【 カテゴリー:世界 】
アカシック・レコード(あかしっく・れこーど)

宇宙創生以来、世界終末までのすべての情報が存在するとされる、宇宙的な記憶層のことを指している。アカシャ記録ともいい、サンスクリット語のアカシャ(原物質)からきた言葉である。アカシック・レコードは太陽系の七界を上から数えて3番目のアートマ界に存在するとされる。アートマ界とは言霊(ことだま)の世界であり、ゆえにそこに蓄積されている情報とは、磁気ディスクに記録されたデータとは異なるものなのだ。多くの霊能師がアカシック・レコードにアクセスしていると主張しているが、そのほとんどは、アストラル界の情報をキャッチしているに過ぎない。

アストラル(あすとらる)

人間の感情や欲望を司るエネルギーである。大雑把に言えば、一般に霊体と呼ばれるものとは、このアストラルで出来た体のことと言って良い。アストラルは、個人の欲望や感情によって色彩や形が変化する。他者の気分や、部屋や場所の「雰囲気」を察知するのは、これによるものが大きい。アストラルは、生命だけでなく、物質にも宿る。人の強い感情や念は、アストラルとして場所や物体に記録される

アストラル界(あすとらるかい)

またの名を幽界。アストラル・レベルの次元のこと。物質界とは重なっているが、より広い世界と考えられる。そこは人間の発する感情が、そのまま形となって現れる世界であり、言い換えれば妄想的イメージが支配する世界である。ゆえに地獄のようなおぞましい場所もあれば、逆に天国のように多幸感に溢れた場所も存在するのだ。仏教では色界と呼ばれる。

丑寅(うしとら)(うしとら)

鬼門を指す言葉である。方角を十二支で表した際に、鬼門を示す北東にあるのが「丑」と「寅」であるからだ。また、丑寅は「艮」とも書き、これは八卦のひとつでもある。「艮」の意味するところは「とまって動かない」ことであり、艮下艮上(ごんかごんしょう)とは、陽が上をさえぎり、陰が下にたまって動きのとれない姿を表す。ちなみに、日本人に馴染み深い鬼の姿として描かれる、頭に牛の角がはえ、虎のふんどしをはいているといったものは丑が牛に、寅が虎にと、転じたがゆえに生まれたものだとも言われている。(→鬼門)

エーテル(えーてる)

いわゆる「気」のこと。この宇宙全体に充満しているとも言われ、現代科学では、測定不可能なほど、極めて希薄な物質であるともされる。会話、運動、思考、行為等全ての人間の能力は、この気の力から導かれているとされ、この気という原理は固有の本性によって独立していると言われている。そして、4つの段階に分かれており、それぞれ肉体の固体、液体、気体の基礎をなしているという。近年、このエーテルをプラズマであるとする見解が主流になってきたが、そのためには従来のプラズマという物質の状態の概念を変えねばならないだろう。

エーテル界(えーてるかい)

エーテル・レベルの世界。物質界の原型。物質にエネルギーを供給する役割を持つ世界である。妖精をはじめとするエーテル生物の世界でもある。エーテル界には物質界にある全てのものが、同じ形に存在するといわれ、物質界と相似形で重なり合って存在しているとも考えられている。また、エーテル界の方がはるかに広大だという説もあり、その場合、エーテルの海に物質が浮かんでいる形になる。

お地蔵さま(おじぞうさま)

道端に祀られる、道祖神の一種。旅人、子供、妊婦の守護者であり、地蔵菩薩がより庶民的に変化したものと思われる。仏教説話には、地蔵は賽の河原で子供を守るというものがあり、ここから地蔵は子供を守るもの、また、水子霊を供養するために建てるものが地蔵であるとされた。

隔世の川(かくせのかわ)

この世とあの世を川が隔てているという信仰は、日本だけではない。ケルト神話やギリシア神話の忘却の川など、世界各地に川が黄泉と現世を隔てるものとしての信仰がある。向こう岸に渡ってしまったら、もう生き返ることはできないのだ。また、川のほとりに渡し守がおり、料金を払うことで向こう岸に渡れるという伝承も多い。その料金は絶対であり、多くも少なくもならない。日本では多くは六文銭であり、ギリシアでは銅貨一枚である。渡し守に金を払うという信仰がある地方では、遺体の舌の下などに硬貨などを挟んでおく風習がある

カルマ(かるま)

