(同人誌「ヒミツのやくそく」より)







調子はずれの愛を唄って





 まったく予想外の行動をとられ、サンジはぽかんとしてまるで馬鹿だ。だがそれも当然で、ゾロはしばしじっと固まる
と、ゆるゆると体を翻し、あっという間に背中を見せて脱兎したのだ。
 驚いた。あのゾロが、背中を見せて敵前逃亡だ。
 色々考えなくも無かったが、サンジはとにかく驚いて、雲行きが怪しくなり風が強まって波が船首を舐め、全身ずぶ濡
れになった頭をナミに殴られ、初めて正気に返る有様だった。

 好きだ、とサンジはゾロに言った。

 もちろん、勢いだけで言ったわけではない。
 何日も悩んだし、言い訳を考えたし、自分の事を否定もしたし、身勝手にゾロの事を否定したりもした。それでも結
局、最後に行き着くのは単純な気持ち一つで、堂々巡りの夜は何夜も続いた。しかしそう長い間悩んでいられるほど、
サンジの気は決して長くなかった。最終的には幾分投げやりになり、そうして認めてしまえば端から端まで、一から十ま
で、ゾロの事が愛しいばかりだ。それでも流石にこの事は一生の秘密だ、墓まで持って行ってやる、と思っていたのだ
が。
 そんな殊勝な気持ちは、やっぱり気の長くないサンジには無理な話だった。
 好きな気持ちのどこが悪い。殺したいとか憎いとか、それならば仲間として問題だが、愛しいと思う気持ちのどこが悪
い。
 早くいえばただの開き直り、あるいは強がりでサンジはゾロを上手い事船首に連れ出した。酒があれば造作も無かっ
た。

「お前に惚れてる」
 
 好きだ、と言っても突っ立ったまま反応の無いゾロに、言い方が悪かったかと言い直したサンジだったが、しかしやは
りゾロは動かない。特に驚いた風もなければ、だからといって無関心の風でもない。
 だがとにかく、ゾロは呼吸も怪しいくらいに動かなかった。
「ゾロ?」
 しばらく経っても動かないゾロを流石に訝って、サンジは一歩ゾロに近づいた。そこでようやく、ゾロはピクリと動いた。
だがほっとしたのもつかの間、ゾロは何事も無かったかのようにゆっくりと体を反転させ、完全にサンジに背中を向けた
途端に駿馬のごとく逃げ出したのだ。

「ゾロ!?」

 引き止める間もなかった。あっという間にゾロは中央甲板にひらりと身を翻し、瞬く間に男部屋に飛び込んだ。
 その間、ほんの数秒だ。
 サンジはとにかくあっけに取られるばかりで、まともな考えも浮かばない。たとえば笑われるとか、馬鹿にされるとか罵
られるとか、否定されるとか。あとは殴られるとか切られるとか、色々考えた。考える時間は十分にあったし、どちらか
といえば妄想癖のあるサンジは、あわよくば、とありえない想像までしたものだ。
 だがこれは、流石に想像していなかった。

