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| 【今年のベスト・コンサート】 (1)2005.4/18 ベルリン・ドイツ交響楽団 (東京オペラシティ・コンサートホール) ケント・ナガノ(指揮) ブルックナー/交響曲 第6番 イ長調 (2)2005.9/30 読売日本交響楽団 (東京芸術劇場) オスモ・ヴァンスカ (指揮) ニールセン/交響曲 第5番 op.50 (3)2005.6/25 九州室内管弦楽団 (福岡シンフォニーホール) 井崎正浩 (指揮) カリンニコフ/交響曲 第2番 イ長調 今年は例年になくいい演奏会に数多く出会うことができたため、3つに絞るのには大いに迷った。しかしやはりというべきか、私の愛する作品で良い演奏に出会うと、ことのほか強い感銘を受けるのは当然のことだろう。 上記以外で捨てがたいものとして、小山実稚恵(p)のチャイコフスキー/ピアノ協奏曲(広上 淳一 指揮/日フィル)の白熱した演奏が忘れられない。 |
『親愛なる聴衆の皆様 私は現在92歳、もうすぐ93歳になります。今日、ここで私のキャリア最後となる2公演を指揮するのは、大変に不思議な気が致します。 1958年に、「ペレアスとメリザンド」の日本初演のため来日した時は、これほど頻繁に日本に戻り、多くのオーケストラを指揮し、都響の名誉指揮者となり、「東京都の鍵」まで授与されるとは全く想像もしていませんでした。 この国で長年にわたる音楽への情熱、喜び全てが、50年も前に私にあたえられていたのです。 アメリカ、カナダ、南アフリカ、母国フランス、そしてヨーロッパや東洋の国々で指揮した多くの演奏会やレコーディングを私はしばしば思い出します。しかし私にとって、選択は簡単でした。最後の演奏会は、ここ日本で、私にとって最も意味深いオーケストラと行いたかったのです。今夜の演奏会を心行くまでお楽しみ下さい。そして今後もこの素晴らしいオーケストラを支えて下さいますよう、願っております。 ジャン・フルネ』 現役では、世界で最長老の指揮者はこの演奏会で引退となった。@ではオーケストラの団員たちがフルネの輝かしい指揮者人生を讃えるように聞こえ、Aではやや遅めのテンポで伊藤恵の美しい打鍵に呼応し、モーツァルトの旋律美をじっくりと謳う。 Bメイン曲にはお得意のフランスものではなくブラームスで締めくくったのは印象的である。4曲の名曲の中から2番を選んだのは、ブラームスの「田園交響曲」とも言われる牧歌的な旋律が、現在のフルネの穏やかな心の平安を象徴しているからなのだろう、実にふさわしい。輝かしいコーダで締めくくられた後は長年の功績を讃えるため、私を含め数多くの聴衆のスタンディング・オベーションが続いた。すると一人の団員代表が、悲しみをこらえて司会をし、フルネに花束と永久シートの目録が贈られた。年齢的にはかなり若く見える奥さんがフルネに寄り添い、身体を支えていたのが微笑ましい。団員が舞台を去った後も拍手はなかなか鳴りやまず、その後もフルネは奥さんとともに2度舞台にもどり、最後の別れとなった。 ジャン・フルネ・・・これほど日本の聴衆に愛され続けた指揮者は他にはいない。今宵の勇姿はいつまでも忘れられないだろう。 |
@11歳でピアニストとしてデビューした神童は戦争で手を負傷し、やむなく指揮と作曲に専念したという、演奏会パンフによるスクロヴァチェフスキのエピソードは意外なものであった。 これは、大編成オーケストラに特殊な打楽器、ピアノ、チェンバロ?まで加わる壮麗な作品。しかしながら、おそらくは意識したであろうバルトークの傑作とは次元が異なるものと感じざるを得ない。多くの現代音楽は私の琴線に触れることが無いので印象に残らないというのが率直なところか。 Aこのコンビのブルックナーは、8番、7番に次いで3度目となった。ご自身の作品では譜面をめくっていたにもかかわらず、ブルックナーでは常に暗譜である。この82歳の指揮者に「老練な」とか「いぶし銀」とかいう表現はふさわしくない。その演奏からは毎度のことながら、生気に満ちたブルックナーに出会えるのである。読響の弦が美しい。第2楽章は特に素晴らしい響きに感銘を受けた。第4楽章の終結部に向かうところでは、CD(ザール・ブリュッケン)とは趣を変え、どっしりとしたアクセントをつけて輝かしく頂点を築いたのが印象的であった。次のブルックナーもきっと駆けつけるだろう。 |
