【 カテゴリー:宗教 】
悪魔(あくま)

「悪魔」という存在は、常に神々に対峙するものとしてその姿を変えて来た。古くは神も悪魔も超越存在として同じ物であるか、神道の荒魂(あらみたま)のように、神の影の部分を意味した。身近な伝承では、病魔などの邪霊を悪魔とした。ゾロアスター教などの二元論の思想が確立することにより、悪魔は善なる神に対する絶対的な悪として認識された。キリスト教では悪魔もまた神によって作られたものであり、神の中の影なる部分を暗示した。次の段階として、神の指示により人間を試す誘惑者としての地位が与えられた。しかし最終的には二元論に近付いて、悪魔はより力を持つようになり、全ての悪を擬人化した邪悪な存在、絶対的な悪の権化と化したのだ。また、ユダヤ=キリスト=イスラム教の悪魔は、かつて天使であり、神に謀反したため地に落とされた堕天使であるという魅力的な伝承も持つ。

悪魔崇拝(あくますうはい)

悪魔崇拝の多くが、民族的な弾圧を背景に抱えていた。神を独占する支配者に対しての社会的な反発と言う意味が強いのだ。それはより古い宗教の復興という形を取り、やがてそれは支配者の悪魔とが結びつき、明確な悪魔崇拝が生じる。そうした宗教儀礼は、たとえば黒ミサのように支配者の宗教のパロディ的要素、真似つつもそれをおとしめる儀式が執り行われる。そしてその多くが血なまぐさい古代の生贄の儀式を感じさせるものである。現代の悪魔崇拝は、民族的な背景以外は同様な動機、社会への反発から生じており、一概に神への崇拝より現世的な利益をもたらすとされている。しかしそうしたカルトが行ったとされる血も凍るようなおぞましい儀式、獣や幼児の生贄や乱交は、それが行われた証拠が希薄であることがほとんどで、薬物や暗示による幻想、妄想であることが多い

いざなぎ流(いざなぎりゅう)

「いざなぎ流陰陽道」と称し、高知県香美郡物部村に今も存在している民族宗教を奉ずる祈祷師集団。古神道と陰陽道、あるいは朝鮮の呪術とが混在した宗派である。いざなぎ流では、祈祷師のことを太夫と呼び、式神のことは式王子という独自の名で呼んでいる。彼らの役割は呪詛を払うことをはじめとし、狗神や生霊をも使役するといわれる。式王子の霊力には、招いた神霊によって強弱があり、最も強力であるとされているのは、スサノオや五郎の王子と呼ばれるものたちなのだという。その独特な呪法に最近注目されているが、後継者不足に悩んでいる。

磐座(いわくら)

「いわくら」と読む。日本の神道にある信仰であり、神の依りつく石ということである。代表的なものは、大和の大神(おおみわ)神社の巨石群、群馬県赤城山の櫃石、島根県飯石神社の神石など。仏教では、仏や聖人の姿が石に現れたものを影向(ようごう)石と呼び、信仰している。このように、日本では自然石に神性を認め、信仰するという習慣が数多く見られる。

盂蘭盆(うらぼん)

先祖供養のために行う仏教行事。この言葉が略されて、いわゆる「盆」になっている。かつては陰暦7月15日に行われたが、現在では8月の13日から15日にずらして行われる。以降の日付は陰暦に元来は従ったもので今では新暦の日付と混ざってしまい、混乱している。ブッダの十大弟子のひとり、目連の母は悪業のために地獄に落ちたが、目連は神通力で母に会い、ブッダの指示に従い7月15日に供養を行うことによって、母が解脱したという故事から来ているとされる

回向(えこう)

先祖の霊に読経などの供養を行うこと。回向とは本来「廻転(えてん)趣向」の意で、自分の修めた功徳を、目的とすることに差し向けることを指している。これはまた、梵語である「prinama」の意訳であるとされる。その目的とは、自身および他人が悟りに至ることである。

送り火・迎え火(おくりび・むかえび)

