calm






 明けきらない空を見上げて、思い切り息を吸い込む。肺の中は懐かしい潮の香りでいっぱいになり、それが何度でも
心地よく、この時間がゾロは好きだった。
 少人数だった昔と違い、船は二十四時間動いている。常に船内には船員が闊歩し、また一方で眠っている。順番に
繰り返される日々の中、船はさながら一つの町の様に息づいていた。未だにそれがゾロには不思議で、また興味深くも
あった。
 麦わらのルフィ率いる、麦わら海賊団にゾロが戻ってしばらく経ち、ようやく最近になって馴染み始めたといった具合
だ。当初はまるで見世物にでもなった気分で、遠巻きにこちらを窺がう船員たちに辟易したものだが、今ではすれ違っ
ても挨拶が投げかけられる程度の関心度だ。それでも時折、何故か注目を浴びている時もあり、その違いに間々戸惑
う。
 一見無秩序な猛者の集まりに見える海賊船だが、一つの船を動かすという事は、それ程甘い事ではない。それぞれ
が与えられた役割を正確にこなす事によって、初めて安全な航海が約束される。だからこそ、船員たちには歴然とした
階級と役割があり、決められた仕事と休憩がある。しかしゾロはそのどれにも属しておらず、また与えられた仕事もな
い。元々、押し付けられるのが嫌いなゾロにはうってつけなのだが、ここまで理路整然とした約束事の中、自分一人が
ぶらぶらとしているのでは、色々な意味で示しがつかぬのではないかというのが、専ら最近のゾロの心配事だ。だが迂
闊に仕事を求めると、これ幸いと何を言うか分からぬ策士が幾人かこの船には乗っている。さて、どうしたものかと買っ
て出た見張台の上で大あくびをしていると、下からぎしぎしと縄梯子を揺らす音が聞こえてきた。
「おはよ」
「おう」
 程なくして顔を出したのは、恐らく船内一多忙な料理長だった。途中からいい香りが鼻をくすぐっていたから、直ぐに
分かった。手を引いて台に引き上げると、サンジは音もなく入り込んだ。
「また見張り、引き受けたのか」
「ああ」
 昔ならいざ知らず、この時間からサンジが起きだしているのは珍しい。恐らく様子を見るためだろうと容易に分かり、
ゾロは気恥ずかしいような気持ちで腰を下ろした。サンジはくわえていたタバコを大きく一息に吸い込み、蓋のついた灰
皿に押し付けると、くっついてゾロの隣に座り込んだ。
「目ぇ覚めたらいねぇから、ここかな、と思って」
 柔らかな湯気の昇るカップを差し出したサンジは、少し赤い目をしていた。昨日の夜、サンジは部屋に戻るのが遅く、
ゾロは先に寝てしまったから、戻った時間は知らないが寝不足なのかも知れない。カップを受け取りながら目元を指で
撫でると、サンジは恥ずかしそうに笑った。
「くま?」
「いや、目が赤い」
「結構、寝たんだけどな」
 夜中過ぎ、ゾロが部屋をそっと抜け出した時には熟睡していたはずだ。その後、直ぐに起きてしまったのかも知れな
い。なんとなくもう一度サンジの頬を撫でた。
「もう少し寝てろよ。時間、あるだろ」
「ここで寝てもいいか?」
「…寒くなったら、下行けよ」
「了解」
 満足そうに笑って、サンジはゾロの纏っていた毛布に入り込んで、直ぐに寝息を立てた。その途端に明け始めた水平
線の光が、その顔に当たらぬよう、そっと手で遮りながら、こんな時間も悪くない、とゾロは知らず微笑んだ。






