(同人誌「ヒミツの約束」より)







ヒミツのやくそく








 落ち着かないのは気のせいではないと思う。

 ナミはのびっとチェアの上で背筋を伸ばし、んんん、と軽く唸った。夜半から降りだしていた雨は、朝方に止んで、今は
綺麗に晴れている。スカンと抜けた青空に、太陽がきらきらとして目が忙しい。読みかけの本に栞を挟み、ふうと大きな
息を吐いた。
 昼前の太陽はそれほど強くなく、また適度な追い風はべったりとした湿気を追い退けてさらりと肌に心地よい。満腹に
眠気が呼ばれてこのまま眠ってしまいそうだ。だがどうにも気になる事があり、ナミは知らぬふりをしながらそちらに目
をやった。
 ラウンジ直下の扉の前で、サンジは椅子に座って野菜の皮を剥いている。その手際は相変わらず見事なもので、剥
いているというよりも、ただ野菜にナイフを当てているようにしか見えない。それなのにするすると皮は既にうず高く積み
あがっていた。鼻歌など挟みながら進む作業はいつも通りなのだが、それ一つとってもどうもいつもと違う気がする。あ
くまで推測で何がどう、といった事はないのだが、ただどことなくサンジの一連の行動には、どうも落ち着きが足りなの
だ。ここ最近、何度か強い嵐に見舞われたが上手く切り抜けているし、前の島での補給も十分だったお陰で食料の心
配も今のところ皆無だ。それにサンジのそわそわは、そういったものではなく、どちらかといえば……浮かれているの
だ。多分。だがやはり原因は思いつかない。もしかしたら些細で小さな事なのかもしれないが、普段は案外そういったさ
り気無い感情の変化を見せないサンジだから、どうも気になってしかたがないナミであった。
「ねぇ、ウソップ。どう思う?」
 同じパラソルの下で日陰に浴しながら細かな道具で遊んでいたウソップは、顔も上げずに何が、と聞く。ナミの目は相
変わらずサンジを追っていた。
「サンジ君が浮かれてるわ」
「アイツはいつも浮かれているだろ」
 まあ、それはそうだけど。ちょっと押し黙ったナミだが、すぐに反論する。
「そうじゃなくて、無意識なのよね。なんかふわふわしてるわよ」
「…いつもふわふわしてるじゃねぇの」
 もう、と言ってナミはウソップの頭を軽く叩く。ウソップはようやく顔を上げた。
「なんかいい事あったんじゃねぇの。おりゃ知らねー」
「…知ってるのね」
 チラとサンジを見て視線を戻したウソップに、ナミは鋭く切り込んだ。これでは知っていると言っているようなものだ。
惚けるなんて随分じゃない。ぷりぷり言い募ればウソップは面倒事を、といった風にため息を吐いた。
「ゾロに聞けばいいじゃねぇの」
「ゾロ?なんでゾロ?」
「だから、知らねーって」
「…ムカつくわ」
 どうしたって自分の口からは言う気がないらしいウソップに、ナミは頬を膨らませるが、やはりウソップは言う気がない
らしく、それきり口を噤んでしまった。こんな風に時々、男どもは妙に口が堅くてそれがナミは気に入らない。仲間はず
れにされた気分で、悔しいのだ。
 なによ、私ばっかり。
 正確に言えばチョッパーやルフィ、ロビンも知らない点ではナミと同列だったが、日頃からやけに結束の強いサンジ、
ゾロ、ウソップの三人だ。時々ごしょごしょと内緒事を話している。大概はナミが聞かない方がいい話らしいが、こんなと
ころまで秘密主義なの、と気にいらない。
「もうっ。絶対吐かせてやるわっ」
 いきり立つナミに、ほどほどにな、とウソップの合いの手が上の空で付け足された。





「なんだ」
「べーつーにー」
 鍛錬しているゾロにナミが近づくのは本当に稀な事だ。普段は暑苦しいだの、危ないだのと言って絶対に傍に寄らな
い。それなのに今日に限って近くの階段に座って見物しているナミを、ゾロは大層不思議そうだ。だがその程度の問い
かけで、後は好きにさせている。感心がないというよりは、他人の行動に干渉する気がないのだ。したいなら、すればい
い、というのがゾロの基本方針らしい。
 そんなわけでナミはありがたく好きにさせてもらっている。
 ぎし、ぎし、と床板を撓らせながらゾロは錘を振っている。その度に反復する筋肉の動きに、自ら戦う力を持つ体を