私はこの川崎定期会員なので、当初の予定どおりであったが、K&Kさんご夫妻とSUOMIさんがお越しになったので開場前に軽く楽しい食事をご一緒させていただいた。 @予習はしていたとはいえ、やはりとらえどころのない作品。第1楽章、第4楽章で輝かしい金管の彷彿が気持ちよいのだが、そこだけ強調するなら、ヤナーチェク/シンフォニエッタやデュカ/ペリのファンファーレの方がはるかに美しい。オケの練習量も足りなかったのではなかろうか。トランペットが何度も吹きミスを発生させ、あまり心地よくは感じられなかった。 AB休憩を挟んだ後半にピアノと管弦楽のための作品を演奏するというのは異例で、これは大物サイに配慮したのだろう。Aはサイのオリジナル作品。現代作品らしく美しい旋律は無いが、サイの得意技?である左手でピアノの弦を押さえ、右手で鍵盤を叩くことによって、打楽器のような音色を出す奏法はユニークであった。パンフの解説のとおり、めまぐるしく疾走するピアノに一糸の乱れの無い演奏はその実力をいかんなく発揮していた。 BオケについてはAもよかったが、Bも完璧であった。サイは自分の演奏でない部分では、よくオケの奏者を笑顔を交えながら見つめていた。きっとこのオケは満足だったのだろう。よき伴奏に乗ってサイの演奏は実に心地よくスウィングする。これほど気持ちいい演奏で聴くラプソディー・イン・ブルーというのはそうそう生では聴けないのではなかろうか。アンコールで演奏された「サマー・タイム」も絶品であった。サイは明らかに才人である。 |
35歳のアマチュアが将棋のプロの壁を破ったというのは昨日のニュースで知った。彼はプロ棋士の養成所である奨励会に入門したが、26歳までに4段に昇進できなかったため規定によりプロ棋士を断念せざるを得なかった。アマチュアという立場にあっても将棋に対する情熱を絶やさず、プロとの対戦で高い勝率を重ねて彼は将棋連盟にプロ棋士への門戸を開いて欲しいと嘆願書を出し、特例の試験が行われた。プロ棋士6人に対し3勝を挙げることが条件だったが、5戦目にして実現を果たす。なんという精神力なのだろうか・・・ パンフによれば、小山実稚恵というピアニストは1982年のチャイコフスキー・コンクールで第3位、85年のショパン・コンクールでは第4位と立派な成績ではあるが優勝は逃している。しかし彼女は上記の棋士のごとく日々ピアノと対峙し、たゆまぬ努力と研鑽を積み重ねてきたのであろう。プログラムが終わった時、彼女が現在のピアニスト界ではトップクラスの実力を備えた存在であることを痛感することとなった。 Bの曲が終盤にさしかかった時、私はクラシックを聴き始めて間もない頃、ロストロポーヴィチ、カラヤン/ベルリン・フィルによるドヴォルザークのチェロ協奏曲の白熱した名演にいたく感動したことを思い出していた。 協奏曲の理想的な演奏は、競奏曲となった時に達成されるのではなかろうか。ソリスト、指揮者、オーケストラが燃え尽きた時、チャイコフスキーのピアノ協奏曲から信じられない感動が怒濤のように押し寄せた。終演は21時30分を過ぎていただろう。いつもならばそそくさと帰るところだが、SUOMIさんにお願いする。「タバコを吸ってもいいですか。」3分の間に演奏会の余韻に浸りたかったのである。「こんな素晴らしいチャイコフスキーは初めてですね。」と私はつぶやいていた。 @からAへ。AからBへと頂点に向かって突き進んだ演奏は、信じがたい気力と体力である。広上淳一と日フィルは単なる伴奏ではなく、彼女のスケールの大きい演奏と競奏していた。このチャイコフスキーは、日本人だけで成し得た希有な名演だろう。 あぁ、今年の演奏会は密度が濃くて幸せである。ベスト3はいったいどうなるんだろうか・・・ SUOMIさん、久し振りにコンサートでご一緒させていただきましたが、まったく小山さんの演奏には参りました。あの笑顔にもね。ありがとうございました。 |
