「なあ、俺たち別れよう」 そっぽを向いて前髪で顔を隠して。どうにか上手くいったとサンジは膝に置いた手をぎゅっと握った。頬杖をついた指 先が顎に食い込む。そうしないと歯の根が合わなくなりそうだった。 「だってさ俺ら、あんまり時間とか合わないし、お前電話嫌いじゃん?メールの打ち方はいつまで経っても覚えねぇし。 俺さあ、ダメなんだよねそういうの。耐えらねぇの」 自分でもびっくりするほど、普通の声でスラスラ言えた。立て板に水だ。そんな時は決まって余計な事まで流れてしま う。 「お前にさ、面倒くさいとか言われても全然平気とか思ってたけど、でもさ、なんか最近そういうのすげぇ…疲れちまっ た」 別れ話で相手を責めるなんて初めてだった。みっともない事この上ない。俺の美学に反すると頭は言うのに、口はど んどん勝手に動く。 「どこ行ってもお前つまらなそうだし、会いたいって言っても眠いからイヤだって言うし。クリスマスとか誕生日とか、平気 で違うやつと過ごしたりするし」 いけないいけない。こんな事はいけない事だ。どうにかそこで、唇をぎゅっと噛んでそれ以上の言葉を飲み込んだ。そ れでも胸の中に幾つも残っている言葉の数に、今までどれだけ一方的であったかよく分かる。自分で並べた言葉に打 ちのめされている自分がおかしかった。 サンジは銜え煙草を殊更ゆっくりと灰皿で消した。そうしないと指先は神経質に震えてしまいそうだった。 「まあ、そんなわけで。俺たち別れようぜ」 さすがに笑顔は無理だったが、どうにか声は震えなかった。それに安堵し、二、三度強く瞬いてから、サンジは強張る 口元を手の平で覆って正面を向いた。 さあ、お前の答えをくれよ。 取り乱さないよう自分を戒めるため、わざわざ選んだ喫茶店だったが、昼前のせいか客は少なく、窓際のテーブル席 に座るサンジとゾロ以外に、客は奥のテーブルにスーツ姿の若い男がいるだけだった。カウンターの中の店員も、のん びりとグラスを磨いている。それでもやっぱりこの場所を選んでよかったとサンジは思った。お陰でかろうじて平静と理 性を保てた。 ゾロはただ、サンジを見ていた。まるで鳩が豆鉄砲を食らったような顔で。 その表情の意味が分からず、サンジはしばし逡巡した。聞こえなかった訳がない。聞こえたからこそ、そんな顔をして いるのだろう。どちらにしろ、もう本当に最後になるだろうゾロの言葉を、サンジは大人しく待った。 ゾロはゆっくりと瞬き、固まっていた手をようやく動かすと、一口、水を飲み込んだ。そして息を飲んでそれを見守るサ ンジを見、一度外に視線を投げてから最後に灰皿をじっと見つめて、おもむろに顔を上げた。 「俺たちは――つきあってたのか?」 ああ、ダメだ。本当にダメだ。世界が消えてなくなってしまえばいいのに。 この目の前の最悪な男ごと。 馬鹿みたいな自分ごと。 だがそんな事が起こるわけもなく、サンジは無言で財布から札を取り出しテーブルに置いて立ち上がった。 「それなら話は早い。じゃあな」 それ以上、何が言えるというのだ。 この、ゾロにとって何者でもなかった、惨めな自分に。 ぐちゃぐちゃに混ざった気持ちや言葉は、かえってサンジを冷静にさせた。けれどもそれは理性からではなく、大き過 ぎる衝撃に、本能的に心が閉じた結果だった。ただ胸の中が、ひたひたと凍えていくのがやけにはっきりと感じられた。 何も言わないゾロを置いて、サンジは店の外へ出た。頭の中はからっぽで、これからどうしたらいいのかも思いつか ない。年明けを迎えたばかりの大通りはまだ人影も少なく、車の数も極端に少ない。