恋と盲目





 また、ある日。

 ラウンジへ入った途端、異変に気づいてナミは思わず立ち止まった。
 夕餉前のラウンジは相応に慌ただしくなければならないのに、コックの姿が見当たらず、カウンターから見える厨房も
しんとしている。もしや職場放棄かと懸念したが、いの一番に許さぬはずの、かの料理長も同じとあっては、これはおか
しいとナミは首を捻った。
「ねえ、サンジくん。居ないの?」
 訝しく厨房を覗けるカウンターへ、そっと近寄る。ナミはあまり足を踏み入れないが、厨房は案外広く死角は多い。見
えない位置に誰かと思い覗きこんで、ナミは目を瞠った。
「ど、どうしたの!?」
 そこには無言のまま黙々と、十人と下らぬ男どもが、床に這い蹲っていたのだ。
「あ、ナミさん!」
 その中でも際立って床に額を摩り付けていた当の料理長が、か細くも情けない悲鳴で名を呼ばわり、思わずナミは後
退った。
「な、なに?」
「俺を殴ってくれナミさん!俺はとんでもない事をしちまった!」
 なにやらナミの知らない、呪いの言葉や悔恨を口にし、許しを請うような仕草で頭を掻き毟った。
「おいっまだ見つかんねぇのか!」
 へい、まだでさ、と答える最寄の頭を意味不明にぽこぽこ殴りながら、サンジはやや錯乱気味だ。こんな様は随分と
久方ぶりだとナミは更に数歩後退った。
「何か失くしたのね?」
 厨房の隅から隅までを見て回っているらしい様子と、サンジの狂乱にどうやらその様に合点した。しかし大人数で目を
凝らしても見つからぬ物など、厨房にあったろうか?調理器具と言えば鍋やフライパン、せいぜい計量カップくらいしか
思いつかぬナミは、疑問符が浮かぶばかりだ。
 しかしサンジは、ナミの言葉など耳に入らぬ様子で尚も頭を掻き毟っている。
「ねぇ、ちょっと。サンジ君。落ち着いて頂戴。まさかいつからこんな事してるのよ」
 時計を見れば、食事を摂る第一陣がドアの外で待ち構えていてもおかしくない時間だ。しかしどう好意的に見ても、食
事の準備はまだ済んでいない。こと食事関連には、船長からして厳しい船だ。こんな事で時間が遅れたとあっては、暴
動も起きかねぬ。
 船長自ら、その先頭に立って大騒ぎする様が容易に浮かんで、ナミは思わず額を押さえた。
「ちょっと、何がなくなったの?」
 ナミに答えず、よろよろと再び蹲って這い回り始めたサンジを放り、ナミは手近なコックの肩を掴んで引き寄せた。ま
だ若いが、最初にサンジが厨房へ入る事を許した船員の一人で、彼の作るプリンをナミは大層気に入っている。男は
少々顔を赤らめると、恥ずかしそうに体を引いた。
「あの、指輪が」
「指輪?」
「へぇ、料理長の指輪がなくなったとかで」
「…まさか指輪って…ゾロの?」
「そのようで。首から鎖で吊るしてたらしいんですが、急に見当たらねぇってんで、先刻からこの有様に…あ、あねさ
ん!」
 聞くなりものすごい形相で立ち上がったナミを、咄嗟に男は止めに入ろうとしたものの、本気のナミに逆らえる道理が
ない。出した手を引っ込め、男はおずおずと後ろに控えた。
「ちょっと、サンジ君!こっちへいらっしゃい!」
 厨房に備え付けられたステンレスの作業台が、怒声にびりびりと振動する。誰もが驚いてびしりと立ち上がった。
 しかしサンジだけ反応が遅く、少し遅れてゆるゆると立ち上がると、ぼろぼろの様で近寄ってきた。無意識の内にも女
性の求めには応じなければならない、という刷り込みは相変わらずらしい。しかし視線はあちらこちらと探るように彷徨
っていた。
「…厨房へ来る前に、どこかに忘れてきたって事はないの?」
 大きく深呼吸してから、ナミは極力穏やかに問いかけた。今のサンジは左から右へ素通りで、馬の耳に念仏だった。
怒鳴って喉を痛めてはこちらが馬鹿を見る。しかしどうしても肩の辺りがわなわなと震えた。
「そんなはずはないよ。だっていつも、厨房に入る前に挨拶してるからね」
「挨拶?」
「ほら、よく神様に旅の無事を祈ったり、怪我のないように手を合わせたりするだろう?それと一緒さ。あれが俺の神様
みたいなもんだし」
 違う意味で厨房内はシンとなった。いっそ痛々しい程の静寂だった。しかしサンジは臆するどころか、ますます嬉々と
して言葉を続けた。
「あれがあると、昔みたいに一緒にラウンジにいるみたいな気がして、ほっとするんだよね」
 料理中のサンジは楽しそうと言えなくもないが、大半鬼気迫る様子である。とても和んでいる風には見えないと、ほぼ
同時に心中で全員が呟いた。
 ナミは額を押さえて大きく、大きく息を吐いた。サンジがこんな甘ったるい事を考えているとは思わなかったのもある
が、何よりそれに振り回されるコックたちの心中は如何程と慮った。
「こんの、色ボケコック!」
 思い切り、ナミはサンジの鳩尾めがけて膝蹴りを喰らわした。すかさず周りからはおお、とどよめきが起きる。サンジ
はたまらず、そのまま床に蹲った。
 まったく料理長として大失態である。自分の都合で、船員たちの食事をないがしろにするなど論外だ。いきり立って勢
い頭を踏みつけようとしたナミを、周りのコックたちは流石にまずいと止めに入った。
「あねさん!落ち着いてください!飯は…」
「なんの騒ぎだ」
 ぴた、とその場の誰もが動きを止めた。同時に声を振り返る。厨房の入り口に、いつの間にかゾロが立っていた。何
故か全身ずぶ濡れである。
「ナミ?どうした」
 ナミの腕を掴んでいたコックを眼光一つで下がらせ、様子のおかしいナミの顔を覗きこんだ。次いでサンジを振り返
る。いつの間にサンジは顔を上げていた。
「…なにがあった」
 気の抜けたナミが力を抜いてしゃがみこむと、サンジは大きく息を吐いてまた俯いた。
「…なんであんた、ずぶ濡れなの」
 呆けた顔で問いに問いで返され、一瞬変な顔をしたが、ゾロは優しくナミの頭を撫でた。
「潜って、魚獲ってた。飯が足りねぇっていうんで…」
 え、と思ってナミはサンジを振り返った。いつもは綺麗に整えられている、金の髪はぐしゃぐしゃだ。それがまた哀れを
誘って、ナミはゾロにされたようにそっとサンジの頭を撫でた。
「…サンジ君が腑抜けになったかと思って、びっくりしたのよ」
 ぽつん、とナミが呟くと、サンジが弾かれた様に顔を上げた。目が真ん丸くなっている。しかしそれは直に苦笑に変わ
った。
「ごめんね、ナミさん。驚かせて」
 疲れたように笑って、サンジは額にかかっていた髪を除けると立ち上がった。
「ゾロ、獲物は?」
「でかいから、外に置いてある。持ってくるか?」
「いや、外で切り出す。おいっ用意しろ」
「へ、へいっ」
 突然呪縛から逃れたように、我先にと厨房を飛び出して行くコックたちを見送ってから、サンジはようやく肩の力を抜
いて煙草を取り出した。
「食事まではもう少しかかるけど、いいかな?」
「構わないわ。もう口出し、しないから」
 ごめんね、とナミは謝罪のキスを頬に落としてから外へ出た。甲板では既に、生のまま食べようとする船長と、それを
阻止するコックとの乱闘騒ぎが始まっていたが、ラウンジにいるよりはよほど微笑ましいと、強張っていた体を解いて、
ナミは安堵の息を吐いた。 








