透明な水面の下の

























 前日のどんよりとした曇り空を一掃し、その日は朝から晴天だった。空を見ても海を見ても何もかもが青く澄んで清々
しく、潮の混じった朝の空気を胸いっぱいに吸い込み、坂井は背を伸ばしてうーん、と声を上げた。夜釣りの途中で仮
眠を取ったところである。水面に朝日が反射しきらきらと眩いばかりだ。思ったより長く眠ってしまったらしい。すっかり
夜が明けた甲板はきちんと片付けられ、既に帰途の用意が出来ていた。
「よお、起きたか」
「すみません、寝過ごしちまって。もう戻るんですか?」
「ああ、今日は朝から約束があるからな」
 操舵室から出てきた川中は、寝不足を感じさせないハツラツとした表情で、まったく坂井などは敵わない。寝覚めの
ぼんやりとした頭には活き活きとした声は少々響いて頭痛を誘った。
「あー…じゃあ、代わりますね、上」
「いや、それよりなんか食う物作ってくれ。腹が減った」
「はい」
 万が一に備えて積んだ食料の中から、何にしようか考えながら船室に入ると、下村がぼんやりと壁を眺めていた。
「起きたのか」
「…ああ」
 寝起きで擦れた声は唸りに近く、あまり寝起きのよくない下村は触らぬ神に祟りなし。そうかと返事も短く、食料の詰
め込んである箱をぱかりと開いた。
「メシか?」
「ああ、社長が腹減ったって」
「帰ってから食えばいいのに」
「待ったなしだからな、あの人は」
 日持ちのするものとしないもの、賞味期限を確かめながら使うものを取り出していると、背後で下村がようやく動き出
した。付き合いで何度も夜釣りに駆りだされているせいで、すっかり船の作業を覚えてしまった下村だったが、最近では
付き合うことも少なくなった。釣りが嫌いかと聞けば、ただ単に早起きが嫌なのだという。元々船釣りは義手の訓練のた
めだった経緯もあり、この先も段々と減っていくのは目に見えていた。
「おい、コーヒー入れてくれよ…って、起きろよ!」
 振り返れば下村はまたずるずるとソファに沈み込んで、半ば寝息を立てていた。慌ててだらりと伸びた足を蹴ると、ま
た獣のようにううう、と唸った。
「お前は何しに来てるんだよ…」
 生活もすっかり一人立ちして久しい下村が、この船に乗る理由が坂井にはよく分からない。大半寝ているし、起きてい
てもあまり釣りをしないで雑用ばかりしているからだ。坂井からすれば便利なことこの上なかったが、何が楽しいのかは
さっぱり分からない。聞いても結局うやむやにされるだけで、せいぜい返って来ても「海が珍しいから」という上滑りな答
えだけだった。下村はそういった言葉の上での駆け引きが異常に上手い。なるほど、これが企業戦士というやつかと感
心した坂井である。だが後になって宇野に、あれはただの詭弁だと言われ、勝手に騙されたと腹を立てた坂井だった。
「コーヒーな、コーヒー…」
 何度か蹴っているとむくりと起き上がった下村に足を取られてひっくり返った。拍子に頭をクーラーボックスにぶつけて
散々である。だがそんな様子には見向きもしない下村は、ぽいと坂井の足を放り出して準備を始めてしまった。

 本当、素っ気ねーの。

 尻餅をついた絨毯に手を突っ張って、低い天井を見上げてため息をつく。カップを用意する音にかき消されるほど小
さなため息だったが、深々としたそれは坂井の心情を如実に表してた。しかし目の前の背中は、そんな坂井などまった
くお構いなしの様子である。
 元々、そんな都合のいい返答を期待していたわけではなかった。 
 何度もしつこく問いかけるのは、そこに何か自分に都合のよい答えがあるのではないかと期待するからだ。だがそれ
よりも結局は、それをネタにして下村に絡んでいたいのだという自覚はある。根無し草の風来坊、いつもどこにいるかも
分からない下村を、少しでも目の前に引き止めておきたかった。嫌がらないのを幸いに、何度も同じ質問を投げつけ
て。
 投げ出した足で胡坐をかき、本格的に腰をすえて下村の後ろ姿を眺めながら、坂井は聞こえないように小さくため息
をもう一度漏らした。うっかりそんなことを言ってしまったら、どうなるか分かったものではない。人畜無害な一般人を装
って、時々瞳孔が開きっぱなしの様な時がある。そもそも出会った頃からしてそんな風であったのだから。
「おい、メシの仕度は」
 自分ばかりが指図されて一向に動かない坂井に、下村は苛立つように語尾を跳ね上げた。だが結局そんなことさえ
坂井を喜ばせているなど、まったく知らぬが仏の状況である。
「分かってる」
 隣に並んで立ちながら、下村の手元を覗き込めば既に用意は出来ている。レナの味とはいかないまでも、船上では
そこそこ飲めるものを淹れるので、いつの間にかコーヒーは下村の係になっていた。流石に料理となると無理があるの
で、そちらはもっぱら坂井の役目だったが。
「お前も食うか?」
「いや、帰ってからでいい」
 カップを持って踵を返す下村は、嫌そうに顔を顰めた。そういえば起き掛けに食事をする習慣がないと言っていたか。
「上、行って来る」
 言い置いて船室を這い出して行ってしまった後に残った二つのカップを、坂井は意味もなく指先で押しやって、二つを
ぴたりとくっつけた。
「…素っ気ねぇの」
 いつまでも縮まない距離は、いっそ笑いの種にしかなりそうになかった。