 お茶の時間が近づくと、ラウンジの周りには甘ったるい匂いが立ち込める。だが何より甘ったるいのは、当船の料理
長の雰囲気だと、最近ではもっぱらの噂だ。

 今日も今日とて、ラウンジには人だかりが出来ている。
 三時の茶菓子が出る海賊船などまったく不謹慎としか言いようがないが、船長からして十時のおやつがないのが不
満などという船だ。新入りなどは目を白黒させるのだが、この船ではそれがまかり通る。もちろん食事と違って基本的
には、希望者だけが寄り集まるのだが、その数は膨大で早い者勝ちに生傷が絶えなくなって久しい。だが最近では、極
少数派の、甘いものを嫌う一派までもがその時間帯に詰め掛ける様になった。ある者は喉が渇いたと茶を貰い、ある
者はその付き合いと称したが、皆目的は一緒である。最近増えたクルーの様子が、気になってしかたがないのだ。
 聞けば麦わら海賊団旗上げからの古参らしい。だが船員のほとんどは面識がなく、ただその名だけは嫌というほど聞
き知っていた。

『大剣豪ロロノア・ゾロ』

 永きに亘り剣士の頂点に君臨した、鷹の目のミホークを打ち倒し、名を上げた若い剣士。だが先代と違い、無益な争
いや殺生を好まない事から、いつしか剣聖と呼ばれるに至った男。
 その張本人が居るとあっては、好奇心の塊である海賊たちが放っておく訳もなかった。
 交代で食事を取る時よりも、明らかに人数の増した船員たちで、ラウンジは座るところもない状態だ。しかし厨房に一
番近い一角だけ、人口密度が極端に少ない。そしてその中にロロノア・ゾロは座っていた。周りを囲むのは会議さなが
ら船長以下、幹部の面々。とてもヒラの船員たちが近寄れる雰囲気ではなかった。
 だがこんな時、女とは強いものである。特等席ともいえる周りのテーブルには、こぞって女たちが詰めかけ、興味津々
とそっぽを向いて耳を欹てていた。
「このままなら二・三日で次の島に着くわね」
「次は何島だ?夏はもうこりごりだぜ」
「秋島よ、おそらく」
「おう、飯が美味そうな島だな」
「あんたはどこへ行ってもウマいでしょうよ」
 もっぱら話しているのは船長、副船長、航海士の三人だ。この辺の会話はいつもと大差ない。だがそこへ一人新たに
加われば、途端に周りの人間の耳は大きくなった。
「でかいのか?」
「うん?そうね。港は小さいけど、中心地の街は結構栄えてるみたい。刀?」
「ああ」
「鍔の繋ぎ目、ちゃんと見てもらった方がいいぜ」
「そうする」
 普段は騒がしい船長は、黙って菓子を頬張っている。まるでゾロの言葉にじっと耳を傾けているようにも見えた。
「ナミさん、お茶のお代わりいかがですか?」
 厨房から優雅な仕草で料理長が登場すると、色めき立ったざわめきが外野に広がった。
「ありがとう、大丈夫よ。サンジ君も座って?」
「はーい」
 エプロンを外して料理長は音もなく椅子に腰掛けた。当然の如くゾロの隣に。
「なんだ、お前。飲まないのか?ミルクティーダメだったか?」
 まだ手のつけられていなかったらしい、ティーカップとアップルパイを目敏く見つけ、サンジが身を乗り出した。それに
ゾロはキョロ、と目を動かすと呟いた。
「まだ、熱い」
「え、あ、そうか。どれ」
 カチャン、とカップを取り上げ一口飲む。ん、と頷いてからサンジはカップを戻した。
「もう平気だろ。飲んでみろよ」
「そうか」
 頷き、ゾロはそのままそのカップからごくんと飲んだ。
 外野から、おお、とどよめきが上がる。ゾロはぎょっとしてカップをがちゃんとソーサーに戻した。
「なんだ?」
「なんでもねぇよ」
 にこりと笑って辺りを見回した料理長の眼光の鋭さに、皆慌てて目を逸らして縮こまる。その目は捕食者のそれだっ
た。血祭りにする者を探している。震え上がって幾人かはばたばたとラウンジから飛び出した。
 航海士がふう、とため息を吐いた。