○o。.○o。.○o。.








 ラウンジを出て行ったナミの背中を見送ると、サンジはタオルを取り出し、ゾロに放った。
「悪りぃな」
 厨房に切り身が届くまでは、まだ当分かかる。サンジは厨房からラウンジへ出ると、どすんと椅子に腰掛けた。
「で、いったい何だったんだ」
「いや…」
 はっとしてサンジは目を上げる。水滴が跳ねない様にか、少し離れて頭を拭いていたゾロと目が合った。
「いや、まあ、お互い早とちりというか、なんというか」
 もごもごと、言いづらそうなサンジに興を引かれたのか、そのまま着替えに行くつもりだった足を止め、ゾロはサンジ
に近づいた。その目がありありと答えを求めているので、サンジは眉を八の字に落とした。そしてそのまま頭を下げる。
「すまん!」
「あ?」
「指輪!」
 なくしちまった、と最後はほとんど聞き取れなかった。何の事かと一瞬鈍感にも考えてから、ああ、指輪か、と合点し
た。
「それでなんで、ナミが変な顔してたんだ」
「探し回ってたら、怒られた」
「なんだ、そりゃ」
 項垂れたサンジの髪は、相変わらずめちゃくちゃだ。良く見れば、コックコートの膝の辺りが汚れている。汚い格好で
厨房に入った船員を蹴り出して、三日間昏倒させたのは最近の話だ。それがこの有様でいれば、どんな状況であった
か想像はついた。
「飯作らねぇで、探し回ってるとでも思われたのか?」
「そう、みたいだ」
 思い切り蹴られた鳩尾辺りを撫でると、鈍い痛みが腰の辺りに走った。流石に体が浮くくらいに蹴られれば、これくら
いの痛みは残る。サンジの所作に覚えがあるのか、ゾロは痛そうな顔をした。
「なんか、絶妙なタイミングだったからさ、なんとなく焦っちまった」
 はは、と呆けたように笑って、サンジはゾロの手を取った。
「絶対見つけるからさ。ごめんな」
 ごめん。と繰り返す後頭部はしゅんとしてまた哀れだ。片手は預けたまま、もう片方の手で頭を撫でつけた。
「ああ」
 気にするなと言っても、探さなくてもいいと言っても、どちらにしろサンジは傷つくような気がして、ゾロは短く頷くに留め
た。サンジは顔を上げると、嬉しそうに笑って、ゾロの左手薬指にくちづけた。
「魚くらい、どって事ねぇぞ」
「ああ」
「体に縄だって巻いてたし」
「うん」
「そりゃあ、ちっと暗かったが、ウソップがナントカ照明機で海面照らしてたし」
「知ってる」
「…ハゲるぞ、お前」
 考えすぎだ、と頭を小突けば、うるせぇばか心配なんだよ、と逆切れしたあと、サンジはふにゃっと笑って抱きついた。