 陸に着くと釣果を持って早々に消えた川中だった。生魚をそのまま貰って喜ぶ女も少なかろう。誰だと詮索する気も
起きずに後姿を見送れば、下村はさっさとキーラーゴへ歩き出していた。慌てて後を追う坂井に呼ばれても、ちょっと振
り返って肩を竦めて見せただけだった。
「まだモーニングに間に合うだろ?」
 肩を並べて歩き出せば、下村は建物を指差した。まるで当然のようにそう言うから、坂井は少々面食らった。
「お、俺も?」
「行かないのか?」
 不思議そうに返した下村に慌ててぶんぶん首を振る。それに満足そうに笑うので坂井は思い切り目を逸らした。
 近いのか遠いのか、下村との距離を測りかねる坂井である。安易に踏み込めばぷいと逃げられてしまうのに、一歩
引けば追ってくる。気まぐれな猫を相手にしているような、心もとないふわふわとした駆け引きは大概分が悪い。下村が
手練とは行かないまでも、坂井より上手であることは明らかだった。
「今日は一日持ちそうだな」
「ああ」
 雨が降ると言いつつ、なかなか降らない空模様に、天気予報もいい加減さじを投げたい気分だろう。一週間前の週間
予報ではすっかり傘を被っていた週末も、晴れて朝日が目に突き刺さる。今日も一日崩れそうにない空は、また天気予
報士にため息をつかせるのだろう。そんなことを話しながら、レストランの入り口に着く。シーズンオフの朝のホテルは
シンとしていて、フロントマンも所在なさげに立ち尽くしている。しかしそう思うのは見慣れている坂井だからであって、普
通に見ればぴんと背筋を伸ばした姿は、朝の空気に相応しい、清々しい姿に見えるのだろう。眠い目を擦って客の前
に出るようなスタッフは一人としておらず、そういう意味でキーラーゴは一流のホテルだった。
「窓際でいいか?」
 開きたての店内に客の姿はなく、控えめな挨拶に迎えられて窓際に腰掛けると、正面から登った太陽がまともに顔を
照りつけた。ブラインドを下ろそうとしたスタッフの手を止めさせ、下村は窓の外をじっと見た。
「寝覚めが悪いのに、朝が好きなんて変わってるな、お前は」
「そうか?」
 ちらりと視線だけで笑って、下村はまた外に目を戻す。以前何度も見た光景だった。夜釣りの帰りに、こうして窓際に
座って朝焼けを見る横顔を眺めた。だが二人だけというのは案外始めてなのだと気づいて、急に落ち着かない気分に
なり、意味もなく足を組み替えた。いつもは川中なり秋山なり土崎なりが一緒にいた。時々先客として桜内が加わること
もあった。入れ替わり立ち代り、メンバーはまちまちでも、二人きりは確かになかった。そう思うといっそう落ち着かない
坂井である。
 しばらくすると見納めた下村がようやく顔を正面に戻した。向かい合って座るには気恥ずかしく、正方形のテーブルに
斜めに座っているせいで、実際下村が見ているものが坂井には分からない。目の前の冷たいグラスか、それとも組ん
だ自分の指先か。少なくとも投げ出された坂井の腕でないことは確かで、まったくこちらに関心を示さない態度はすっぱ
りと諦めをつかせていっそ清々しい。自虐的だが期待がない分、ショックも少なくて済むのだった。
「今日の予定は?」
 モーニングセットが届いてようやく場の空気が緩んだことにほっと息をつき、世間話の続きのように坂井は切り出し
た。下村はゆっくりと咀嚼し、嚥下する間考えるようにじっと坂井を見ていたが、結局返ったのは「別に」という一言だけ
だった。そして、もちろん下村からの問いかけはなく、言葉のキャッチボールはミットに収まり、そのまま横に投げ捨てら
れてしまった。既に坂井は下村と出会ったことで、期待しないという技を会得しつつあった。
「なあ」
「ん?」
 食事中にあまり話をしたがらない下村のために、食後のコーヒーが届くのを待った坂井は、早速切り出した。
「暇ならちょっと、付き合わないか?」
 返答のために慌てることなくカップをソーサーに戻し、下村は不思議そうに坂井を見ていたが、思いの外すぐに頷い
た。
「いいけど」
 なおも不思議そうに首を傾げた下村を、可愛いと思ったことはもちろん内緒だ。