 そんな風であるから、二人の関係は船内に程なく知れ渡った。何食わぬ顔をして、その実大半の噂の出所が、サンジ
だと知っているナミである。ゾロなどは未だに、数人の秘密だなどと思っている節があるから、まったく暢気だ。
 パラソルの下で読書に耽るナミの横で、ゾロはウソップに借りた本を懸命に読んでいる。題字はナミの知らない文字
だ。それ、なに?と聞いても、ゾロは笑って取り合わない。ちょっと困ったような優しい笑い方、そんな笑みを見た事があ
る。とても昔だ。不意に浮かんだ懐かしく愛しい人。自分たちの保護者であった彼女も、今から思えばまだ歳若く、悩み
多い女性であったはずだ。急に重なった面影に、ナミはそれ以上の口を閉ざした。だがゾロの手元が気になって仕方
がないのは隠せない。そわそわとするナミに、ゾロは諦めたようにテーブルに本を開いて見せた。
「南の辺境の言葉だ。グランドラインでもあまり見かけねぇ」
 動物の皮特有の匂いがツンと鼻をつく。本というよりは獣皮の束だ。表皮には蛇がのたうつ様な記号がたくさん並ん
でいて、ナミにはさっぱり分からない。
「なんでこんな文字が読めるのよ」
 暗にプライドを傷つけられたと怒るナミに、ゾロは笑ってしばらく居ついた場所で、あんまり暇だったから、と答えた。そ
れにナミは悔しい気分になった。
 未だにゾロは、離れていた間の話をあまりしない。他愛無い笑い話は良く聞いた。だが肝心の部分は一度も触れられ
た事がない。こちらからねだれば良いのかも知れないが、それもなんとなく憚れた。皆はどうなのか知らないが、それは
サンジの特権であると、なんとなくナミなどは思っているからだ。実際サンジは、ゾロから幾つか話を聞いているようだっ
た。
「何が書いてあるの?」
「そうだな…地方の伝説やら、冒険譚やら、不思議な生き物の話かな」
 文字らしきものをなぞりながら、ゾロは淡々としている。そんなものに興味があったなんて、知らなかった。驚いたナミ
に、ゾロはなんとなく面映いような様子で俺じゃなくて、と言った。
「不思議な海の話とか、まあ、そんなもんも載ってるし」
「…オールブルー?」
 それには笑っただけだったが、普段は新聞にさえ興味を示さないゾロが、一生懸命読んでいるのだから、答えは自ず
とそれを指した。
「どんな事が書いてあるの?」
 なんにしろ、海の話ならばナミとて無関心ではいられない。乗り出して表皮を見ても、意味が分からないのは同じだ
が、興味深々といった風にゾロは苦笑してここ、と指差した。
「世界の真ん中にある、海の話が書かれてる」
「世界の真ん中?」
「全ての海がそこから始まり、そこで終わる。…なんとなく、似てる気がしねぇでもねぇだろ」
「確かに」
 ねえ、もっと読んで頂戴。ねだるナミにゾロは初めから根気よく話して聞かせてくれた。その横顔を見ながら、なんて
一生懸命なのかしらと気づかれないようにこっそり微笑む。
 昔、今から思えばまだ自分たちは幼く未熟であったけれど、ただ懸命に背伸びをし、人は届かぬという星を掴む為に
全てを捧げていた。それはただ一途で曲がりなく、正直で真っさらであったけれど、時に酷く残酷だった。それこそが未
熟の証であったのかも知れない。掴める星は、たった一つと思い込んでいたのは愛しくも愚直な若さ故。しかし時が経
つにつれ、そうではない事に気づき、その時には既にたくさんのものを失っていた。