@とAでは自国(フィンランド)の作品をとりあげた。ラウタヴァーラ(1928-)は、シベリウス以降のフィンランド現代作曲家の重鎮で、北欧音楽へ一時たりとも入り込んでいけば避けられない作曲家だろう。新古典主義、12音技法、新ロマン主義、と時代とともにその作曲スタイルを変えてきたようだが、交響曲にしても管弦楽作品にしても比較的聴きやすい作品が多い。この作品も弦楽の透明感が際立つ作品で抵抗感を感じる作品では無い。しかしわずか7分で終わる小品ではさして印象には残らない。 A身長180cmくらいはあったのでは。ミッコ・フランクより高い、スラリとした美女で24歳。パンフによると、ラトヴィア(どこ?旧ソビエト連邦か)生まれで2001年のエリザベート王妃国際コンクールの優勝者。使用楽器は日本音楽財団貸与(多いこと!)のストラディヴァリウスWilhelmj。 最近、とみにシベリウスのVnコンチェルトが多く演奏されているような気がする。また女性演奏者かいな、とは思いつつ聴いたがその美しい音色に我が耳を疑った。この作品、第1楽章ではシンフォニックな管弦楽に女性奏者は埋もれてしまいがち、と何回か書いたことがあるがこのスクリデは違った。オーケストラと対等に渡り合う力感は、その情熱的な旋律そのままに心に響く。第2楽章はかつて感動したラクリンほどの熱さは無かったが、これまたなんと透き通るような美音なのだろう。フッと放たれた音色は会場の広がり、高さへ向かってフワッと溶け込んでいく。これはこのホールの素晴らしさが原因なのだろうか。第3楽章では早めのテンポで快速に飛ばすが、力みからか微かなミス・タッチが発生するがご愛敬の範囲だろう。これまで聴いた女性奏者のシベリウスではベストであった。 Bコンサートでは久し振りの「火の鳥」。この曲はコンサートでは組曲版による演奏が圧倒的だろう。たまには全曲版で聴きたいとも思うが、コンパクトな組曲は眠くならずによいのかも。シベリウスではややおとなしいオーケストラがここぞとばかりに炸裂する。あぁ、なんて素晴らしい響きよ。オーケストラのエネルギーを浴びる心地よさは最高である。ミューザ川崎・・・最近、ここがもっとも素晴らしい響きであると感じてきた。いつか最良席と思われる2階正面の前の方に座ってみたいものである。 |
入門用の液晶プロジェクターの購入を機にオペラ鑑賞を初めて約2年が経過した。先月、この作品を鑑賞した後、たまたまチケット・ポンテの半額チケットが出ていたので、距離的にしんどいが横浜まで出かけた。首都高速の渋滞がまったく読めずハラハラしたが、3時間を要し18:30の開演になんとか間に合う。 1月のソフィア国立歌劇場の埼玉公演は目を覆いたくなるような閑散とした入りであったが、この日は8割以上は入っていただろう。私の席はSの次のA席で1階の27列左サイド。後ろから5列目なので条件は悪い。オペラ・グラスを持参し、ひたすら役者の表情を追いかけていた。字幕にあまり気を取られなくて済んだのは、同じ公演(愛媛県民文化会館/10.28)をご覧になる、いとこのカズさんからご親切に2種のアイーダのDVDを送っていただき、そのうちのスカラ座盤を前日に鑑賞でき、予習が完璧だったことに依るもの。カズさんには改めて感謝申し上げます。 さてこの舞台、メト(メトロポリタン歌劇場)やスカラ座のような華麗な舞台は期待していなかったが、第1幕ではやはり簡素なものであった。衣装はまずまず。ずっこけたのは第2幕の凱旋行進だ。このオペラ、相当数の人数を要するのだが、この凱旋行進は貧弱過ぎた。まぁ、そんなに多数で来日できるはずもないか、と自分に納得させる。オケは・・・う〜ん。席が席だけに文句も言えまい。迫力は感じないが歌手とのバランスは非常によかった。地方の会館のオケ・ピットは狭いだろうから、自ずとメンバーも制限されるのかもしれない。 さて歌手陣。主役のヒロイン、アイーダ役のマリア・グレギーナは相当著名なソプラノのようだが、期待に違わぬ名唱と言ってよいのではなかろうか。