時々羨ましいと思う。男になりたいとは思わないが、そうあるべきだと思う事はある。
 でも、私には私の戦い方があるわ。
 羨んでばかりいても何も始まらない。それにゾロの場合は普通の男と比べても、その力が格別である事は分かってい
る。大体、あんな筋肉質にはなりたくないわ、とナミはふんっとした。
「ねぇ、ゾロ。聞いてもいい?」
「なんだ」
 ゾロは意外な事に錘を降ろして振り返った。普段は話しかけても嫌がらないが、鍛錬は続行される。珍しいナミの行
動に、少しは感じるところがあったのだろうか。どちらにしても都合がいいとナミは頬杖をついた。
「サンジ君と、どうしたの?」
 ウソップの言葉から、どうやらゾロとの間に何あったということは安易に想像がついた。ならば多少の鎌をかければゾ
ロは落ちる。それからはったり。ナミの得意分野だ。
「ど、うしたって?」
 案の定、ゾロの目が即座に泳いだ。右手が忙しなく鉄の棒を撫でている。自分を落ち着かせるために多動になってい
るのは明らかだ。ナミは方向性が間違っていない事ににんまりと内心微笑んだ。
「それくらいの事、分かるわ。サンジ君なんか分かりやすいし」
 焦点を曖昧にしてそっぽを向く。横目ではゾロを細かに観察した。
 途端に落ち着かなくなったゾロは、今度はじっと床板を睨んでいる。ナミの言動を判断しかねているのかもしれない。
ここは忍耐比べとナミも押し黙った。言葉は少ない方が憶測を生む。沈黙はプレッシャーを。思惑通り、沈黙にゾロが
追い詰められているのが分かる。ここまで分かりやすいゾロは珍しいので、その観察もかねてナミはじっとゾロを眺め
た。
「別に…隠すつもりじゃ…」
 語尾が弱々しく海風にさらわれる。俯いた顔は何故か寂しげだ。やにわに動揺し、びっくりして腰を浮かした。
「あ、えーと、別に無理には…」
 やだ、何言ってるの私。だが口は勝手に否定した。驚いた。ゾロの口から聞く事を無意識に避けている。ふざけ半分
の推測が、突然現実味を増してたじろいだ。
「あ、あ、そうだ。サンジ君に聞くからいいわ。じゃあねっ」
 不自然に焦ってナミはそそくさと背を向けた。ゾロが不安そうな顔でこちらを見ているが、小走りで立ち去った。
 びっくりしたわ。何、あの顔。ゾロが。
 一人でどきどきしながら、ナミはラウンジの横を通って中央甲板への階段を足早に降りた。
「ナミさん?どうしたの?」
 ばたばたと忙しない様子が気になったらしい。ジャガイモから顔を上げたサンジは不思議そうだ。その間も皮を剥く手
は止まらない。まったくプロだった。
「あー…ゾロが…」
「ゾロ?ゾロがどうかしたの」
 手が止まった。なんだかナミは顔に血が昇った。多分赤くなっている。どうしよう。
 私、分かっちゃったわ。ウソップ。
「えーと、なんでもないの。邪魔しちゃって、ごめんなさい」
「あ、ナミさん?」
 たたっと、前甲板への階段を上ってしまったナミを、サンジは引きとめようとしたが振り切った。
 どうしよう。どうしよう。
 どうしようなんて思いながら、なんだか顔がにやけてしまう。顔は赤いままだったがどうでもいい気分だった。
「よう。どうだった」
 ウソップは先程と変わらない場所で、ますます自分の領土を広げていた。強くない風に僅かに開いた布の端がはたは
たと揺れている。初めてそこでウソップの目が面白そうに撓んでいるのに気がついた。
「っそんな事、聞けるわけないじゃない!」
「なんだ、聞いたのか」
「…聞いてないわよ」
 ぎゅっと唇を噛んで顔を真っ赤にしたナミを、ウソップはふふんと笑った。
「いつから?」
「さあ、そこまでは」
 今度は本当に知らないらしい。じゃあいつから知っているのと問えば、昨日の夜に、と返った。
「どっちから聞いたの?」
「サンジ。浮かれて飲みすぎたんだろ」
 細かには言わないが、うんざりとした口調は余程すごかったのだろうと予想はついた。サンジは限度を超えると少々
癖が悪いのだ。
「なんだか…そう…ふーん…」
 つかつかと歩んでチェアにドスンと腰を降ろす。ぐらぐらとチェアが揺れてぎしぎししたがそれどころではない。粗雑な
仕草にウソップがおい、椅子壊すなよ、と呟いた。