奇妙なほどの静けさは普段の生 活から切り離されたように非現実的で、作られた芝居の中のエキストラにでもなったような気分だった。だが今の自分 は確実に本来の自分でしかなく、今告げた言葉、受けた言葉の一つ一つまでもがどうしようもなく現実だった。 このままどっか、遠くへ行っちまいてえな。 しかしそう思う反面、誰かに会って話をしたいという人恋しく寂しい気持ちも同時に起こり、揺さぶられるように一歩を 踏み出した。歩き出せば足は勝手に速度を速め、気がつけば走っていた。目的はない。行き場所もない。ただ走るとい う行為のために。すれ違う人もなく、見咎める者もいない。無人の歩道をひた走った。 テレビのノイズが耳について目が覚めた。 ベッドの上で体を起こし、暗闇の中でリモコンを探った。ようやく見つけて電源を切ろうとテレビを見ると、画面は既に 真っ暗になっていた。 「?」 音の正体は、窓ガラスの外だった。雨だ。 「あー…」 走って走って、そのままぐったりと眠り込んでしまった喉はからからに渇いて、擦れた声を発すると少し痛んだ。だるい 体を起こして、転がっていたペットボトルの水を飲む。そのまま、またベッドに倒れた。 あっけなかった。すごく。 たとえばゾロが泣いて縋るとか、そんな風に考えていたわけではない。けれどももう少し、別れの儀式に必要な言葉 の一つや二つはあると思っていた自分が馬鹿だった。 そうだ。そもそも付き合っていないのに、別れ話なんてあるはずもない。 「は、はは。あはははは」 視界が滲むのが怖くて、顔を両手で覆った。夜の闇にたたみ掛けるように暗闇をかぶせる。一片の光もない暗闇な のに、まぶたの裏にはちらちらと光りの筋が舞い散り、どうしようもない気分にさせた。それはまるで、ないものをあると 思い込んでいた自分に似ていた。 いつもいつも、自分だけが喜んで舞い上がって、勝手に思い込んでいただけ。 「はははは、はは、は…」 明日には忘れよう。忘れて、いつも通り仕事に行って、料理をして、女の子を口説いて楽しく過ごそう。 でも、今はダメだ。今日はダメだ。何も見たくない。聞きたくない。考えたくない。 「馬鹿みてぇ」 ざあざあと音を増す雨の勢いに負けてしまいそうな声でサンジは笑い続けた。 「?」 そうしているのにも飽きた頃、僅かな違和感を感じて笑いを止めた。再び雨音だけが部屋に満ちる。闇の中に目を凝 らしても、厚く塗りこめられた黒一色の中には何も見えない。灯りをつけようと腕を伸ばした拍子に、また違和感が頭の 隅を掠めた。 「…誰かいるのか」 実際、返事が返れば怖い状況なのだが、神経の端に引っかかるのは明らかに他人の気配だった。あいにく、ドアの 鍵をかけた記憶がまったくない。だがわざわざ家人の目覚めを待つ盗人など聞いた事がなく、余計に恐ろしい状況な のではないかと、自ら招いた面倒事に舌打ちした。 「…バカコック」 「…?!」 予想に反し、誰何に答えた声は聞き覚えのあるものだった。慌てて電気の紐を引こうとしてベッドの上から見事に落 ちた。顔から床に突っ込んで、思わず鼻血が出ていないか確かめる。そうこうしているうちに、ぱっと灯りがつき、蛍光 灯の下には紐を引いたまま、こちらを見下ろすゾロがいた。 「…お前、どうして」 呆然としたサンジの手元に、カシャンと投げつけられたのはサンジの部屋の鍵だった。大分前、たまにはお前の方か ら会いにこいよと渡した、結局一度も使われなかった哀れな合鍵。触れた冷たさに指先がびくりと竦んだ。 「それ、返しに。それから、」 次の瞬間、サンジは窓枠に背を打ち付けていた。 