お盆には迎え火、送り火の習慣が根強く残っている。地方によって様々だが、胡瓜や茄子で馬を作り、死者の霊を迎える乗り物とし、家の前などで火を焚いて、祖先の霊がその火を目印にして帰って来れる様にするのである。死者の霊を乗せるものは野菜で作った馬だけではなく、提灯などの場合もある。また、送る時は火に乗せて、死者の霊を送り、乗り物なども一緒に燃やす地方もあれば、燃やさない地方もあり、これも様々である。迎え火は、様々な方向性で発達し、門先で藁火を焚くものから、竿灯、大文字焼きなど土地ごとの特色を持つ。また、送り火の代わりに灯篭流しが行われる場合もあり、観光行事化しているものもある

お地蔵さま(おじぞうさま)

道端に祀られる、道祖神の一種。旅人、子供、妊婦の守護者であり、地蔵菩薩がより庶民的に変化したものと思われる。仏教説話には、地蔵は賽の河原で子供を守るというものがあり、ここから地蔵は子供を守るもの、また、水子霊を供養するために建てるものが地蔵であるとされた。

恐山(おそれざん)

日本の霊地として最も有名なものといえる。死者のふるさとであるとされ、西暦862年に慈覚大師が地獄を真似て作らせたと伝えられる霊山、霊場である。山中は硫黄の臭いが鼻をつき、血の池地獄、無間地獄、畜生地獄と呼ばれる場所が続く。そこはいかにも、あの世とこの世とをつなぐ狭間の世界となっているのだ。不気味な伝承も数多く残されているが、恐山の外輪山とは、蓮華八葉、すなわち極楽の展開ともされているのだ。毎年、7月20日からの4日間は恐山の大祭であり、死者達を招霊してもらおうと日本全国から多数の人が訪れている

(おに)

鬼とは、本来化け物や怪物などという言葉と同じくらい、広い超自然的な存在を指す名である。日本では歴史的に以下に記すようなもの達を「鬼」と呼んでいた。日本人は、霊的なものも、そうでないものも、集団生活者が理解しがたい、受け入れがたいものをそう呼んでいる事が判り、差別的な要素もかなり含まれている。・形が無く、恐ろしく感覚的な存在や力、および気配。・怨霊、生霊。・死の国へと導く霊的存在。・無慈悲に強引な手段を取る強者。・大和朝廷に葬られた土地の支配者、辺境や未開の蛮人、異邦人。・郡盗集団や、体制を離脱した集団。・邑(むら)を放逐された人。・性的な殺人者。・山の民。・正体不明の人、あるいは世捨て人。・ひどく醜い、または身体の一部が欠損したり、多かったりする異形の者。・神々と並ぶ力を持つ邪神、敗れ去った古代の神。・地獄の獄卒。

鬼(儒教)(おに)

儒教では「鬼」と書き「き」と読む。これも、日本の鬼に影響を与えている。人間は死後、肉体に宿る魂魄(こんぱく)がふたつに分離し、魂は神となって天上へ、魄(はく)は形魄(鬼)となって地に帰る。すなわち「鬼(き)は帰すなり」とされた。だが、自殺者やこの世に執着した魄は幽霊となってこの世に姿を現し、生きている人間と変わらず、食事をすれば恋愛もし、人間との間に子供すらもうけることができる。このような存在を儒教では鬼と呼んでいた。道教では、鬼は廟を立てて祭ることによって、地に存在し続けるものとし、さもなければ人に祟るとされた。

鬼(世界)(おに)

鬼と一口に言っても、世界各地でその見解は様々である。中国では実体を持たない霊的なものを指し、闇や不幸、死に関わるとされる。一方、韓国ではトケビと呼ばれるものが、いわゆる鬼にあたる。これにはいまだもって定まった姿が無く、不思議な力でいたずらをする親しみやすい存在のようである。また、インドでは神々の範疇に含められ、神々が人々を畏怖させる面をも鬼と呼ぶ。

神棚封じ(かみだなふうじ)

家族の誰かが死亡した場合「忌み」を嫌う神棚に、白い紙を貼って封印すること。この白紙は忌明けまで貼っておき、忌明けとともに取り除く。この間、神棚は閉ざされているため、礼拝なども行われない。仏教では神道のように死者を穢れたものと見なすことはないので、仏壇を閉ざすことは多くは行われない。それでも浄土真宗や日蓮正宗以外では、閉めている場合も多いようだ。神道では死や出産などを穢れとするために行われる措置である