 この男も、そうであったのだ。

 少し擦れた低い声で、囁く様に本を読むゾロの横顔をじっと見る。あの時どれだけ、自分は涙を流したろうか。少なく
とも一生の残り半分は使ってしまったに違いない。誰にぶつけていいのかも分からない、矛先のない怒りや遣り切れな
さに、そうするしかなかったのだ。それだけに失われたものが再び目の前に現れた瞬間の狂おしい喜びを、きっと一生
忘れないと思い、二度と過ちは犯すまいと誓うのだ。
 きっと誰もがそう思っている。この男を大切に想う誰もが。
「ねぇ、それ読み終わったら私に貸して?」
「かまわねぇが、ウソップに言えよ」
「うん」
 海の話をし終えたゾロは、一息にコップの水を飲み干した。塩気を含んだ海風に、喉はすぐに乾いてしまう。ナミが黙
って自分の紅茶を差し出すと、礼を言ってそれも飲み干した。
「サンジ君にも読んであげるの?それ」
「いや、全部は面倒だから、かい摘んで話すぐらいで…」
 そこでふと、手元に落としていた視線を上げたゾロと目が合った。あまりにも真っ直ぐなその目に一瞬たじろぐと、ゾロ
は気まずそうに頬をかいた。
「お前に読んでやったの、秘密だぞ」
 変なところでこだわるからな、アイツ。そう言ったゾロの目の、なんて優しい事!ナミは感嘆してチェアの背もたれに仰
け反った。
 自分たちが失う事の恐ろしさを噛み締めていた頃、ゾロは何を考え、何を感じていたのだろうか。ただ一心である事
が、時に恐ろしく虚しいとゾロは知っている。それをゾロに教えたのが、自分たちであればいいとナミは思った。
「二人の秘密ね?」
「ああ」
「じゃあ、指切り」
 こうしてたくさんの秘密や繋がりを、ずっと解けないようにそっと結んで、そういう方法でしか大切に出来ない自分を、
十年後の自分はどう思うだろうか?また愚かしく未熟であると笑うだろうか。それでもきっと、あと半分の涙を使い切る
事はもうないだろう。そう信じて、ナミはゾロと指切りをした。






 また、ある日。

 船に戻った二人が指輪などしているものだから、船はその話で持ちきりだ。

 ウソップなどはよかったなあ、などとゾロの肩を叩いている。サンジはよく分からずも、うずうずして今にも走り出してし
まいそうな気配だ。
「え、結婚式もうしちゃったの!?」
 などとナミまでもラウンジで声高に言うものだから、もう決定的で、すっかり船内はお祭りムードになっている。少しは
不思議に思えよ、とはウソップの弁だが、まあそこは海賊なので。
だが唯一船長だけが、暗がりで舌打ちしていたとかいないとか。
「あんたねぇ、そんな楽しい事は人前でやるものなのよ!」
 腰に手を当てて憤慨するナミに、サンジはまあまあ、ナミさん。なんて宥めている。ちょっと何故か得意そうだ。ナミの
意見を立てないサンジなど、ゾロにとっては青天の霹靂だ。
「どうした?」
 固まってこちらを見ているゾロに、茶を供するサンジは不思議顔だ。なんでも、なんて言って目を逸らしたゾロはなんと
もぎこちない。一緒のテーブルに居たウソップも不思議そうだ。
「どうした?ゾロ」
「いや」
 別に、と誤魔化しながら、そんなところで時の流れを感じ取り、こんな細々としたところで思い知る。不快と言うよりも
不可思議でゾロはカシカシとナッツを噛んだ。
「それにしても、お前よく怒らないよなあ」
「なにが」
 事細かに問い詰めるナミに、目を白黒させているサンジを横目に、しみじみとウソップが呟いた。意味が分からず問
い返すと、ウソップはチロリとサンジを見た。
「なんとなく、昔のお前だったらサンジがでれでれ結婚式の話なんかしたら、怒ったんじゃねぇかなあ、と思って」
「…なるほど」
 確かにそれは一理ある。若い時分の頃ならそんな浮ついた話を、人前で堂々と出来るものではない。だがそれは今
だって違いはないと思うのだが、サンジがあまりにも嬉しそうにするものだから、つい微笑ましい等と笑ったゾロである。
指摘に考え込むゾロに、ウソップは少々焦ってぶんぶんと手を振り回した。
「いや、いや!いいんだけどよ!ほら、お互い理解し合えたって事だしな。うん、いいことだ!」
 どうにかこちらに気を引こうとするウソップだが、もはやゾロは思案気に眉を寄せて動こうとしない。これは鬼門だとウ
ソップはますます手を振り回す。ここで正気に戻られては、またサンジの蹴りの餌食になる。死なないながらも、痛いも
のは痛いのだ。
「ねぇ、ゾロ。じゃあ披露宴やりましょう。お披露目会!」
 船内は既にその様な雰囲気に十分なっている。たとえナミが言わずとも、自ずとそういった事にはなりそうだ。何を言
っているんだと顔を上げれば、身を乗り出すナミの向こうに、不安そうなサンジの顔を見つけてしまい、結果ゾロはまた
口を噤んだ。それを了解と取り、ナミは早速と近くにいた船員に耳打ちした。