「失礼ね。そんなに重くないわ」
 いつもならその五倍は返ってきそうな報復も、今はどうも上の空だ。しかたがない。知ったばかりの現実に気を奪わ
れていた。
「知らないふりしてた方が親切?私」
「別に。特に触れなければいいんじゃねぇの?」
「…それも、つまらないわね」
「おい」
 結局それかよ、と言うウソップは放って置いて、どうしたものかと思案した。
 びっくりしたが、何故か納得してしまった。ゾロはどうか分からないが、特にサンジは女好きだというのに、なんだかあ
あ、そうなんだ、と思ってしまったのだ。第一、今の浮かれ方を見ると冗談とは思えない。自分では一生懸命、努めて普
通を装っているが、無駄な努力に終わっている。そもそも秘密にしている時点で信憑性は格段に上がっている。チラリ
と視線を走らせると、ばっちりサンジと目が合った。うっと思わず顎を引く。一瞬置いて笑顔で手を振ると、サンジも手を
振り返した。…明らかに引きつった笑顔で。
「わー…。本当なのね」
 なんだか感慨深いナミだった。特にゾロはそういった感情から縁遠い様な気がしていたが、そうでもなかったのか。そ
れもこの相手を選ぶとは。なんだか複雑な心境でチェアに寝転がる。パラソルの向こうは相変わらずの晴天だ。甲板
はいつの間にか乾いて、枯れた木の匂いがする。それを吸い込み、ナミは目を閉じた。隣ではウソップが小さな金属音
をさせている。緩いリズムは眠りを誘った。
「まあ、嫌わないでやってくれ」
 機能停止寸前の頭に、ウソップの小さな声が届いた。





 枕元に水が欲しいと、深夜近くになってナミはムクリと起き出した。
 結局夕食時も平素と変わらぬ二人であった。ちょっと期待していただけにナミはがっかりした。何を期待していたのか
と聞かれると困るのだが、何か変化があるのかもと思ったのだ。だがいつもとなんら変わりなく、交わす会話にも特筆
すべき点はどこにもなかった。変わるための要素に乏しいのかも知れない。それとも努めてそうしているのか。
 二人の事を知っても、あまり動揺しない自分に少なからず驚いた。きっと本当ならもっと、驚いてもいいところじゃない
かしら。でもいくら考えても湧いてくるのはちょっとした感動とか、感激とかそういったものばかりだ。心のどこかでは何
故か「やっぱりね」なんて意見まで出てくる。推測にしても思いつかない割には、案外お似合いだとか、そう思っている
事にも驚いた。
 だってなんか、嬉しいじゃない。いい事だわ。きっと。
 特に、ゾロには。
「あら?」
 女部屋を出て倉庫の扉を開くと、甲板にぼんやりと光が落ちていた。月は白々と明るいがそれではない。ラウンジの
窓から零れたランプだと気づいて見上げると、確かに明かりが灯っていた。
「……」
 寝静まった時刻にラウンジにいる人間は、大変限定されている。ナミもその一人であったが、そう頻繁でもない。後は
レシピをまとめているか、自分なりの研究をしているサンジだけだ。そこへ行くべきかどうか少し迷う。二人きりでは安
易に昼間の件を蒸し返してしまいそうだ。だが夕食の様子を見る限り、まだ他人が触れていい状態ではないような気が
した。人と人との関係は壊れやすい。それが少し怖かった。
 喉の渇きは正直だったが、別段我慢して風呂場で飲んでしまえばいい。そう思って踵を返したナミだったが、戻るため
に扉を開いた背中に突然声がかかって飛び上がった。
「あー…悪ぃ、びっくりしたか」
 ドッコドッコと心臓を飛び跳ねさせながら振り向くと、ゾロが困り顔で頭をかいていた。肩に毛布をかけている。見張り
番だったのだ。失念していた自分に舌打ちし、だが表情からは綺麗に消す。きっと真上から戸惑う姿は見られていたろ
う。
「ほら、行くぞ」
「え…」
 ぐいっと腕を引かれる。すぐにラウンジの事だと分かった。無言のままついて行くと、ゾロはすたすたと階段を上がり、
ラウンジの扉を開く前に、一度だけ、ナミを見たがすぐにまた前を向いてしまった。
 ゾロの意図が読めずに困惑する。こんな時、ゾロは感情の扉をパタンと締めて、まったく向こう側が見えなくなってしま