カルマ(かるま)

輪廻転生をする際に来世の環境を決定する為のメカニズム。カルマ(業)とは、未来に報いを引きおこす善悪の行いを指す仏教用語である。「因果応報」という言葉もカルマの概念を元にして生まれた言葉である。「行い」を意味するサンスクリット語が語源だが、仏教が興るよりも2〜300年前にインドで発生した概念であると考えられている。

清め(きよめ)

清めとは、人、物、場などについた穢れ(けがれ)を祓い、浄化することを指している。穢れには多くの種類が存在するが、中でも血による穢れ、死による穢れは最も忌み嫌われ、それらを祓い清めるために多くの儀式、手法が編み出され、今日にまで至っている。清めに最も好んで用いられるのは「塩」と「水」である。塩は殺菌力があり、腐敗を抑えることなどから、穢れ、邪気を祓う力があると見なされたのは自然なことだ。清浄な水によって穢れを流し去るという発想も、ごく自然に生まれたものであったろう。炎による清めもあり、これもまた滅菌には最も適している。荼毘に付すのも一種の浄化なのである

供養(くよう)

本来は仏教用語。死者の霊を慰め、迷う事なく成仏させる為に、食物や花などを供え、冥福を祈ること。埋葬することそのものを指す場合もある。仏教においては、物や灯明、香華(こうげ)などを供える事を指し、これを財供養という。さらに財供養は、法供養(仏法を守り、それによって衆生を救済すること)と併せ、これらをニ種供養と呼ぶ。そのほかに、三種・四種・六種などの供養の別が定められている。

結界(けっかい)

本来は仏教用語で、一定の区域を神聖な場所と定めることを指す。これによって、修行の妨げになるものを遠ざける目的を持つ。西洋魔術でも、仏教の結界と利用法は共通している。地面に円や図象を描いたり、円形のシートを敷くなどして魔法陣を描くのは、邪悪な霊の干渉を防ぐためだ。また、密教では主に印や真言によって結界を張る。最もインスタントな結界は九字の印を切るものだ。

結界石(けっかいせき)

仏教では、境界線に結界石といったものを配し、結界を強化する。道祖神、地蔵も元は結界石であるといわれている。また、門や門柱も結界を示すものである。こうして一定のエリアを区切り、村などに悪霊などの侵入を防ごうとしていたのだ

国土結界(こくどけっかい)

真言密教を日本に伝えた空海は、高野山を開くとき、周囲七里を結界で浄化した。こういった広域の結界を国土結界と呼ぶ。彼が開いた四国八十八ヶ所の霊場も、四国全域を魔の手から守る為の壮大な国土結界と考えられている。それだけ空海の郷土愛は強かったということだ。

極楽(ごくらく)

仏教での極楽は、厳密にいうと天国とは異なる。極楽とは極楽浄土のことで、阿弥陀如来が統べる世界である。天国は天界と同じく、“天”たる神々の世界であり、帝釈天ことインドラを中心とした世界だ。ヒンドゥー教ではさらに多くの神々の天国がある。天界の住人は欲情や怒りに身を任せることがあるが、極楽の住人はそのようなレベルから解脱しており、情念に煩わされることはないのである。ただし、元来仏教には極楽の概念はなく、後の時代になってから付け加えられたものである

護法童子(ごほうどうし)

主に密教系の修験道者が使役した、童子の姿をした使い魔。役の小角の前鬼・後鬼などが有名どころであろう。空海像にも常に付き添う二童子があり、古くは聖徳太子と共に描かれている二児も、護法であるとされる。広い意味では、神仏の眷族である天狐・竜王・霊鳥なども含むが、一般的には童子の姿をしたものをさす場合が多いようだ。相手に憑依させる、自分の身の回りの給仕をさせる等の性質は式神と共通である。後世においては変換可能な存在となったようだが、古代においては式神の基本的属性であった呪殺のための神霊という性格、これが護法には希薄であった

金剛界曼荼羅(こんごうかいまんだら)