「レナ?」
 見慣れた建物の駐車場に車を乗り入れると、下村は意外そうに坂井を振り返った。
「最近あんまり、来てなかっただろう?」
「そうだけど」
 だからなんだという不審気な表情を無視して、坂井はさっさと車を降りた。続いて下村から助手席から降りてくる。まさ
かここまで来て帰る訳がないが、実際後を付いてきた下村に坂井はほっと胸を撫で下ろした。
「おはようございます」
「あら、おはよう。早いのね」
「釣りの帰りなんです」
 いつもと同じ穏かな表情で迎える菜摘に、坂井はなんとなく気分が和み、そんなに緊張していたのかと可笑しい気分
だった。
「下村さんはお久しぶりね」
「ええ」
 カウンターの海寄りを選んで並んで腰掛け、坂井はコーヒーを下村は紅茶を頼む。窓を開け放して音楽を止めている
と、波の音が間近に聞こえた。
「まだ早いから、音楽入れてないんだけど」
「いいですよ、この方が」
 コーヒーを炒り始めた菜摘が、坂井を見て少し笑った。この小屋に住み着いた者同士の気安さが二人にはある。この
場所に長くいると、体が勝手に波音のリズムを取り入れてしまうのだ。一時期建物の二階に住んでいた坂井は、時々
無性に波音が恋しくなることが今でもある。
 からころとフライパンを転がるコーヒー豆の音と漣、香ばしい香りと潮風が朝の爽やかな時間と明るい日差し、静かな
店内によく合っていた。もう少しすれば、通りすがりの観光客や、コーヒー目当ての常連が姿を現す、ひとときの静けさ
だ。この時間に来ることはあまりないがなんとも悪くない。浮上した気分に鼻歌でも飛び出しそうな勢いだが、浮かれす
ぎると退かれるかと隣をちらりと窺った。居眠りでもしているかの如く静かな下村だったが、案外ぱっちりと目を開き、熱
心にカウンターに置かれた犬の置物を見ていた。
「…好きなのか?」
「え?な、なにが!?」
 弾かれたように坂井を振り返り、すぐに慌しく視線を逸らした下村は、動揺して左手を手元のグラスにごつんとぶつけ
た。
「零れる」
「あ、わ悪い」
 おろおろとすぐに押さえて、少し離れた場所にグラスを置いた。随分と義手に慣れたようだったが、未だにこんなこと
もあるのかと少々驚いた。不器用に見えて何事にもそつなく応じてしまう下村だったが、そんな所を発見したことで得し
たような気分だった。
 それにしても、今の問いかけに何かそれ程重要な部分があったろうかと、すっかり平素に戻った下村の横顔に思い
出そうとしたが、たいしたことを言っているわけでもなく、ぼんやりしていただけかと勝手に結論付けることにした。どうせ
考えたところで坂井の答えは的外れだったし、聞いても下村が答えるわけもなかったからだ。
 下村が見ていた犬の置物をじっと見る。下村は既に視線をテーブルの上に落としてしまったが、そこに何かあるので
はないかと儚い望みでしばらく眺めた。
「それ、可愛いでしょ?」
 カップを二つ、二人の前に並べた菜摘の声にはっとする。長々と眺めていた坂井に菜摘はね?と微笑んだ。
 下村は二人のやり取りなど気にする風もなく、いつもは冷めるまで待つのを珍しく早々にカップを持ち上げ口をつけて
いる。それを横目に、坂井はそうですね、と当たり障りのない返答をした。
「安見がどうしても欲しいって。そのくせここに置いたりするから、何故か聞いたの。そしたらね」
 安見がそこまで物を欲しがるのは珍しい。この犬にどんな所以があるのかと、下村の動揺を重ねつつ知らず身を乗り
出した坂井に、菜摘はますますにっこりと笑った。
「坂井君にとっても似てるから、どうしても並べて見て見たかったんですって」
「俺?」
 突然隣で、ごふっと下村が紅茶で咽た。慌てた菜摘がカウンターの下からタオルを探す。坂井も驚いて背中をさすっ
た。
「おい、大丈夫か?」
「だ、大丈夫だ」
 渡されたタオルで口元を覆いながら、涙目で菜摘に謝り、もう平気だと坂井の手を押し返した。
「いくら喉乾いてるからって、急いで飲むなよ。熱いの苦手なくせに」
「な、なんでそんなこと知って…」
「いや、普通気がつくだろう」
 普通かどうかは大に疑問だったが、坂井は当然といった風に振舞った。下村は渡された布巾で、テーブルの同じとこ
ろばかりを拭いているので、そこも濡れていると指摘したらギロリと睨まれた。どうやら機嫌を損ねたらしい。
「おい、下村?」
 テーブルを拭き終わり、離れた場所にいた菜摘にタオルと布巾を返してそのまま出て行こうとする下村に、坂井は慌
てて声をかけた。扉の前でようやく腕を掴むと、一言「帰る」と言い渡され腕を払われる。坂井はカウンターに残したまま
のコーヒーとの選択を迫られた。どうしたものかと思い悩む坂井に、菜摘は行きなさいと手を振った。
「すみません」
「また、二人で来て頂戴ね」
「はい、必ず」
 本当に下村の考えていることは、さっぱり分からない。