「…って」 今度も幸い鼻血は出なかったが、唇の端から飛び散った血がシャツの裾を赤く染めた。左頬が突然ぶわっと熱を発 する。サンジは前後のつながりが理解できず、半ば呆然と肩で息をするゾロを見上げた。 「てめぇ…てめぇばっかり言いたいこと言ってとんずらしやがって、俺が、俺が今までどんだけ…」 そこで大きく息を吸い、言葉を切ってからゾロは目を閉じた。顔を覆った大きな手が震えている。僅かに見える口元は 歪んでいた。サンジは何か胸がどきどきして息苦しくなり、待ち望むような気持ちで胸の辺りをぎゅっと握り締めた。だ がゾロはしばらく考えるようにつめていた息を突然吐き出し、手を降ろして窓の外を見た。 「いや、どうでもいい事だ。…じゃあな」 そのまま踵を返すと、ゾロはさっさと玄関へ向かった。と、いっても狭いワンルームだ。そう何歩もない。踵を潰して靴 を履くのが大嫌いなくせに、ゾロは気にもせずそのままドアノブに手をかけた。 「ちょ、ちょっと待て…ッ」 半ば腰の抜けていたサンジだったが、慌てて立ち上がり飛び込むようにゾロの背中にしがみつく。幸いノブはまだ回し ていなかったようで、扉は開かずそのまま勢いでゾロの体を扉に押し付けた。 「ば、てめぇ、なにす」 「好きだ!」 額をしたたかぶつけて振り返ったゾロの耳元に、サンジは外まで聞こえる大声で怒鳴った。 「だから俺と、付き合ってよ…」 あっけに取られたゾロの横顔に、サンジは情けない顔で笑った。 ごめん、と言ったきり黙ったサンジを目の前に、ゾロはどうしたものかとため息をついた。そのため息にサンジがびくり と反応するので、余計ため息が漏れそうになったが、なんとかそれは飲み込んだ。 なぜか二人正座したまま、まんじりともしない時間が経った。 サンジの手は、先程からゾロのシャツの裾を掴んで放そうとせず、お陰で変な形に伸びてしまった。だがサンジの様 子を見ていると、それを放せとも言い難く、どうしたものかとまた、ゾロは漏れそうになるため息を飲み込んだ。 「…初めてお前と寝た時」 ようやく開いたサンジの口から出た言葉に、今度はゾロがびくりとした。何を言い出すんだと顔を顰めたが、サンジは 元々こちらを見ていないので何の効果もなかった。 「勝手にもう、お前の恋人になったつもりだった。お前遊びでそういう事やりそうに見えなかったし。だからてっきり、お前 もそう思ってるんだろうって…」 じっと床と対面したままのサンジは、歯切れの悪い声で、だが案外はっきりとそう言った。 恋人? 初めて聞く単語に、ゾロは驚いた。 誰と誰が? 「だからお前が、他のヤツと仲良くしてたり、一緒にいると腹が立った。俺なんかどうでもいいっていう態度のお前に、す げぇ、イライラしてた」 ごしごしと顔を擦っているサンジは、多分泣いているのだろう。玄関先は薄暗い上に、俯いた顔はほとんど前髪で隠 れてしまっている。見えるのはつむじと耳だけで、両肩は力なくうなだれて、いつもよりずっと小さく見えた。 「お前にしてみりゃ、俺ってすごく気持ち悪い男だったよな。付き合ってもいねぇのに、恋人気取りでぎゃんぎゃん騒ぎ立 てて…」 どんどん小さくなっていくサンジの肩に、ゾロはぎゅっと胸が冷たくなる。違う、と言いたいのに言葉が上手く出てこな い。伸ばそうとするのに手は固まったように動かない。 「でも、言えなかったんだよな、きっと。うん。それはなんとなく分かる。お前、鬼みてぇなツラしてそういうところ、ほんと 優しいから…」 違う。違う。嬉しかったのだ。そんな風に、サンジが自分に干渉してくる事が。他の友達よりずっと傍にいられる事が。 