金剛界といった場合、密教に於いて大日如来を智徳の面から言い表したものであり、堅固な智徳で煩悩を打ち破る教えを意味する。金剛界曼荼羅とは、空海の『金剛頂教』に基づき、金剛界を図示したものである。また、金剛界曼荼羅は、胎蔵界曼荼羅と対になるものであるが、双方を合わせ、両界曼荼羅と呼ぶ。金剛界曼荼羅の構成は、成身会(じょうじんえ)或いは、羯磨会(かつまえ)を中心に、三昧耶会(さんまやえ)などの九会からなっており、九会(くえ)曼荼羅とも呼ばれる。金剛界曼荼羅とは、九つの曼荼羅を一図に集合したものである事を意味している

山岳信仰(さんがくしんこう)

日本には古くからある信仰。山それ自体を仏神が坐す聖地としていた。それと共に、それら霊山には死者の霊が集い魔が横行する異界とのイメージも重ねられていた。今も全国に30ほどの霊山とされる山が存在している。出羽三山、恐山、岩木山、早池峰山、葉山、日光山、赤城山、筑波山高尾山、大山、箱根山、白山、立山、石道山、富士山、木曽御嶽山、戸隠山、飯綱山、秋葉山、七面山、葛城山・金剛山、熊野三山、比叡山、比良山、愛宕山、鞍馬山、伯耆大山(ほうきだいせん)、石鎚山、英彦山、求菩提山(くぼてさん)である

地獄(じごく)

地獄のルーツはインド思想にあるとされる。昔、死者の国は、眠りの国のように静かなものだったそうだ。あるいは、過酷であってもそれぞれの心にかなった、死者には快適な世界であった。しかし、キリスト教や仏教のような大宗教が、鬼や悪魔を使って大量の血と炎と鉄を運び込ませ、現在一般的に言われるような地獄の概念が出現したのだ。霊界を訪れ、その記録を残したという科学者スェデンボルイは、地獄という言葉は使わず、低次元の霊界といった表現を用いている。また、『チベット死者の書』においては、こうした地獄は死者の魂が自分自身の罪悪感にとらわれることによって生じる「幻覚」であると言い切っている。これら幻覚は真の霊界に達する前の中有といわれる世界で見られるものであるとされる

死後の裁き(しごのさばき)

人間が死ぬと、生前の行いについて審判を受けるという思想は、世界に広く見られる。そのルーツは、古代エジプトの宗教と思われる。どの宗教においても裁きを受け、無罪となった者は天国に受け入れられ、永遠の生命を得る。そして、有罪となった者は地獄行き、あるいは冥府の怪物に食われてしまう運命にある。また、多くの宗教に共通しているのが、最初の死者が死の国の王となり、死者の審判は死者の国の主が行うことである。ただし、キリスト教では来たるべき最後の審判の日に死者は全て蘇り、生者もみな死んで、平等に神の裁きを受けるとされている

地蔵菩薩(じぞうぼさつ)

いわゆる「お地蔵さま」と呼ばれるものは、地蔵菩薩(じぞうぼさつ)がより庶民的に変化したものだと思われる。本来の地蔵菩薩とは、釈迦の死後から弥勒菩薩が下生するまでの間、釈迦の代わりとして衆生を仏道に教化する菩薩であるとされ、地獄などの悪趣に落ちた人を救うのを、第一の使命としているとされる。浄、不浄を問わず、いつ何時でも地蔵を念じれば平安と延命が得られ、諸々の災いを退けるというものだ。

地鎮祭(じちんさい)

家を建てる前に行われる儀式。家の建つ土地に竹を4本立てて注連縄を張り、結界を結ぶ。土地神に土地を使わせてくれるように懇願し、家が建てられても怒らないように鎮まってもらうのが、この祭りの主旨である。そのために結界は一晩置かれ、土地の穢れを祓うのだ。これが何度立てても倒れてしまう、というケースがあったが、その家は建った後には、ひどいポルターガイストが生じる幽霊屋敷となってしまった。

注連縄(しめなわ)(しめなわ)