やや小太りだけれど品のある顔立ち、隙のない立ち居振る舞い、哀感ただよう表情・・・悲劇のヒロイン役としては申し分がない。次いで好演したのはアムネリス役のハイノヴァー。この歌手、すらりとした細身の長身でけっこうな美人に見えた。あらら、私がラダメスだったらこちらになびいちゃうでないの。(笑) いや、しかしこの歌手の歌も巧いが、なんと言ってもその鬼の形相たるやエジプト王女の威厳を見せつけていた。ラダメス役のヤンは当初の予定の歌手が来られず、代役。代役とはいってもなかなか美しいテノールではあったが、この若き歌手ではグレギーナの相手役としては少々バランスを欠いていたかもしれない。しかしキャパ2400名以上のホールに響き渡る歌手陣には圧倒される迫力があり、満足であった。 オペラというのは、ちょっとした演出により印象を変えるもの。第4幕の最終場面、死罪となり生きながら石室に幽閉されたラダメスが、先回りしていたアイーダと再会し、愛を確認しつつ死を迎える場面では、なんともやるせない非情な結末が聴き手を悶々とさせがちだ。ここでの最終場面では、互いが微かに微笑みを交わし、手を取り合いながら石室の奥へ消えていきつつ幕を閉じる。「私たちには天国の扉が開かれている」という歌詞のとおり、その扉を開けに行くかのようだ。つまり非業の死を遂げる2人の主人公の悲しみを表現するというより、お互いが望んで迎えた死は幸せな結末だったのだ、ということを強調したかったのかもしれない。幕を閉じた後は悲しみではなく、爽やかな印象を残す。いい演出であった。 私は後ろの方の席ということもあり、さして恥ずかしさも感じず、途中から立って拍手を送っていた。この演目は強力な歌手陣の熱唱が会場を熱くさせていた。格安な料金で素晴らしいオペラを聴けて(観れて)幸せであった。マリア・グレギーナ・・・また会いたい歌手である。 【いとこのカズさん より/愛媛公演】 アイーダ観てきました。よかった! 感動しました。そしてグランドオペラの迫力に圧倒されました。明日、また観に行きたい。。。 まず良かったのが、アイーダ役のマイダ・フンデリング。この方、プログラムの役者紹介では4人のアイーダ役の末席にいる方で、当日入場して配役がこの方と解った時はちょっと不安でした。しかし実際は違いました。若くて、やさしく可愛らしい感じの美しい人で私のイメージしていたアイーダにぴったり。ラダメスが王座を蹴るにたる美人。演技が細かいところまですばらしくストラータスなみです。声は透明な感じで高域までしっかり出ていました。(高域の声量はもう一息かもしれませんが最前列では問題なし) アイーダは劇の中ではほとんど悲しげな表情の場面が多く、笑顔が見れるのは3幕でラダメスに一緒に逃げようと誘う所くらいですが、ここでは、故郷を思って歌う場面などでも観られてマイダ・フンデリングさんの魅力が光ってました。 アムネリス役のガリア・イブラギモヴァさんもよかった。マイダ・フンデリングを絶賛してしまいましたが、それと引けを取らない方です。年上?の分歌に安定感を感じました。 ラダメス役はヤン・ヴァチーク。この方も、プログラムの役者紹介では4人の最後の人でした。声と演技はよかった。声量がアイーダとアムネリスに比べ弱いかと思いました。ラダメス役にはチョット年を取りすぎかな。 エジプト王のルカーシュ・ヒネック・クレマー、ランフィス役のラディスラフ・ムレイネクも良かった。 アモナズロ役のマルティン・バルータはお父さん役にはちょっと若くてアイーダのお兄さんといった感じでした。 地方公演で大道具が使えない分、バレエに活躍してもらう演出になってましたが、おかげで最前列でお色気のあるバレエを堪能いたしました。凱旋の場もバレエ好きの私には十分楽しませていただきました。 舞台でのアイーダトランペット5本の響きがとてもよかった。あれって音程をきちっと出すのが難しいそうですがしっかりハモってました。あれが響くとがぜんエキサイトします。コーラスが特筆ものです。LDで観てきた大劇場に引けをとらないものだと思いました。 オーケストラも70名くらい狭いピットに詰め込まれてましたが、とてもよかったと思います。出番の少ないフルートの3rdとオーボエの2ndが居眠りしてました。 連日の移動でお疲れなんでしょう。昨日は岡山、明日は大分ですからね。演奏が終わった後のカーテンコールは何度も続き、周囲の多くのひとがスタンディングしてました。みなさん良かったという表情でした。 あ、最後の演出ですが、最後は抱き合って横たわるという演出でしたが、とてく印象的でよかったです。また観に行きたい。。。と思わせる素晴らしいオペラでした。やっぱりオペラは最前列です。 |