面倒だと思いつつ、何かある度にメールや電話が入ったり、休みの度に訪ねてくるのを結局楽しんでいた。でも言えな かった。待っている事を、喜んでいる事を知られて気味悪がられたら。嫌がられたら。もし誰かに少しでも『おかしい』と 思われたら。 サンジは離れる。自分から。きっと距離をとって、普通の友達になる。 いや、もっと遠い存在になる。 そう思ったから、だから。 「違う」 声はどうにか震えなかった。でも酷く小さく、切迫してかすれていた。それでもサンジは聞き逃さず、はっとしたように 顔を上げた。その顔はやはり泣いていて、赤くなった目にまた胸がぎゅっとなった。 「ゾロ…?」 「利用してたのは、俺の方だ」 サンジの目が、まるで無垢な様子でゾロを見る。なんの計算もない、無邪気な子供のような、けれども縋るような目で ゾロを見る。 「お前の傍に、どんな手を使ってでもいたかった」 「ゾ…」 「お前が好きだったから」 次の瞬間、突然引き寄せられ、力いっぱい抱きしめられた。一転した世界に仰天し、訳も分からず手を伸ばすと、サ ンジの硬い背中にぶつかった。 「嘘、じゃないよな…?」 耳元に直接、吐息が触れた。思わず背中がブルリと震える。それをますます強く抱きしめられ、余計に背中は酷く震 えた。 「嘘は言わない」 押し付けられたサンジの胸元にくぐもって、でもはっきりとゾロは答えた。今までだって一度も嘘は言った事がない。た だ、黙っていただけ。だがそれを卑怯だと頭の隅では分かっていた。でもまさか、サンジがそんな風に考えているとは 思いもよらなかった。だから驚いて、サンジの肩越しに見た自分の手は震えていた。 「お前の方こそ…信じられねぇ」 「なんでッ」 がばりと顔を上げ、正面から見つめたサンジの目はどこまでも真剣だった。一片の曇りもない、薄暗い灯りの中でも 分かるその率直さに、一瞬で疑いなど消えてしまったが、それでも長く過ごした孤独な気持ちは、簡単に信じる事を躊 躇ってしまった。 「お前の口から、女の話が出ない日があったか?」 「だってそれは、」 先を選ぶように一度言葉は途切れたが、サンジは視線を逸らさなかった。 「お前が少しは嫉妬、してくれるかと思って。…まあ、無理だったけど」 女の話を聞いたところで、ゾロは嫉妬など感じない。元々自分と同じ地平の出来事だと思っていないからだ。ただ遠 い世界の話を聞いてるような気がするだけ。それにゾロとて女の美醜にまったく興味がないわけでもない。普通の男と して、女に対する何らかの感想は持っていてあたり前だった。 「ただの女好きだろ」 「それは…そうだけど。でも、お前は違う」 何が、と問い返そうとして口を塞がれた。そのままシンクの下の棚に体を押し付けられる。二人して玄関脇の台所で、 一体何をしているのかと呆れもするが、抵抗する気はさらさらなかった。そうして熱心で懸命なくちづけはしばらく続き、 いい加減中途半端な姿勢が苦しくなり、ドンと背中を叩いて抗議をすれば、ようやく離れたサンジの唇はしっとりと赤く 濡れていた。その様に思わず目を細めれば、サンジは恥ずかしそうに少し俯いた。 「なあ、返事聞かせてよ…」 さっきの、と耳元で囁かれ、今度は唇以外のやわらかな場所を狙ってくるサンジに、ゾロは意地の悪い笑みを浮かべ た。 「そうだな、別れるにはまず付き合ってからじゃねぇと」 「ばか、逃がすわけねぇだろ」 焦ったように否定され、実際サンジは慌ててゾロを睨むから、さて、少しだけ信じてやろうと、ゾロはようやく微笑んで、 今度はこちらからサンジにくちづけた。 |