神道での結界。神社で見られる注連縄(しめなわ)は、ひとつの結界を意味している。これはみだりに神がその外に出ないようにしているものである。日本の神々は、もともと自然木や岩に宿るもので、古い神社では本社殿の裏のそうした大木や岩に、注連縄がしてあることがある。そうなると、本当の御神体は社殿ではなく、その注連縄がされたものである。くれぐれも不用意に触ってはいけない。鳥居は一種の結界ではあるものの、注連縄とは逆に神の通り道である。同時に鳥居は境界を示し、その内側を聖別すると同時に正しい方位の出入り口を示すべきものなのだ

シャーマン(しゃーまん)

ひとつの部族の中の祭司であり、医者であり、色々なトーテムの精霊や、死者の霊と交信し、部族に有益な情報を引き出す。あるいは、獲物を呼び寄せたり、雨を降らしたりと、超自然的な現象を発生させる術師のこと。世襲の場合も多い。古代においては宗教的指導者=政治的指導者であったので、国あるいは部族の長でもあった。多くは、神経質で感受性が強く、夢想的であると言われる。巫女と訳されることがあるが、巫女が入るものであるのに対し、シャーマンは行くものといえる。

終末の預言(しゅうまつのよげん)

歴史上の大予言者のうち3人‥‥マザー・シプトン、聖マラキ、ノストラダムス(解釈によっては、終末の預言などではないが)が「世界の終末が20世紀末に訪れる」と予言している。何度も過去に人類が絶滅したと説くマヤ暦では、2032年に次の終末が訪れるという。また、世紀末は『聖書』に精神性を支えられた人々を不安にさせる。それは、「ヨハネの黙示録」に世界の終末が描かれているからである。終末の預言と言うものは、過去に何度もされているものなのだ。今、平和にこの文章を読んでいる方が無事いるならば、そうした預言の数々が外れたということだろう

守護神(しゅごしん)

人を守護するといわれる神。仏教では、大日如来の宇宙意識を受けて存在する、大日如来を含む8つの宇宙存在であり、そのうちのひとつまたは、ふたつが人間の守護をしているとされるもの。一方、人間が一個人という枠を越え、人類全体という視野と意識の中で行動し始める時に、その人間の目的完遂を霊的世界から援助する守護霊の一種とする説もある。守護神には、十二支によるものと生まれ月によるものがある。守護神のそれぞれに性格があり、良い面、悪い面を両方有しているという。キリスト教では、神はヤハウェのみなので、守護神の代りに守護聖人がいる

種マントラ(しゅまんとら)

種(シード)マントラ(あるいは種子マントラ)と記述されているものには、一音節に叡智に溢れた無数の神秘的な言葉が凝縮されていると見なされている。「オーム(オム)」という音が最も知られているが、それ自体、種マントラであり最も神秘的なものなのだ。その音の中には普遍的な知識と力の秘密が込められているという。そして、ヴェーダ聖典を唱える際や、祈りの言葉を唱える際に必ず最初に唱えなければならない「聖音」である

精霊流し(しょうりょうながし)

送り火の変化形。盆に迎えた精霊を、15日の夕方または16日の朝に川や海へ流す行事。これの発展形が燈篭流しである。送り盆の際に流しごとを行う例は多く、藁または板で精霊舟を作り、これに供物などを乗せて流すのである。それが、盆行事に点灯した灯篭との結びつきから、灯篭を舟形に乗せて流す灯篭流しへと進んだ。川や海に面した都市で多く行われ、中国でも「放河燈」「荷葉燈」などと称し、似たような行事がある

真言(しんごん)

密教で唱える呪文を指す。密呪、密言という意味である。現代の宗教で、密教が最高の呪文体系を持つのも、この真言ゆえである。仏教誕生以前の古代インドのバラモン教ではマントラ(曼怛羅)と呼ばれていた為、現在でも欧米ではマントラと呼ばれる。正しい方法で復唱されれば超自然的な力を持ち、言葉自体に神仏を揺り動かす力がある一連の言葉、または、音声で神仏に呼びかけ、祈願する句であると定義される

聖域(せいいき)

サンクチュアリ。主に宗教上、神聖で冒してはならないとされる場所・地域の事。聖域の歴史は非常に古く、ユダヤ史においてはエルサレムの神殿を意味したが、中世では罪人が逃げこんでも法律の力が及ばない寺院などを指すこともあった。また、山そのものが聖地として崇められる場合もあり、しばしば聖域に生える樹などと並び、石などもそこが聖域である事を示す印となった。聖域と呼ばれる場所の多くには、場に独特のエネルギー、地場、或いは磁場と呼ばれるものが秘められているとも言われる