輪廻転生をする際に来世の環境を決定する為のメカニズム。カルマ(業)とは、未来に報いを引きおこす善悪の行いを指す仏教用語である。「因果応報」という言葉もカルマの概念を元にして生まれた言葉である。「行い」を意味するサンスクリット語が語源だが、仏教が興るよりも2〜300年前にインドで発生した概念であると考えられている。

鬼門(きもん)

東北の方角を指す。鬼門は不吉とされ、鬼門に便所や出入り口を設けることは避けられる。これは鬼門の方角から鬼が侵入するからだとされ、鬼は災厄をもたらすと怖れられたからである。このような、考え方は主に風水から来る家相のみを特化させた観念から来るものだ。陰陽道においては、北の陰(マイナスエネルギー)から東の陽(プラスエネルギー)に転ずる急所とされ、警戒すべき方位であるという。太陽が今まさに昇らんとする陰の極みでありながら、同時に陽の発生を表す鬼門とは、「終わり」と「始まり」の連結の義が生ずる方位であり、それはつまり、万物の発生を司る場所となるのだ。(→丑寅)

極楽(ごくらく)

仏教での極楽は、厳密にいうと天国とは異なる。極楽とは極楽浄土のことで、阿弥陀如来が統べる世界である。天国は天界と同じく、“天”たる神々の世界であり、帝釈天ことインドラを中心とした世界だ。ヒンドゥー教ではさらに多くの神々の天国がある。天界の住人は欲情や怒りに身を任せることがあるが、極楽の住人はそのようなレベルから解脱しており、情念に煩わされることはないのである。ただし、元来仏教には極楽の概念はなく、後の時代になってから付け加えられたものである

金剛界曼荼羅(こんごうかいまんだら)

金剛界といった場合、密教に於いて大日如来を智徳の面から言い表したものであり、堅固な智徳で煩悩を打ち破る教えを意味する。金剛界曼荼羅とは、空海の『金剛頂教』に基づき、金剛界を図示したものである。また、金剛界曼荼羅は、胎蔵界曼荼羅と対になるものであるが、双方を合わせ、両界曼荼羅と呼ぶ。金剛界曼荼羅の構成は、成身会(じょうじんえ)或いは、羯磨会(かつまえ)を中心に、三昧耶会(さんまやえ)などの九会からなっており、九会(くえ)曼荼羅とも呼ばれる。金剛界曼荼羅とは、九つの曼荼羅を一図に集合したものである事を意味している

地獄(じごく)

地獄のルーツはインド思想にあるとされる。昔、死者の国は、眠りの国のように静かなものだったそうだ。あるいは、過酷であってもそれぞれの心にかなった、死者には快適な世界であった。しかし、キリスト教や仏教のような大宗教が、鬼や悪魔を使って大量の血と炎と鉄を運び込ませ、現在一般的に言われるような地獄の概念が出現したのだ。霊界を訪れ、その記録を残したという科学者スェデンボルイは、地獄という言葉は使わず、低次元の霊界といった表現を用いている。また、『チベット死者の書』においては、こうした地獄は死者の魂が自分自身の罪悪感にとらわれることによって生じる「幻覚」であると言い切っている。これら幻覚は真の霊界に達する前の中有といわれる世界で見られるものであるとされる

胎蔵界曼荼羅(たいぞうかいまんだら)

胎蔵界とは、胎児が母体内で育つように、人の持つ菩提心を、仏の大慈悲が育てるという世界を指したものである。そして胎蔵界曼荼羅とは、胎蔵界の思想や教えを図示したものであるが、描かれている思想とは、大日如来の慈悲の光が世界の隅々にまで浸透して行く様子と、様々な方法によって人が悟りへと目覚めてゆく様を示しているとされる。曼荼羅の構成としては、中央に描かれる開花した蓮華部分の事を「中台八葉院」と呼び、これは大日如来を中心に、四仏、それを補佐する四菩薩が描かれている。これは、宝幢、天鼓雷音、阿弥陀、開敷華王の四仏、そして、弥勒、観音、文殊、普賢の四菩薩である。そして、中台八葉院の外側に描かれる多くの菩薩、明王とは、悟りへ至る様々な道を示しているとされる

(つき)