う。顕著になるのが戦闘中で、動きを読まれないための常套手段なのだろう。それは自分と少し似ているとナミはいつ
も思った。
 そうだ。この船の中で、おそらくナミと一番近い位置にいるのはゾロだ。生立ちよりもその過程に近いものがある。
 大切なものを永遠に失った。ずっと一人だった。目的のために手段を選ばなかった。
 ゾロは一人で戦う事の過酷さと切なさを、実体験として知っている。それは自ら望んだ事だが、それで何かが軽減さ
れるわけではないのだ。逆に望んだからこそ、肩にかかる重みは大きい。だからナミは、時々ゾロがとても自分に対し
て優しい事を知っていた。
 だからこそ、今のゾロの精神状態が、通常の方法では抑えきれないものであると余計に分かる。ゾロはナミに感情の
向きを知られないよう、刀を奮う時の真剣さで扉を閉ざしているのだ。
「ナミさん。眠れないんですか?」
 ゾロに連れられて入って来たナミを、サンジは穏やかに出迎えた。片づけが済んだばかりなのだろうか。シャツの腕
は捲ったまま、椅子に座って一服している。明日の朝も早いだろうにと心配になった。
「まだ起きてるの?寝なくていいの?」
「うん、もう少ししたら」
 いつもうるさいくらいに女に対して言葉を惜しまないサンジだが、例えば二人きりの時や、遅い時間にラウンジで鉢合
わせした時などは、とても穏やかな話し方をする。その方がナミは好きだった。別段わざと使い分けているのではない
のだろうが、夜は少し疲れているからかも知れない。低い声は少しかすれて、眠気を誘うように滑らかだ。そんな事を
言えばまたうるさいので、本人に言った事はないけれども。
「何か飲む?」
「あ、お水でいいの」
「体が冷えて、眠れなくなるよ。ココアでいい?」
「ええ、ありがとう」
 どう致しまして、とサンジは軽く立ち上がってコンロに火をつける。扉から一番近い椅子に座ると、隣にゾロが座った。
「お前は?」
「同じのでいい」
「オーライ」
 え?と思ったが二人とも特に何も言わなかった。ゾロがココア?と不思議に思ったのだ。普段は飲んでいるところを見
た事がない。だが今の様子だと、今夜だけの事ではない様だった。
 それからしばらくは誰も話をしなかった。いつもならサンジがナミを懸命に褒め称えたりするのだが、それもない。ゾロ
は元々場の雰囲気のためには言葉を捜さないので、後は沈黙が残るだけだ。ナミも特に無理をして話さなかった。
 不思議な空間だった。
 いつもなら騒がしく、誰かが出入りしているラウンジに、ただ黙って座っている。ゾロは少し眠いのかぼんやりと船尾に
向かって穿たれた窓を見て、サンジはカップの用意をしている。ナミはそんな二人を観察し、なんともいえない心地よさ
を感じていた。
 話さなくても気まずくない関係って、こんなに落ち着くのね。
 嬉しかった。いつものように皆でわいわいと騒ぐのも好きだけれど、こうしてただ、何も言わずにいるのもいい。それぞ
れが思い思いに頭を巡らし、物思いに耽っている。
 ナミは改めてサンジとゾロを交互に見た。もしかしたら、ずっと、この二人はこんな夜を何度も共にしていたのだろう
か。誰もが寝静まった夜中のラウンジで、二人きりで、何も言わず。ただ一緒にいるだけの夜を。
「はい、ナミさん。お待たせしました」
「わあ、ありがとう。いただきます」
 ハッとするナミの前に、白いカップが静かに置かれた。褐色の上に、小さな塊が浮かんでいる。半分溶けて沈んだマ
シュマロがふわふわと甘い香りの中に揺れていた。サンジは同様にゾロの前にもカップを置き、自分も一つ掴んでナミ
とゾロの正面に座った。
 そしてまた、少し黙ってココアを飲んだ。ゾロは船番で、本当は早く行けと言わなければならなかったけれど、今の空
気があまりにも惜しくてナミは言い出せなかった。
「ねぇ、ナミさん」
 しばらくして、サンジがことんとカップを置いた。そういえば今日は煙草を吹かしていないのだ。今気がついた。
「なに?」
 同じようにカップを置いて、ナミは真っ直ぐサンジを見た。サンジの目は至極穏やかで、やはりそれは明るい陽の下で
見るものとは違っていた。
「俺ね、ゾロが好きなんだ」