盛大な宴はそれから三日と半日、敵襲を告げる銅鑼が鳴るまで続けられた。






 そっと離れた気配に目を覚ますと、目の前でサンジがじっとゾロの顔を見ていた。
「起こしちまったか?」
「いや…」
 まどろみを残した声は、喉に引っかかって擦れている。サンジは枕元に膝を立てて座り、うつ伏せて半分隠れたゾロ
の顔を懸命に見ていた。それに瞬きで答えると、サンジは何度かゾロの頬を撫でた。
「体、キツくねぇ?」
 ずり落ちた毛布を引き上げ、そっと肩を撫でる。穏やかなリズムにうとうとと目を瞑ると、まぶたの上に柔らかな視線
を感じ、それがまた心地よいから、ゾロは緩やかな呼吸を深くして、眠りの闇に身を委ねた。
 そのまま寝入ったゾロの肩を静かに撫でながら、その下に隠されたひどい傷をサンジは思う。肩から肘までを裂く傷
痕は、いつかの胸の傷のように生々しく痛々しい。爆ぜた火薬に焼かれた肌が、潮風に時々痛むのを、ゾロは隠して
いるようだが、サンジはもちろん気づいていた。だがゾロが何も言わない以上、自分たちがどんな関係であれ、踏み込
んでよいものではない。傷は決して肉体にだけ痕を残すのではないのだから。
 ほぼ三日、主役であると言われてほとんど寝ていないのだが、レストランの繁盛期には似たような事も多々あったた
め、少しの仮眠があれば十分なサンジは、動かず上座で飲み食いしている方が余程疲れた。ゾロなどは途中からやけ
っぱちになり、最後には不眠のせいで終始笑顔だった。あまりの気前のよさにサンジなどはハラハラし通しだったのだ
が、ゾロは一向に頓着せず、屈託なく笑っていた。そんな風にされては事が事だけに、サンジももちろん嫌なはずもな
かったが。

 だって、披露宴だぜ?披露宴。

 ゾロの前だからと堪えていたが、どうにも顔が崩れて仕方がない。気が緩んでダレきった頬をきゅっきゅと手で戻しな
がら、サンジは飽く事無くゾロの寝顔を存分に眺めた。
 流石に寝不足のためか、目元が僅かに翳っているものの、健康そのものの健やかさで、すうすうと寝息を立ててい
る。その穏やかさが何とも心地よくこそばゆく、もそもそと隣に潜り込み、顔を寄せてじっと愛でた。
 嫌がるかもしれないという当初の心配を他所に、ゾロは初めから存外積極的だった。明らかにからかわれていると分
かっていても気にする風もなく、もちろん怒りもしないし否定もしなかった。

 その時の、サンジの喜びといったら!

 ほう、と思わず感嘆し、ゆっくりと瞬くと、目の奥がチリチリと微かに熱を持っているのが分かる。流石にそろそろ限界
だろうかと瞬きを繰り返すと、しっとりとした霞が頭を包んだ。
 ああ、眠っちまうの、もたいねぇな。
 ずっと隣に座って、両脇から祝福の言葉と杯を受けながら、時々ちらりと視線を交わした。その一瞬にだけ見せる、ゾ
ロの思慮深げなはにかみは、サンジを何度もたまらない気持ちにさせた。
 
 お前に会えて、ホントによかった。

 時々ランプの光が思い出したようにユラと揺れ、宴会から戦闘へなだれ込み、少しばかり疲れた気持ちを解していく。
呟きは声にはならず、そのまま穏やかな寝息が一つ、新しく加わった。






