の よい日などは相変わらずダンベルを振り回してチョッパーに叱られる毎日だ。もちろんサンジもハラハラとしているが、 止めてよいものかどうか判断に迷ってしまい、少し離れた位置からじっと見守るに留めている。いたってマイペースなゾ ロは、そんなサンジにさえ頓着しないのだった。 ずっとずっと、サンジはゾロが好きだった。 好きで好きで、でもそれは絶対に届かない気持ちだった。 剣のみで生きるゾロにそんな感情は不要で、また無縁だった。その上自分は男で、あまつさえゾロに煙たがられてい た。 だからサンジは一計を案じ、ゾロの体を手に入れた。頭がおかしくなるほど嬉しかった。ゾロに触れ、くちづけ、許す 時間のすべてを費やした。そして終いには怖くなった。ゾロに触れる度、ゾロを知る度、怖くなった。ゾロの誠実さと生真 面目さを知り、真っ直ぐな心根を知ってようやくサンジは気がついたのだ。 遊び半分の言葉に乗ったゾロに、本心を気づかれたらどうなる? ぞっとした。見下ろしたゾロの顔が急に遠くなったような気がした。 ゾロはきっと、この関係を断ち切るだろう。答えられない気持ちに中途半端な同情を与えるなど、絶対にしない男だ。 サンジとのことはそれきりに、またただの仲間に戻って。 堪えられなかった。一度知ってしまった悦楽と快楽、どうしようもない充足と反面の切なさを今更手放すことなど、考え も及ばず、また及ぶことを拒んだ。 だがゾロが、自分と同じ気持ちになることはありえない。絶対に。 それならば、離れられなくなれば良いのに。そうでないなら、何かを俺に分けてくれ。 例えば、子供が出来たらどうだろう。ゾロなら情に絆されて、俺から離れられなくなるかも知れない。 例えば、ゾロが自分を置いて行ってしまっても、ゾロと自分との繋がりが、永遠に手元に残る。 実際、随分と思いつめていたのだ。ありえない現実を、さも可能な未来のように考えていた。 なんだっていい、あの男が、あの男の何かが欲しい。 ゾロの異変が伝えられたのは、そんな折の話だった。 紆余曲折、結局両想いであることが判明し、まさに天にも昇る気持ちでいたサンジだったが、ゾロの方はといえばそ んな夢見心地に浸っている暇はなく、もっと現実的な問題に直面しているのをサンジは気づかなかった。それをようやく 知ったのはつい最近、ゾロが隠しきれないほど体調が悪化してからだった。 当然だった。元々男が子を産むなど人間ではありえない。可能性としての仮説をいくつかチョッパーから聞いたが、難 しすぎてサンジには理解できなかった。とにかく、ゾロは子供を産むために体を一時的に作り変えている。そのせいで 普段は感じないものを感じ、ありえないものに鋭敏になっていた。 最たるものとして、船酔いと味覚の変化による食欲不振。だがゾロはぎりぎりまでその症状を隠していた。聞けば他 のクルーは知っていたという。なぜ俺が最後なんだ、お前が辛い時、ずっと傍にいたいんだと言えば、ゾロは困ったよう に笑って、だからお前には教えなかったと頬を拭われた。知らないうちに泣いていたのだ。お前が薄情な奴じゃないと 知っているから、だから知られたくなかったとゾロは言った。お前が笑ってれば、少しは俺もましになる。そうして笑った ゾロに、サンジはまた溢れた涙を止められなかった。 それからゾロは、サンジに体調の不良を隠さなくなった。一度ばれてしまっては今更と思ったのか、何らかの心境の 変化があったのかはわからない。だが何事も隠されるのが怖いサンジは、少しだけ開いた扉の中に入れてもらえたよ うな気がして嬉しかった。 そっと起こさないように髪を撫でる。汗をかいたのか少し湿った髪はしっとりと手によく馴染んだ。こんな風に触れるこ と、近づくことさえ容易でなかった以前を思い出し、なんという劇的な変化だとサンジはいまだに半信半疑だ。だからこ そ、何かとゾロに触れていたい、傍にいたいと思うのだが、ゾロには今更と映るらしく、しつこくすると引き剥がされる。 それでも随分と寛容だと思うのは欲目だろうか。 「ありがとう」 俺を選んでくれて。 そっと、触れるか触れないかのくちづけを頬に、額に、まぶたに落とす。穏やかなリズムは変わらずなお、サンジの眠 りをもやわらかく誘った。そっとソファに寄りかかり、その顔がよく見えるように体を預ける。そっと目を閉じると、ゾロの 鼓動までも聞こえそうな気がした。そして、もう一つの命の呼吸さえも。 愛しい人といるこの場所が、何よりも大切なこの場所でよかったとサンジは落ちたまぶたの裏に思った。 |