聖痕(せいこん)

キリストが磔の際に、その身に受けた傷と同じ箇所に何の原因もなしに、ひとりでに生じる傷の総称。聖痕が現れるのは、茨の冠が結び付けられた頭部、槍で貫かれた脇腹、鞭で打たれた背中や釘を打ち込まれた手足などである。実際に掌などに穴が開き、痛々しい出血を見せる者も存在するが、単にその部分の皮膚が赤らむだけの場合を指すこともある。聖痕を発現させる者のほとんどが、熱烈なキリスト教信者であるが、まれにそうではない者もいる。この現象を起こす人々のほとんどは、無名、純潔、貧困という状況を選ぶか、自らにそれを課している人間であるとも報告されている

聖書(せいしょ)

一般に『聖書』というとキリスト教社会では『新約聖書』を指す。『新約聖書』は、キリスト教の最高の聖典である。しかしイスラム教にとっては、預言書のひとつとされ、基本的に無視されている。『旧約聖書』はユダヤ教、キリスト教、イスラム教の共通の聖典であるが、ユダヤ教では『旧約聖書』しか認めていない。『聖書』は神の言葉とされ、多くの信者はその絶対性を信じている。中世ヨーロッパでは、『聖書』に書かれていないことは存在しないとまで考えられた

聖霊(せいれい)

聖霊とは、キリスト教における三位一体「父と子と聖霊」の中のひとつである。聖霊が何であるかは、神学上多くの議論がなされてきたが、決着は着いていない。制度的には聖霊は教会を意味している。なぜなら聖霊とは神と人との仲介者だからである。しかし、一般的には、聖霊とは天使のようなものであり、世界を神の意に従って動かす見えざる力と考えられているようだ。また、エーテルのように世界にあまねく存在するパワーであるという説もある

先祖霊(せんぞれい)

祖先の霊のこと。守護霊となるのは、その人間の祖先である場合が多いというが、守護霊とまで行かなくても、祖先の霊を祀る習慣は広く見られ、人々はそこに一家の繁栄、守護を祈る。特に祖霊と言った場合はその家系を興す大業を果たした、神々の家系の人物を指す場合が多い。とはいうものの、祖先も人間であり、一定期間を経てまた転生してしまうのが普通であるから、拝んでいる仏壇の中の本人は既に他の場所で肉体を持って生きていることも往々にしてある

胎蔵界曼荼羅(たいぞうかいまんだら)

胎蔵界とは、胎児が母体内で育つように、人の持つ菩提心を、仏の大慈悲が育てるという世界を指したものである。そして胎蔵界曼荼羅とは、胎蔵界の思想や教えを図示したものであるが、描かれている思想とは、大日如来の慈悲の光が世界の隅々にまで浸透して行く様子と、様々な方法によって人が悟りへと目覚めてゆく様を示しているとされる。曼荼羅の構成としては、中央に描かれる開花した蓮華部分の事を「中台八葉院」と呼び、これは大日如来を中心に、四仏、それを補佐する四菩薩が描かれている。これは、宝幢、天鼓雷音、阿弥陀、開敷華王の四仏、そして、弥勒、観音、文殊、普賢の四菩薩である。そして、中台八葉院の外側に描かれる多くの菩薩、明王とは、悟りへ至る様々な道を示しているとされる

陀羅尼(だらに)

真言と同様の呪文。しかし、真言よりはやや長いものである。真言、陀羅尼共に神秘的な言語であるため、漢訳はされなかった。ゆえに、中国でも日本でもサンスクリット語のままの音で唱えるのだ。これは呪文の本質が、一定のリズムや音色、抑揚に込められているため、漢訳してしまうと、その本質が失われてしまうからである

道祖神(どうそしん)