 慌ただしい食事前のラウンジだ。数人のコックがあちらへこちらへと忙しない。サンジはその真ん中で指示を出しなが
ら、誰よりも手早く働いていた。
「もう少し、待ってな」
 目にも留まらぬ早業、とはこの事を言うに違いない。ゾロは厨房の中を見渡せるカウンターへ肘を乗せるなり渡され
たカップを持って、一番近いテーブルについた。ラウンジにはまだ誰もいない。基本的に準備中はラウンジの扉に札が
掛けられ、入室は禁止になる。あれこれと気が散っては差し障りがあるからだ。それをまったく無視して入ったゾロであ
る。しかし誰一人としてそれを咎める者は居なかった。そんな事をしては料理長の機嫌を損ねると心得ているからだ。
それに元々、ゾロはラウンジへ来るつもりもなく、船内をふらふらと探索(迷子ではない。あくまで探索だ)していると、行
き会う船員が悉くサンジはラウンジに居ると教えるので、行かなければならないような気になってしまったのだ。
 カップの中身が冷めるのをじっと待ちながら、ゾロはひらりひらりと身軽く動き回るサンジの背中を眺めた。
 昔、まだ小さなメリー号に数人の仲間たちしか居なかった頃、同じようにこうして、料理をする姿を眺めていた。そんな
時、大抵サンジは酒が欲しいのかとゾロに聞いたが、そうではなく、ただ単にそうしているサンジを見ているのが楽しか
ったからだ。しかしそんな事を言えば、気持ちが悪いとラウンジから蹴り出されるのは分かっていたから、飲んだくれの
アル中め、とブツクサ言いながら差し出された酒瓶を黙って受け取った。そしてまたサンジの背中を肴に飲んだ。この
壜の底をつかない間は、ここに居られる。そんな下心など露知らず、いつまでも飲み干さないゾロに、たまには味わっ
て飲むのもいいだろう、とサンジは笑ったものだった。あの頃と比べれば、今は随分堂々と見て居られる。周りが気にし
ないという以上に、サンジがそれを喜んでいるという事が、何よりゾロを安心させた。
「珍しいな。腹減ったのか?」
 普段は飯の声が上がっても、最後にのっそり現れるゾロである。本当はこっそり様子を伺いに来ている事を知らない
サンジは、意外で嬉しい来訪者に声が浮ついている。ゾロはああ、とかうう、とか適当に返し、温まったカップの中身を
飲み込んだ。クリーム色のポタージュはかぼちゃの甘い香りをたて、ゾロの腹はグウと鳴った。それにサンジは奥の方
からあははと笑って、周りのコックたちを驚かせている。料理中は戦闘中よりも鬼気迫るサンジである。一瞬動きの止
まったコックたちに、すかさずサンジは雷を落とした。怒鳴られるコックたちには申し訳ないが、そうしているサンジはな
んとも快活で歯切れがよく、見ているのは楽しかった。その合間にも支度は着々と整い、給仕のテーブルには寸胴の
鍋が幾つも並べられた。
「おら、もう出来るから知らせてくれ」
 慌しく最後の仕上げにかかるコックたちを尻目に、一服取り出し、サンジはゾロの座る椅子を蹴りながら機嫌が良い。
相変わらず何も用のないゾロは、素直に立ち上がってラウンジの扉を開いた。
「てめーら!飯だ!ぐずぐずしてんじゃねーぞ!」
 わあっとラウンジの外が沸いた。一瞬何事か分からず目をぱちくりしたゾロだが、見下ろした先にナミのニヤついた
顔を見つけ、わざとらしく眉を顰めた。どうも何か賭け事に使われていたらしいとすぐに分かったからだ。
「いくら儲けた」
「人聞きの悪い事、言わないでちょうだい。退屈に瀕した船員たちに、ちょっとした娯楽の提供。親切心だわ。…何よ、
その手は」
 次々とラウンジに飛び込んで行く船員たちの横で、ゾロはじっとナミに手を差し出した。胡乱気にナミの目が光る。だ
が直ぐに悟り、あまねく不幸を背負い込んだ顔をした。
「…もうっ、この守銭奴!」
「お前に言われたかねぇな」
 ん、と顎をしゃくって催促すれば、ナミはぶつぶつと恨み言を二三並べながら、ゾロの手にコインを幾つかしっかりと握