 ぴく、とテーブルの上に置かれたゾロの指が、僅かに浮いたのが目の端に映った。だが何も言わず、静かにそのまま
ぎゅっと握られた。
「多分、ナミさんは知ってるよね。俺、ちょっとおかしかったみたいだし。…ゾロに言われたんだけど」
 サンジがチラリとゾロを見て苦笑した。つられてナミもゾロを見ると、ゾロはナミを見返して、ちょっと肩を竦めただけだ
った。
「それで、やっぱりちゃんと言っておきたくて。ナミさんも中途半端に気になってると、嫌だろうし」
「…ゾロもサンジ君が好きなのね?」
 サンジをじっと見つめてから、今度は隣のゾロをじっと見た。ゾロはずっと無表情だ。ナミはその目の中にあるものを
探るように覗き込んだ。ゾロは目を逸らさず、されるままになっている。そうして見つめ合った後、ゾロはゆっくり頷い
た。
「ああ」
「そう」
 今度はゾロが探るような目を見せた。それにナミは、ゆっくりと微笑んだ。
「教えてくれて、ありがとう。…よかったね」
 正面に視線を戻すと、サンジがぼろぼろ泣いている。ナミはびっくりして目をぱちくりした。
「え、サンジ君?大丈夫?」
「だ、大丈夫、大丈夫。ちょっと、…安心して」
 捲くっていた袖を下ろして、ごしごしと目を拭うサンジの手を抑えて、ゾロが黙って腕に巻いていた布を渡した。
「サンキュ」
「こいつ、お前に嫌われると思って、死にそうな顔してやがったぜ」
「うるせぇ。ナミさんに嫌われて、生きてられっかよ」
 にやっと笑ったゾロの足を、サンジが蹴ったらしい。テーブルが僅かに揺れる。ナミはそれに気が緩んで、途端に肩
の力がストンと抜けた。どうやら思ったよりも緊張していたらしい。サンジはズビズビと鼻をならしてしばらく泣いていた。
「ねぇ、聞いてもいい?」
 嗚咽の収まらないサンジをとりあえず放って置いて、ナミは隣でココアをすすっているゾロに問いかける。なんだ、とゾ
ロは首を傾げた。
「私、全然気づかなかったけど、いつからサンジ君の事、好きだったの?」
「ブホッ」
 正面で、少し落ち着こうとココアを口に含みかけたサンジが噴出した。それもやはり放って置いて、じっとゾロを伺う
と、少し気まずいような顔をした。
「…昨日」
「え?」
「昨日くらい」
「え?」
 シンと一瞬ラウンジが冷めたような感じだった。ゾロは別段特別な事を言った風ではない。ただナミの質問にきちんと
答えたのでどちらかといえば誇らしげだ。ナミはしばしあっけに取られ、けれどもそういえば昨日辺りから食事の席でゾ
ロの様子が不自然であった事を思い出した。
 そうか。アレはサンジ君を意識してたんだわ。
 思い当たって、ナミは急に頬が熱くなった。他人事ながらまさに恋心の芽生える瞬間に立ちあったのかと思うと恥ず
かしくなる。その上それはゾロなのだ。ああ、もっときちんと見ておけばよかった。なんて勿体無い事をしたのと舌打ちし
たい気分だった。
 ゾロはすっきりした顔でココアを飲み、サンジはなんだか複雑そうだ。二人を見比べながら、ナミはカップを持って立ち
上がった。
「ナミさん?」
「ご馳走様。ココアは部屋でいただくわ。おやすみなさい」
 どうやら日の浅い恋人たちの邪魔を、これ以上するのはまったく野暮だ。
 ナミは早々に辞去して扉を閉める。背中に二つの「おやすみ」を聞きながら。


 今日はちょっといい気分で眠れそうだった。






 よしよし、とでもいうように頭を撫でられ、口では止めろなどと言いながら顔は満更でもないので、ゾロはしつこく頭を
撫でる。するとやっぱりサンジは嬉しそうなのでほっとした。
 見張りに戻ると言ったゾロに、サンジはラウンジの明かりを吹き消し、後からついてきた。無言のまま見張台までよじ
登る。天辺に着くとゾロが手を出して引っ張った。
「なんかスゲェ、ほっとした」
 ドカリと座ったゾロの横に、サンジは膝を立てて蹲るとゾロが肩にかけていた毛布を引っ張って自分もスルリと入り込
んだ。それを黙って許している。きっと許してもいいはずだった。ゾロには加減が分からないのだ。
 それからサンジはまた、少し泣いていたのでゾロは困って頭を撫でたのだ。それが案外好評なので、ずっとそうしてい
る。
「よかったな」