辻、村境、峠などに祀られる神。一般的には石塔状の塚や小さな祠である。村や道に外来の邪悪なものの侵入を防ぎ、村人や旅人の安全を守る神である。その起源は、中国古代の道の神の思想が日本に入り、古代信仰と結びついて生まれたと思われる。関東・中部地方には男女和合した姿の道祖神も多く見られ、このため、縁結びの神や性の神とも見られた。

十言神咒(とことのかじり)

「アマテラスオホミカミ」という神名だけの神咒で、至誠を込めて毎日30分以上連唱する修行を1ヶ月以上続けられると、あらゆる悩みも解消し、神徳を授けられるというもの。唱え方は、個人の体質や場合に応じ、特に決まったものはないというから、誰でも無理なく実践できる信法である。神道天行居の創始者で神道霊学の大家であった友清歓真(ともきよよしさね)が、最高神界の高天原(たかまがはら)主宰者・天照大神の神法として公開したもののひとつである

彼岸(ひがん)

向こう岸、対岸を意味する言葉だが、あの世のことを指して言う比喩でもある。川はいわゆる三途の川、この世とあの世を隔たらせる隔世の川である。あちら側の岸、彼岸があの世ということになるのだ。仏教では悟りの世界、涅槃(ねはん)の世界のことを特に指す場合がある。行事としての彼岸は、春分と秋分の日を中日として、その前後三日ずつの七日間のことで、彼岸に行う仏事「彼岸会(ひがんえ)」の略。また、昼と夜の長さが同じであり、同時に夏と冬の大きな境‥‥陰と陽の境界日であるということから、あの世とこの世の境界の日であると考えられ、霊界がこの世に最も近付く時と考えられたのである

福音書(ふくいんしょ)

『新約聖書』の中心をなすもの。イェス・キリストの伝記であり、それぞれ同じ時代のイェスの行いを別の視点で描いたものである。書名は、それぞれを書き残したとされる聖人の名をとって、名前が付けられている。『マルコ伝』『マタイ伝』『ルカ伝』『ヨハネ伝』の順で書かれたとされ、時代とともにキリスト教がどのように変遷して行ったかを知ることができる。新約聖書にも外典があり、『ペトロ(ペテロ)福音書』『ヤコブ福音書』『トマス福音書』『ニコモデ福音書』などが存在するが、『新約聖書』の様に一冊にはまとめられていない

副葬品(ふくそうひん)

死者の為に、共に埋葬されるもの。現在では死者があの世で生活するための身の回りの品という解釈が圧倒的に多い。また、いわゆる三途の川の渡し賃や、あの世で生活に困らないためとして金銭を共に葬る習慣もある。しかし、それには死者の蘇りを防ぐという意図も存在する。それで死者を満足させ、この世に舞い戻らないようにするための措置でもあるのだ

埋葬(まいそう)

死者を葬ること。字義のとおり、土に埋めるものや水に流す水葬、火葬、鳥葬など世界各地で様々な流儀が存在する。死者の魂の浄化を意図し、死者を弔うという念だけではなく、屍の復活を阻止する、という意図もあった。副葬品、また、手足の切断、死体の拘束などの物理的手法は勿論の事、死者を甦らせる力となってしまう、悪霊の類からの防御も多種多様なものが施される。埋葬とは、死者を送るものであると同時に、死者(亡者)から生者を守る手順でもあったのだ。

マクンバ(まくんば)

南米を中心に行われているブードゥー系の呪術のひとつ。ブードゥーの呪術はウンバンダ、キンバンダ、マクンバの三種がよく知られており、その中でマクンバは最も恐れられている呪殺の魔術である。ゆえにマクンバを行う呪術師は、最高ランクの技術を持っていることが必要とされる。現実にマクンバをかけられ、精神錯乱に陥って死にかけた者がいるという話などは枚挙にいとまがないが、否定論者の多くは、ブードゥーの呪殺を一種の偽薬効果(プラシーボ効果)であると語っている。確かに、呪詛をかけられたと思い込むことによって生み出されるものは確かに多いだろうが、それだけではやはり、全ての呪術、呪詛を説明し尽くすことはできない

魔女狩り(まじょがり)