らせた。ひいふうみいと数えても、飴玉が買える程度だ。不満げに睨むとナミはいーっと歯を出し、さっさとラウンジへ入
ってしまう。全く非道に違いないが、なんとも可愛らしい反撃に、ゾロはもう笑ってしまい、後に続いた。
 ラウンジは既にわあわあと大騒ぎだ。躾がいいのか殺到して鍋を倒すなどという愚か者は居ないが、我先に並ぶ様
はなんとも浅ましい。そんな中、既にナミは比較的静かなテーブルで、ランチのプレートを楽しんでいた。それが容易に
料理長権限の特別待遇と見て取れて、ゾロは黙って列の後ろに並んだ。
「ゾロ、こっちだ」
 突然腕を引かれて振り返ると、サンジがプレートを器用に二つ片手に立っていた。
「お前が一番のりだったからな」
 ほらよ、と笑って一つを差し出しさっさと歩き出す。雑然としたラウンジだが、サンジの先は自然と道が出来た。
 直接、戦闘には関わらないサンジだ。昔、斜に構えた細身の体から繰り出す蹴りは、急所に入ればゾロとて昏倒しか
ねないものだった。しかし再会してから、一切手を使わぬけったいなスタイルを見ていない。暴力は守るための手段と
考えるサンジだ。戦闘員に事欠かぬ状況に、自ら率先する道理はない。だがあの姿をもう見る事もないのかと、一抹の
寂しさを感じずにはおれなかった。実際敵船との小競り合いにサンジが顔を出す事はなかったし、それを不満とする声
も特に聞かれなかった。あるいは、サンジのその壮絶な力を知らぬのかと思った。しかし船員たちが見せるちょっとした
物言いや表情が、料理長に対する礼節だけではない事に最近気づいた。そう、たとえばこんな時だ。絶対的な力の差
は、時として海賊たちに礼儀を教える。畏怖の目礼を受けるサンジは、いたって普通でチラとも視線を動かさない。当
然の事だからだ。
 つまりサンジは、小競り合いには顔を出さない。
それだけの事だ。
 サンジはラウンジに数個しかない窓の一つ近くに腰を降ろすと、少し遅れて着いてきていたゾロが来るのを待ってい
る。視線に促されて足早に席に着いた。
「いただきます」
「召し上がれ」
 両手を合わせ、お決まりのやり取りをし、フォークを手に取った。プレートの上には熱々の料理がほこほこと湯気を立
てている。突然腹が減っていた事を思い出し、慌てて豆と肉の煮込みを口に入れると、なんとも言えない風味がふんわ
りと口に広がり、胸の辺りまでもジンとした。
「うまい」
「そうか」
 言葉少なに笑うサンジは、ゆっくりとスープを飲んで、小さく頷いた。こうしてサンジがゾロと食事を摂るようになったの
は、ゾロの我侭と言っても良かった。昔はくるくると器用に給仕するサンジを見ているのが楽しかったし、料理人の矜持
でもってそうしているのだろうと納得していた。しかしお互いを見る目が少し変わった今、うまい食事を自分と同じよう
に、自分の隣で笑ったり、怒ったり、話したりしながら食べて欲しいと思ったのだ。サンジとしては、男どもへの給仕はと
もかく、女性陣へのサーブは自分でしたかった事だろう。しかし意を決して言ったゾロに、サンジは案外さらりといいよ、
一緒に食おうぜ、と言ってその場で隣に座ったのだ。
 嬉しかった。女より自分を選んだから、などという事ではなく、ただ当然のように隣に居るという事実が嬉しかったの
だ。
 それ以来、サンジは毎食ゾロと一緒に食事をするようになった。時には親しげに隣に座り、時には静かに向かい合っ
て。そんな時、周りの誰もが場所を空け、近寄っては来なかった。明らかな好奇の目や観察する気配を感じても、サン
ジは意に返さず、ただ笑ってうまいか?と穏やかに問いかけた。
 急にフォークを止めたゾロに、サンジは少し首を傾げた。一瞬、ジンと胸が詰まって、空気が上手く吸い込めなかっ
た。しかし直ぐに取り直し、なんでもねぇ、とフォークを持ち直した。