 サンジはぐっしょりと雨を含んだ髪から、水気を吸い取りながら俯いた。
 逃げられた。なんの答えも返さず、あのゾロが。相手に背中を見せ、脱兎の如く逃げたのだ。
 その事実はサンジを大層傷つけた。
 体に張り付いた服を、一枚一枚剥がして風呂桶の縁に掛けていく。服の端から水が流れて、排水溝へ小さな川を作
った。水の溜まってしまった靴をひっくり返して水をきりながら、サンジは鏡の中の瀕死の男を軽く鼻で笑って、落ち込
んだ。
 強い風も雨も、足早に去った雲と一緒に瞬く間に後方へ流れ、サンジが着替えて扉をくぐると、甲板は雨粒が差し込
んだ陽光を受けてキラキラと眩いばかりだ。だがそれもサンジの心を浮き立たせるには至らず、ただじっと、マストの根
元にある男部屋の跳ね上扉を睨んだ。
 先ほどまでの強い雨では、あの扉は開かれなかったろう。あの中にゾロはいる。分かってはいたがサンジは足を踏み
出せず、その場で佇んだ。
 また逃げられたら、どうしよう。
 信じられない怯えがサンジの足を引き止めていた。
 嫌われたんかな。
 ぽつんと浮かんだ考えに、サンジは突然目の奥がじわじわとした。
 あんな事を突然言って、きっとゾロも驚いたのだ。驚いて、たとえば、気持ち悪いとか思って、それで我を忘れて逃げ
たのかも知れない。
 自分の考えがどんどん真実であるような気がして、サンジはますます目の奥がじわじわとしてくる。裸足の足に濡れた
甲板は湿って気持ち悪かったが、そんな風にゾロも思ったのかも知れないと想像し、何もかもやる気が失せた。この
先、一歩歩くのさえも億劫だった。
「そこに立っていたら、出られないわ」
「あ、ロビンちゃん」
 後ろから声をかけられ、だが散漫にサンジは振り返った。常とは違う反応に、ロビンの眉が少し上がる。いつもならご
めんよろびんちゃんああ君の道を妨げるなんて僕はなんてつみ作りだ、とか言いそうなものだがそれがない。ただのろ
のろとサンジは脇に寄って壁にもたれた。
「どうしたの?具合でも悪いのかしら」
「いえ…なんでも。何でもないから大丈夫だよ」
 片手にぐちゃぐちゃになった服をぶら下げ、上半身裸でサンジはいた。それだって女の前に出る格好ではない。どう
やら何かに気を取られているらしいと気づいて、ロビンはそう、とだけ言ってサンジの額に手を当てた。
「ロビンちゃん?」
 突然の接触に驚いたサンジだが、後ろに下がろうにも壁が邪魔でそれ以上無理だ。ロビンは黙ってそのままサンジ
の頬に手を滑らせた。
「別に熱は…」
 びくんと、サンジの体が揺れた。ロビンと向き合えずに、無意識に逃げた視線が捉えた跳ね上げの扉の下に、信じら
れないものを見た。
細く細く開けられた隙間から、ゾロが目だけ覗かせていたのだ。
「ゾ…ッ」
 しかしそれは直ぐにパタンと静かに閉じた。見間違いだったろうか目を擦る。だが自分がその様な見間違いをするわ
けがないとサンジは心底焦った。
「どうかした?」
「い、いえ、なんでも…」
 いつの間にか離れて立つロビンが、サンジの視線を追って男部屋の方を見たが、そこには水を含んで光を反射する
甲板があるばかりだ。しかしあまりにもサンジが凝視するものだから、ロビンも興味を覚えたのかそう、と頷き指で自分
の頬を撫でた。
「…剣士さんかしら」
「え、え?」
 ぎょっとして視線を戻すと、ロビンはまだ男部屋の入口を見ている。サンジは余計に焦って言葉を継いだ。
「ロ、ロビンちゃん、お茶でも煎れようか?何がいい?」
「そうね、今日は緑茶がいいわ」
 そうして意味深に笑うロビンに、サンジはははは、と乾いた笑いを漏らした。
 本当に女性は素晴らしくも恐ろしいものだ、と。
 だが結局全てが杞憂だと分かったのは夕飯になってからだ。ゾロはいつものように皆より少し出遅れてラウンジに眠
そうな顔で現れて、いつものように飯を詰め込み、いつものように酒瓶を一本くすねて出て行った。
 何の事はない。いつも通りだ。
 安堵が半分、だが半分はやはり落ち込んだサンジであったが、ゾロの背中を扉が隠すとすぐに、ナミがふうんと鼻を
鳴らした。
「どうしたの、ゾロ。なんかあった?」
 幸いそれはサンジに対する問いではなかった。ウソップが不思議そうな顔でルフィを見ると、さあ、俺は知らねぇと言
ってそれきり話題は途絶えた。
 サンジはいったい今のどこら辺がおかしかったのだろうかと考えて、その夜はよく眠れなかった。