太陽と対をなし、相反する存在である月が象徴するものは、精神であり、ある意味では死の世界である。その他、燃え盛る火や金を表す太陽に反して、月は水や銀を結び付けて考えられる場合が多い。太陽は常に「陽」を象徴し、月は「陰」と結び付けられるものであるがゆえに、太陽には男神が、そして月には女神達が物語られ、月と霊魂もまた、密接な関わりをもって考えられ、描かれるようになるのだ。ラテン語で月はルナであるが、英語ではそれは狂気も意味する。実際に満月の時に精神不安定になる人は多い。月の引力は、直接地球に、潮の干満のように特に水に対して影響を与えるだけでなく、太陽風、つまり太陽の磁気嵐が地球に到達するのにも強く影響を与えている。そのために、多くの動植物が月の運行の影響を受けているとされ、過敏な人間の精神も、同様に影響されるのだという

月と死(つきとし)

月と死を関連付けている文化は数多くある。最終的な安息の地とされるにせよ、生と死の中途世界とされるにせよ、月が死者達の里であるという古代の信仰があるのだ。おそらく、月の永遠に続く生と死のサイクルからの連想、あるいは、あの青白い、かすかな月の光が月と死を結びつけているものかもしれない。日本の月の神、ツクヨミは、漢字で月黄泉とも書き、冥府の王であることを暗示している。ギリシアの冥府の女神ヘカテは、月の暗い側を象徴している。インドの聖典ウパニシャッドでは、月は次の輪廻転生を待つ魂の仮の宿にすぎないとされ、古代ギリシアにおいては、月はこの世から天国へ、またはその逆に移る魂の中継地点であると信じられていた

天界(てんかい)

天界とは神々の世界である。そして死者の魂のたどり着ける、最上の国を意味することもある。その呼び名や見た目は宗教によって異なるが、高度な霊界として共通のものであり、宗教が違っても多くの共通点がある。常に心地よい音楽と香りが漂い、天界の住人の心は喜びに満ちているという光り輝く世界だ。その中心には総てを統べる至高神がおり、ひとつの天界はその神の存在によって成り立っている。天界とその住人が存在するために必要な聖なるエネルギーは至高神から周囲に発せられている。天界に階層が存在するというのも、共通する部分である

天国(てんごく)

天国と天界とは、同じものである。天国というと、死後に善人のみ入る事を許される永遠の楽園とされているが、そこは同時に神の御許でもあるためだ。様々な宗教が天国について描写しているが、見た目に民族性を反映させているものの、本質的には共通した世界を描いている。美しい風景、音楽が流れ、ふくいくたる香りがし、飢えや不安はなく、安らぎが支配し、人々の心は常に喜びで満ちているというものである

ホロスコープ(ほろすこーぷ)

天宮図ともいう。事象の起こる瞬間の天の星々の配置図であり、この中に示されたエネルギーの質量と性質が、この存在の運命を示すと考えられる。人のホロスコープは、その人の出生した瞬間のものを使うわけだ。十二星座宮のどこに惑星(地球を除き、太陽と月を入れた十惑星)があるか、そして各惑星の角度(アスペクト)によって、エネルギーが放出され、天宮図に示された人や国家の運命を動かすのである。天宮図の形式は、アリストテレスの四大(地、水、火、風)を十字形や正方形で示す幾何学的な図式化に端を発するものと推測されている。天宮図上に現れた惑星同士の角度によって吉凶を判断する方法も元来はこうした幾何学的な思想に由来するものといえよう

曼荼羅(まんだら)

ひとつの宇宙を図案化したもの。ヒンドゥー教の宇宙観、神々の相関図から発達したもので本来は梵語の「manda」という本質、中心、神髄、を表す語にlaという成就、所有を意味する後接語を加えたものだ。すなわち、本質のある物の意である。円を中心に描かれるのは、円輪が過不足なく、充実した境地を示すことによる。これを輪円具足という。マンダラは、一個の宇宙である円の中に多くの詳細な要素があり、それらがすべて中心に向かうことで意味を成している。大乗仏教の成立により、曼荼羅は大きく発展し、仏教美術には不可欠の要素となった。また、修行する僧侶はマンダラに向かい合い、これを瞑想の手段に用いる

霊界(れいかい)

人間が死後に行くとされている世界の総称。あの世、黄泉(よみ)の国、来世とも言われる。その描写は世界でもまちまちであるが、そこでは魂が永遠に生き続けるという点で共通している。秘教的には、霊的存在の原形(モナド)の世界である。この場合は、エーテル界、アストラル界といった人間の体の機能の世界を含む場合と、高位メンタル界以上の人間の魂を構成する世界以上の高次世界に限定する場合がある。また、霊界は何段階かの階層に分かれるといい、各階層とも現世であるこの世に非常に似通っているという。木々や岩などの自然物の他、建物や道具などの人工物もあるらしい