 ゾロの肩に額をすり寄せていたサンジが、ぴくんとして顔を上げた。目の下が赤い。きっと明日になればもっと赤く腫
れるだろう。それが随分と痛々しいと思い、ゾロは困惑した。
「…ナミさんの事だけじゃねぇよ」
 じっと見上げてくるサンジの目は、少しゾロを責める様だ。何で分かってくれねぇの。そんな風に言っている。けれども
ゾロは分からないから、ただ眉を下げただけだ。
「ナミさんに言うの、許してくれただろ。そんでさ、ちゃんと言ってくれたからさ」
 傾けた顔が、上目遣いでゾロを見る。ああ、なるほどとようやく解したゾロに少し不満そうだ。こういうところは手馴れ
ていると思う。甘え方が上手いのだ。ゾロにはとても真似できない。
「俺の事、好き?」
「…嘘は言わねぇ」
 微妙に逸らした返答に、サンジは口を尖らせちぇっとすねて見せるけれど、十分に嬉しそうだ。その証拠に、毛布の
下では多弁に腕が物語っている。ゾロの背を這い上がり、腕に移って肩を抱き寄せる。夜になって急に下がった気温
の中で、寄り添う体温は溶けるように心地よい。ゾロも自ら体を寄り添わせた。
「お前は隠したがるかな、と思ってたし」
「それはお前だろ」
 心外に思って反論すれば、何で俺が、俺は言いたくて仕方がないよ、と逆に諭されてしまった。
「この女好きが。モテなくなるぞ」
「いいよ。限定一人にモテてれば」
「…言ってろ」
 呆れて肩を竦めるゾロに、サンジはふふ、と細かに笑う。今の状況が嬉のだ。それはちょっと分かる、とゾロも思っ
た。
 こんな風に穏やかに、互いに触れ合う事を許せる存在は稀有だ。ともすれば一瞬後には殺し合いになりかねない世
界で、互いに弱く柔らかな場所を晒し合い、触れる事を許すなど。命を預けているも同じ事。だからこそこうして、他愛も
無い話をしながら、命さえ奪う事の可能な距離を許している。体だけではなく、それは心も同じ事だった。
 そっぽを向いてしまったゾロの頬や耳やそのピアスを揺らし、サンジは触れる事に夢中のようだ。今までこんな距離を
持った事がなかった分、サンジは取り戻そうと傍に寄ればゾロに触れてくる。それは決して性的な意味を持たないの
で、ゾロは払いのける事が出来ない。サンジの手はまさぐるというよりは確かめるようで、切実でどこまでもやさしく愛し
げだった。それが自分勝手な思い込みではないかと少し赤面するゾロだが、間違ってはいないと思うし、やっぱり思い
たい。
「なぁ、次の港に着いたらさ、二人で出かけような」
「どこへ?」
「どこへって…別にどこでも」
「なんだよ、それ」
 むっとしたゾロにサンジはぷりぷりした様子で、ぎゅうっとピアスを引っ張った。
「おい、取れるぞ」
「俺はね、お前と出かけたいの」
「?」
「目的じゃなくて、手段に意味があるっつってんの」
「あ」
「あ。じゃねぇよ」
 ちぇっ、とサンジは拗ねて見せてからチラリとゾロをうかがった。こんなところ、本当にずるい男だ。それでもゾロは苦
笑して分かった、と頷いた。
「約束な」
「ああ」
 指きり、とサンジが差し出す小指に小指を絡めて腕を振る。サンジはとても嬉しそうに笑って、約束、いっこ、と言っ
た。
 その一瞬に見せた表情は、まるで何もかも心得た、達観した男の顔だった。ゾロは少し驚いて、だが何も言わずに笑
い返した。
 ワザとらしく拗ねて見せたり、幼い顔で笑うその奥に、サンジは何もかもを受け入れ飲み込む、広い度量を持ってい
る。志一つとってもあまりにも違う自分たちがこうして寄り添う事が可能なのは、偏にサンジのお陰なのだろうと、悔しく
なくゾロは思う。そういった部分で自分が未熟である事は否定できなかった。
 だからせめて、お前の話す言葉、表情の一つ、笑い声をずっと見ていよう。聞いていよう。同じ土俵に立つにはまだ難
しいから、お前を真似て、精一杯の気持ちを込めて。
 力強く手を振って、約束の印を胸に抱くサンジのそのくちびるに、ゾロは小さくくちづけた。




「約束だ」







 自分だけが知っている、秘密の約束。













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