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@現代音楽の保守派の重鎮、バーバーの名曲はわすか8分程度の小品。タクトを持たない指揮者はゆったりとした旋律美に寄り添うかのように淡々と流れていく。 Aこの曲のライヴといえば昨年のノセダ/BBCフィルの快速でスマートな演奏が鮮烈だったが、こちらは極めてニュートラル。ときおり「弱音の美学」が顔を覗かせるもののシベリウスの演奏とは異なり、ややゆったり目に進行していく。奇抜なものをなにも差し挟まない誠実な演奏。第4楽章はことさら輝かしく心地よい。 B国内のオーケストラはニールセンを演奏することは少ない。名作の4番はさておき、この5番もニールセンの、というより北欧が生んだ交響曲の傑作であるにも拘わらず極めて冷淡だ。2楽章だが40分を要する。CDで聴くヴァンスカの4番は、その1楽章の冒頭では快速で飛ばしているが、ここでの5番(CDは未聴)は自然体である。この作品はショスタコーヴィチの7番「レニングラード」に少なからず影響を与えていると思われる。交響曲の中で小太鼓がこれほど劇的効果をあげている作品は珍しい。その小太鼓だが強弱のメリハリの効いた奏法は実に鮮烈であった。1楽章終結部での4番に類似した清々しい旋律の頂点を迎えた時、私の目は潤んでいた。これほど雄大な5番というのはCDでも聴いたことが無い。重厚でありながら輝かしい。繊細でありながら大胆でもあるが、アンサンブルに一糸の乱れもない、完璧なニールセンであった。演奏を終えた指揮者の顔は充実しきって晴れ晴れとしていた。感動的なニールセン、ここにあり・・・幸せな出会いであった。 |
2005.8/8 東京交響楽団 (フェスタ・サマー ミューザ川崎 2005)
さて、このような音楽祭の趣旨としてはクラシック・コンサートに気軽に足を運んでほしい、という意味合いが濃厚だから超名曲がメインとなるのだが、カルミナ・ブラーナを演ってくれるとは有り難い。 公演前に指揮者のプレ・トークが10分程度あった。飯守範親氏という指揮者はいくつなのだろう、ネットで調べたが生年月日がわからない。見た目は35歳くらいだろうか。この指揮者が初めてこの作品に出会ったのは1986年、リッカルド・シャイー指揮/ベルリン・フィルだったという。じゃ、私は・・・と考えると今でもCDで愛聴盤のロバート・ショウ指揮/アトランタ響のLPであった。これは1980年の録音だからたぶん83年ころに知ったのだと思う。指揮者は「この曲を初めて聴かれる方はどれくらいいらっしゃいますか?」と聞いたら、なんと半数程度が手を挙げていた。私の左どなりの若い女性も、右側のご夫婦も。「私は初めて聴いたとき、強烈なインパクトを受けました。これ、きっと嵌りますよ。」と言っていたが、私自身も20数年間嵌りっぱなしである。 冒頭の壮大な合唱とともにいきなり激しくも輝かしい頂点を築くオーケストラ。銅鑼の波動、大太鼓のドスンという地鳴りのような振動、そしてとどめのシンバル・・・何度聴いてもこの曲の冒頭部(運命、世界の王妃よ)では鳥肌が立ちっぱなしとなる。ましてや生演奏では完全に打ちのめされた。ここでのテンポは小澤征爾/ベルリン・フィル盤のごときスピード感は爽快だ。その後の展開は恣意的なテンポ設定や楽器の響かせ方も無くノーマルなもの。しかしこの曲の起伏に富んだ美しい旋律は聴き手を魅了し、飽きることを知らない。それを支えたのは前回もプッチーニのトゥーランドットで素晴らしい合唱を聴かせてくれた東響コーラスだろう。歌手陣の3人も申し分のない出来。