中世の終わりからルネサンス期にかけて行われた、教会による弾圧。ヨーロッパ史の暗黒のひとつである。初めは確かに魔女と言われる人々が犠牲になった。そのうち、人里離れた場所に住んでいる寂しい老婆は、ことごとく魔女だと思われるようになり、次第に男の魔女も大勢処刑されていく。人々は自分が疑われないために誰かを魔女だと告訴したり金持ちを妬んで告訴した。異端審問官たちは、魔女とされた者の財産没収目当てで、進んで告訴をそそのかし、有罪判決を下していった。実際は魔女などに関係なくても、大勢の人々が火あぶりにされたのである。なお、魔女狩りは中世というイメージが強いが、最も盛んに行われたのはルネサンス時代であり、フランス、ドイツが特に熱心であった

魔女術(まじょじゅつ)

魔女と言うと、不吉な醜い老婆や、深夜に空飛ぶほうきにまたがり、血の生贄が捧げられ、悪魔と性交するというサバトや黒ミサに参加する悪しき存在というイメージが、少なからずあると思う。しかし、これらのほとんどが、魔女裁判の拷問によって導きだされたものなのだ。あるいは暗示によって、哀れな被告に刷り込まれた幻影であったこともあろう。(実際現代アメリカで、娘によって告訴された悪魔主義者の父がそうした暗示によってあらぬ犯罪に手を染めたことになった)。本当の魔女たちはもう少し違った存在だ。田舎の呪医であり、助産婦であり、薬草の知識を持った老賢者でもあったのだ。西洋に残ったキリスト教以前の宗教であり、実践的な知識体系の名残を魔女術という。中世では、人々は恐れ敬いつつ、困ったときは彼女らに助けを求めたりしたものだ。それは自然魔術にも似たものであったし、シャーマンの機能を持っていたものである

モーセ五書(もーせごしょ)

ユダヤ教徒にとっての『聖書』は、神がモーセに啓示したイスラエル民衆の律法「トーラー」である。それは『モーセ五書』の中に示されており、ユダヤ教はこの「トーラー」を行動のすべての規範としている。『創世記』『出エジプト記』『レビ記』『民数記』『申命記』で構成される。『モーセ五書』は紀元前7世紀の『申命記』の追加など、現在に伝わるまでに多くの修正がなされている。しかし、原著者がモーセであることは、間違いないとされる。律法となる契約法典と十戒のような文書は、確かに聖伝という形で、そのまま保存されたからである

預言(よげん)

「預言」とは、唯一絶対のヤハウェ神に帰属し、律法を授かることを契約し、神から言葉を預かりそれを公にすることである。「予言」はあくまで自分が作り出す言葉、「預言」は神から授かった未来記であったり、法であったりするわけだ。一人の人間が行う「予知」の意味では全くない。また、預言は神が人類に課した運命でもある。その為、人類は神の預言を必ず成就させるために行動しなくてはならないとされ、ユダヤ=キリスト教系予言の体系中に占める預言の位置は、きわめて大きいものである

預言書とそれに続く書物(よげんしょとそれにつづくしょもつ)

モーセの後継者であり、霊的指導者としてヤハウェの教えを民衆に伝えた者達が著した書。これら預言書は、それぞれ預言者の名をとって『イザヤ書』『エレミア書』『エゼキエル書』『ダニエル書』となる。その後にさまざまな時代、精神からなる『詩編』をはじめとする知恵文学。この他に『ヨシュア記』などの歴史書が続き、『モーセ五書』とこれらの文書で『旧約聖書』は構成されている。また『トビト書』『ユディト書』『エステル記への付加』『ダニエル書への付加』これらは『旧約聖書外典』(続編・第二聖典)とされた。現在のユダヤ教では、これらの文書が無視されており、プロテスタントの『聖書』では一部しか記載されていない。しかし、カトリックの『聖書』には全て記載されている

龍脈(りゅうみゃく)

風水では、正のエネルギーもまた一種の気であり、これが大地を流れる道筋を龍脈(りゅうみゃく)という。すべての龍脈は崑崙(こんろん)山より発し、北条、中条、南条の三大龍脈となって中国大陸を流れているという。そして、これから枝分かれした龍脈が全国各地へ、網の目のように広がっているのである。龍脈から生気が噴き出す場所を龍穴(りゅうけつ)という。本DBでは、他の場所では地脈と呼ぶ