 店を飛び出し、辺りを見回す。街へ続く海沿いの道に後姿を見つけて、車に飛び乗りエンジンをかけた。
「何で突然怒ってるんだよ…」
 本当に下村は訳が分からない。そもそも感情の起伏が読み取りづらく、今も本当に怒っているのかと問われても断言
はできない。勝手にそう判断しているだけで、結局理由も分からないのだ。
「下村!」
 歩道に車を寄せて、同じ速度で走りながら声をかけると、下村は案外素直にこちらを向いた。その顔に先程の様な感
情の欠片は見られない。また予想は外れたかとため息が出た。
「乗れよ」
 少し先に止まって、下村が横に来るのを待つ。そのまま通り過ぎるかも知れないという危惧も、隣に滑り込んだ下村
になんとか回避できた。きちんと扉が閉まったことを確認し、車を出す。何も言わない下村に、坂井も何も言わなかっ
た。
 先程までのことなどおくびにも出さない下村にとって、本当にどうでもいいことなのかも知れなかった。二人で居ること
も、先程のやり取りも、下村にとってはたいして意味のないことで、大袈裟に気にしている自分の方がおかしいのだ。実
際こうして隣に座っても交わす言葉さえなく、少しは近づけたと喜んだ途端に素っ気無い態度であしらわれる。そんなこ
とを何度も何度も繰り返し、その度に坂井は勝手に一人で打ちのめされる。もちろん下村にそんな気はないだろう。だ
が友人にしたって、もう少しましな親密さがあると坂井は思うのだった。
 とりあえず今日はこれまでだろう。隣で窓の外を眺めたまま、何も言わない下村にそっとため息を吐く。レナのことは
きっかけで、そこから話の流れを強引に今日一日の予定に持って行くつもりだったが、それも見事に失敗し、次の約束
を取り付けることさえできなかった。まったく情けないと己を罵倒しつつ、ハンドルを下村の自宅へきった。
「どこへ向かってるんだ?」
 眠っているかと思っていた下村がふと口を開いた。振り返った表情は案外すっきりとしている。建物の向こうに見えた
マンションを顎で差してお前の家、と答えると、不思議そうに首を傾げた。
「どこか行くんじゃなかったのか?」
「え?」
 ぽかんと間抜けな顔で返して、坂井はすぐに我に返った。
「えー、えっと、ほら、お前着替えとかしたいかと思って…」
「別にこのままでもいいけど。着替えが必要なのか?」
「いやッ別にそのままで全然平気だ!」
 ウインカーを出すのももどかしく、すぐさまハンドルをきってマンションから矛先を変えた。ハンドルを持つ手が震えそう
になり、坂井はぎゅっと力を込めなければならなかった。重く沈んでいた胸のうちが、今はぱちぱちと光りが爆ぜるよう
に興奮している。まるで当然と隣にいることを許した下村に、心が浮き立たない方がおかしい。そうやって傾倒して、独
りよがりに浮き沈みを繰り返す坂井のことなど知らぬだろう下村に、時々どうしようもない苛立ちを感じても、結局はこう
してたまに与えられる小さな喜び一つで立ち直ってしまう自分を滑稽に思い、一方でそうなれる自分が嫌いではなかっ
た。
「それで、どこ行くんだよ」
「え?う、海!」
「は?海ならいつも…」
「ここじゃない海!それならいいだろう?」
「別に俺はいいけど」
 よっぽど海好きなんだな、と感心したように言う下村に、坂井は海じゃなくてお前が好きなんだと胸の中で呟いた。 





















end

(06/05/07)











100000-5 尾崎一人様
「坂井の言葉に敬ちゃんが動揺する話」でした。