「ゾロ。話があんだけど」
「……」
 目の下にくっきりと隈を作ったサンジに、ゾロは一瞬ぎょっとしたようだった。だがサンジの言葉に顔を硬くする。ともす
れば怒っているように見えたが、どちらかといえば戸惑っているのだろう。
 やはりサンジは、気の長い男ではなかった。散々寝ずに考えた結果、ただ黙って返事を待つのはやりきれないと決着
がついた。ゾロとしてはおそらく避けたい話題だろう。出来ればこのままなかった事にしてしまいたいと思っているかもし
れない。あまり歓迎すべき事ではないと思っているのは、その場で脱兎した事からも伺える。ならば蒸し返さず、はっき
りと嫌われるくらいなら、以前のように仲間の一人でいた方がいいのかもしれないと思ったりした。だがサンジは気が長
くない。惚れた相手を目の前にして、なんのアプローチもせずにはいられないのだ。そうなれば今度は、サンジの行過
ぎた行動にゾロがキレて、斬られる可能性もなくはない。甘んじて受けたいところだが、サンジも色々未来設計がある
のでそうもいってはいられないのだ。もちろん、その未来設計図の中にゾロも入っているわけだが。
 促して、始まりの甲板へ連れ出す。ゾロは黙って後に続いた。サンジは未だ嘗てなく緊張していた。
「サンジ」
 前甲板に二人が上りきったところだった。中央甲板では年少組がきゃあきゃあと騒ぐ中、その声は驚くほどよく通って
ぎょっとして振り返った。
「お前…俺の名前、知ってたのか」
 びっくりするサンジに、ゾロは気まずげに何度か瞬き、あたりまえだ、と呟いた。
「そうか…」
 なんとなくほわんとしてサンジはゾロを見ていたが、そうだ、そうではなかったと気を取り直した。
「昨日の話、してもいいか」
 ごくりと息を飲んで、サンジは切り出した。仁王立ちした足が震えそうだ。真っ直ぐにゾロの顔を見るのが怖い。でも絶
対に目を逸らしたりしなかった。そんな人間の言葉を、ゾロが信じるわけがないと知っているから。
「……ああ」
 ゾロも今度は逃げたりしなかった。真っ直ぐに見据えるサンジの視線からも。そこに受け止める意思を見て、サンジ
は大きく息を吸った。
「俺は!ゾロが!好きだ!!」
 一語一語区切った言葉は、船中に響き渡った。目の前ではゾロが目を見開いて固まっている。きゃあきゃあと騒がし
い声はぴたりと止まった。
「お前に惚れてる!悪いか!」
 膝はがくがくと震えるし、声は裏返るしまったくどうにも様にならない有様だった。逆ギレに近いサンジの怒鳴り声に、
ラウンジからナミとロビンが飛び出してくる。いつの間にか全員がこちらに注視している中、サンジははあはあと息を切
らした。
「ゾロ」
 何とか呼吸を落ち着けて、呆然とするゾロの名を呼んだ。囁くような声に、ゾロの肩が跳ね上がる。明らかにたじろい
だ。
「返事、聞かせてもらえるか?…ゾロ」
 自分でもびっくりするほど、か細い声だ。女を口説く時とはまったく違う、少し情けないような声だ。なんて見苦しいと顔
が少しばかり熱くなる。どん、と後ろに下がったゾロが柵にぶつかった。だが視線をサンジに捕られて逸らさない。え、と
思って手を伸ばしかけたその先で、突然、ゾロの顔が火を噴いた。
「ゾ、ゾロ?」
 その顔を隠すようにゆっくりと手が上がり、口元を覆ったその手はわなわなと震えている。驚いて手が止まったサンジ
から、ゾロはようやくといった感じで目を逸らした。
「は、恥ずかしい事、でかい声で言ってんじゃねぇよ。クソコックが…」
 まるで力ない罵りだった。語尾などは震えて擦れている。頭にくるどころか反論もできず、ただサンジは呆然とした。
 それもまた、予想外の反応だった。
 ゾロは何度か大げさに呼吸し、しぱしぱと目を瞬いた。寄りかかった柵を持つ手がやはり細かに震えている。何か酷
い仕打ちをしているような気になって、サンジはどうしてよいのか今更ながらオロオロした。
 罵られるかもとは思った。殴られたり、蹴られたりもあるだろう。抜刀もありえない事ではない。実際今だって、言葉の
上では罵られいるではないか。
 でも、こんな風では、言葉通りに受け取れない。

 なあ、俺、自分の良いように期待しちまうよ。

 サンジは一歩踏み出し、中途半端に止まっていた手を伸ばした。距離にすれば二歩。でもサンジにとっては途轍もな
く遠く、また覚悟のいる距離だった。
 もう一歩。
「恥ずかしくたっていい。だってお前が好きなんだ」
 両腕を精一杯伸ばしてゾロを抱きしめた。触れた途端、ゾロの体がびくりと揺れる。本当は怖かったけれども、怯まず
ぎゅうっと腕に力を込めた。
「好きなんだよ」
 ゾロの肩口に顔を埋めて呟いた。暖かいゾロの匂いがする。こんな風にゾロに触れたのは初めてだ。今にも心臓が
止まりそうなほど興奮しているのに、頭は奇妙に静かだった。
「俺は…俺は。よく分かんねぇ」
 ゾロの手は、助けを求めるように柵を強く掴んだまま、もう片方はぶらんと投げ出されている。サンジを突き放しはし
ないが、許してもいない素振りでゾロはそう言った。
「お前が言う好きだとか…そういうのが」
「じゃあ、嫌か。俺にそう言われるのが」
 気持ち悪いか?でもそれならお前はきっと、触れさせもしないだろう。だからきっと仲間ではいられるとは思う。例えば
腕を解き、体を離してうまく取り繕えば。でもそれでは嫌なのだ。ただの仲間では嫌なのだ。
「軽口でそう言われるのは…嫌だ」
 え、と思ってサンジは顔を上げた。
 じゃあ、軽口じゃなければいいの。でも、それの方がきっと、何倍も面倒なのに。
「言っていいの。本気で、ゾロが好きだって、言ってもいいの。そんな事言うなら、遠慮とかしねぇよ。後からウザいとか
言っても遅いんだぞ」
 両肩を掴んで顔を覗き込む。ゾロはいつの間にか真顔になって、既に赤くはなくなっていた。
「本気ならしょうがねぇ」
「ゾロ、大好き!」
「でかい声で言うな!」
 抱きついたサンジの頭を、ゾロは思い切り張り倒した。その顔がまた真っ赤になっているので、サンジはようやく分か
ったのだった。

 ああ、あの時も恥ずかしくて逃げたのか。

 恥ずかしくてどうしようもなくて、余裕もなくて逃げたのか。
 サンジは思わず噴出して、その場で蹲ってげらげら笑い出した。
 なんて、なんて可愛いやつだ。こんなに好きにさせておいて、それでもまだ足りないなんて。
 困惑してこちらを見下ろすゾロの足を掴んで、サンジは精一杯の気持ちを込めて、もう一度「好きだよ」と微笑んだ。
そうして驚いて固まったゾロに、立ち上がってキスをした。












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