 誰もが自分とサンジとを結びつける様に、サンジにとっての自分がそういう存在であればいいと思う。

 既に自分が、そうである様に。

 左手の甲で汚れた口を拭う振りで、そっと薬指の付根にくちづけた。









 月の綺麗な夜はデートでもしようよ、と言ったサンジに、ゾロは良く分からぬといった風で、でもかまわねぇと頷いたか
ら、サンジは早速ゾロを連れ出した。
雲ひとつない空にぽっかりと月の浮かんだ、とても明るい夜だった。たくさん植わったみかんの木の根元に、シートを引
いて座り込む。即席の特等席だ。黙ってついてきたゾロは、また黙って隣に腰を降ろした。
「なあ、くっついてもいい?」
「かまわねぇ」
 ぞんざいだがそれは、どちらかといえばわざわざ聞くなといった風だ。嬉しくて、体を寄せ、ついでとばかりにちゅ、と
頬へくちづけた。後部甲板に近いみかん畑が、見張台から死角なのをサンジはきちんと知っている。だからこんな事も
平気なのだが、果たしてゾロはどうだろう。横顔からは何も読み取れない。あるいはゾロもこの場所の秘密を知ってい
るのかもしれない。見張り台からの眺めは見知っているだろうから。でもたとえばそんな事は全然なく、ただ自分とこうし
ているのがいいと、単純に思っていてはくれまいかと願う。
「な、見張りから丸見えかな?」
「…上からは見えねぇよ。ここは」
 素っ気無い返答に、やっぱりねやっぱりね、と肩を落とした。いつも勝手に期待して落ち込むのはサンジの得意技
だ。ゾロに関しては少々先走り過ぎの傾向がある。ウソップなどにはよく指摘されるが、勝手に急いてしまうものはどう
にもならない。反射神経に意思は存在しないのだ。
「まあ、見られても…」
 その後ごにょごにょと言葉の濁ったゾロに、びっくりしてサンジは顔を上げた。月を見る振りでそっぽを向いた耳が赤
い。なんとも初々しい様に、途端サンジは顔が緩んで仕方がない。
「そうだよな。結婚してるんだし。公認だよね」
 ふふ、とますます擦り寄り腕を絡めて手をつないだ。硬い指に指を絡める。がさがさとした手触りにうっとりしながら、
指先で甲を撫でた。
 ゾロは時々、びっくりするほど寛容だし、誰にだってきちんと優しい。それがわざとらしかったり、執拗でないから、どう
したってサンジのやり方の方がずっと分かりやすいけれど、心の深いところで本当に相手の事を考える優しさを、ゾロ
はたくさん持っている。だからゾロは、サンジにだって昔から、ここで否定されれば傷つくという場面では決して酷い事は
言わなかった。それがまた無意識なのだから全く憎い。それで惚れるなという方が無理な話だ。
「これくらいは」
 暗に釘を刺すのを忘れない賢明さもいい。実際、サンジは堪え性がないから、少しくらい強引に止められないと止まら
ない。
「じゃあ、しばらくこうしてようぜ」
 覗き込むように同意を求めれば、やっと顔をこちらに向けたゾロが笑った。思慮深い微笑み。サンジを堪らなくさせる
顔だ。
「ずっと、こうして居ような」
 言葉で全ては表せず、伝えきれるものではない。そんな簡単なものじゃないと嘯きながら、本心ではもどかしい。けれ
どもそういったものをゾロも残らず抱え込み、同じように感じていると知っているから、サンジは少しだけほっとして、自
分なりのやり方で伝えていこうと思えるのだ。性急過ぎて怒らせる事も間々あるものの、しばらくすればしかたねぇなと
笑ってくれる。いつまで経ってもきっと器用にはいかないけれど、精一杯気持ちだけは伝えていこう。

 もう二度と、あやまちも後悔も真っ平だから。

「ずっと居る」

 思い出したように呟いたゾロの言葉に、体中に詰まった気持ちが溢れる様に、情けなくも涙を一つ、ぽつんと零した。

 











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初出 2005/02/13
再録 2012/08/10