○o。.○o。.○o。.








「まあ、あれよね。私もちょっと怖かったのかも」
「有り得ねぇ話しでもないしな」
「でも流石に落ち込むわ」
「いーんでねーの。何事もなかったわけだし」
 先程まで大活躍だった照明機を片付けるウソップに付いて回りながら、ナミの眉間からはなかなか皺が取れない。不
細工だと面白半分にからかっても生返事だ。ウソップはやれやれと発電機のコンセントを抜きながら、レンチで肩をトン
トン叩いた。
「サンジ君って、ゾロに関する事となると少し怖い」
 木箱の上に座って、足をぶらぶら揺すっている様子は幼い。拗ねているのかと思ったが、それとも違うような気もし
た。
「…あんなもんじゃねぇのか。サンジは」
「そうかしら」
 どうかしら、とふざけて返しながら、ナミの戸惑いが分からぬウソップでもない。
 確かにここ数年のサンジは落ち着き、浮ついた声を上げたり、馬鹿にしているのかと思えるような、美辞麗句は吐か
なくなった。面差しが変わり、見た目は落ち着いて見えるし、情緒面ではひどく穏やかだった。それがウソップには表面
的で、うそ臭く思えたものだが、それに慣れてしまった方としては、今のサンジは少々異質であったかもしれない。特に
ゾロに関しては、常軌を逸脱している風にも見える。しかしウソップにはただ、サンジが一生懸命であろう事が分るか
ら、おかしいとは思わないのだ。しかしナミの戸惑いも良く分かる。料理に関しては、誰よりも真摯な姿勢と空島よりも
高いプライドを持っている事さえ忘れるくらいに、ナミは時々顔を出すサンジの懸命さに及び腰だ。
「何がそんなに、おっかねぇんだ」
 古く長い付き合いと言っても、相手の全てを把握するには、一生あっても足りないものだ。ウソップとてナミが困惑する
本当の意味は良く分からない。
「恋って、ああいうものなのかしら。盲目とはよく言うけど」
「…お前、熱でもあるんじゃねぇのか」
 どうやらナミの焦点はサンジではなく、サンジの行動にあるらしい。もっと詳しいところでは、その行動原理にあるのだ
った。
「ないわよ。失礼ね。そうじゃなくて、誰でもああなるもの?それともサンジ君は特別なの?もし同じ立場になったら、私
も同じ事をするのかしら。ねえ、どう思う?」
 一気に吐き出してから、ナミはふうと肩を落とした。まさに肩の荷が降りた、という感じだ。ずっとそんな事を気にして
いたのかと思うと、気の毒に思うと同時に、吹き出したいような気もした。
「そんなのは、ゾロを見てれば分かるだろーよ」
「ゾロ?」
「あいつがサンジと同じ行動とってるか?」
「…とってない」
「つまりそういう事だろう」
 自分で言っておいてなんだが、想像してウソップはぞっとした。サンジと同じような行動をするゾロ。背筋が凍るとはこ
の事だ。なんとも馬鹿らしい想像だが、ナミは至って本気なのか、真剣な顔で何事かうんうんと唸っている。その横顔を
ため息混じりに眺めてレンチを置いた。
「別にお前だって、おかしくなってないし」
「え、ええっ?な、何が?」
 首よもげよ、という勢いで、振り返ったナミの顔は真っ赤だ。これでもまだ隠しおおせるつもりかと思うと、ウソップは人
の悪い笑いを浮かべた。
「なんでもなーい」
「ちょ、ちょっと、待ちなさいよッ」
 勝手に出て行ってしまうウソップを慌てて追いかける。しかし何処吹く風のウソップは、さっさと甲板に集まる解体ショ
ウの見物に紛れてしまった。
「もうッ、ちょっとウソップ!」
 何しろ体格のいい男どもの集まりだ。割り込む隙間もなく、入って行く気にもならないナミは、確実に捕まる場所で持
久戦だわ、とスカートを翻した。









○o。.○o。.○o。.おしまい。○o。.○o。.○o。.







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