この曲の生を聴くと、どうしてもテノールの演技力、歌唱力に目が行ってしまう。今回も凄まじい演技だ。焼かれる運命の白鳥役のテノールはフラフラ状態で登場し、最後の力を振り絞って泣き叫ぶように唄ったあとは、なんと第3部のソプラノが登場するまで、舞台上でうつぶせになって倒れたまんまだ。(呆然) まぁ、こんなハプニングがらみではあったが、壮大なコーダ(終結部)におけるオーケストラ、合唱は、冒頭部をさらに上回る圧倒的な輝かしさで締めくくられた。待っていたのは熱い拍手とブラボーである。LP、CDでは数え切れないくらい聴いている私でさえ興奮させられた。飯守範親という指揮者はこれからも注目して行きたい。 |
このオーケストラは、パンフレットでは、「本楽団は、1999年の”第2回九州現代音楽祭”をきっかけに、指揮者、井崎正浩氏を中心に、フリーランスで活動する九州在住の音楽家によって結成されました。結成後は、音楽鑑賞教室やバレエ伴奏、そして昨年は、ここ福岡シンフォニーホールにおいて、全国初の試みである能楽とオーケストラの競演による『創作能「博多山笠」』を上演し、高い評価を得ています。結成から6年目の今年、オーケストラとして正式にデビュー公演を開催することになり、幻の名曲と噂されるロシアの作曲家”カリンニコフ”の2つの交響曲を選びました。」と紹介されていた。 楽団員は62名。後藤氏は現在、名古屋フィルのコンサートマスターであるとのこと。 @正式デビュー公演でいきなりカリンニコフの2曲の交響曲を演奏するということはこれまで例がなく、画期的な出来事だ。大いに期待していたが、前半の第1番の第1、第2楽章では楽団員が緊張していたのかもしれない。井崎氏のゆったりした進行は、この2つの楽章の美しい、叙情的旋律を際立たせようという試みであったのだろうが、弦と木管の連携にわずかな不自然さが部分的につきまとっていた。つづくスケルツォ、フィナーレにおいては、素晴らしい躍動感を伴いつつ、輝かしい響きで魅了された。62名という室内管弦楽団の中では、厚みのある低弦の響きが特に印象的であった。 A20分の休憩後の第2番には感銘した。第1番のようなぎこちなさは微塵もなく、冒頭から流麗な響きが実に爽やかである。第2楽章でのイングリッシュ・ホルンは1番よりも遙かに美しく、続く弦楽の清澄な響きは感動的であった。第3〜第4楽章では第1番をさらに上回る、圧倒的なスケール感を伴って輝かしいフィナーレを築いていた。これは完璧な演奏であった。 今回の演奏会での第2番は、日本のプロ・オーケストラでは国内初演であったと思われる。言ってみれば、私は歴史的なコンサートに立ち会えたのだと思う。大変な幸福感に満たされた。 指揮者の井崎氏はもとより、多くの楽団員の顔が輝いていたのが印象的だった。 今回は、カリンニコフの交響曲第1、第2の同時演奏会という、素敵な企画を組んだエムアンドエム、また主催のRKB毎日放送に感謝しつつ、九州室内管弦楽団の今後の大いなる発展を祈りたい。 |
蛇足だが、ミューザ川崎での字幕は正面に大画面があるだけだった。つまオルガンの前である。これではサイドに近い場所に坐っている私など非常に見づらい。他のホールのように両サイドへ電光字幕を置くべきだったろう。一部の方はほとんど読みとれない人もいたはずであり、とても不親切な対応である。 |
大友直人氏の指揮は久し振りで聴いた。この人の指揮は6年ほど前に感動的なハンソンの交響曲第3番をサントリーで聴いて以来だ。久し振りで見ても真面目で誠実感の漂うオーソドックスな指揮振りで、決して奇をてらったパフォーマンスは皆無である。かつてと違うのは指揮棒を持っていない、ということくらいか。なぜ最近はタクトを持たない指揮者が多いのか?私には疑問である。指揮棒があった方が凛々しく見える、というのは私だけが感じることなのか。 @かつての貴公子同士の組合せだが、清水氏は随分と風貌が変わってしまった。しかし演奏は大変満足できるものであった。最近、ショパンのSACDを聴いても感じたが、打鍵が力強くスケールの大きい皇帝となった。これに第2楽章でのもう一段の繊細感があったなら申し分のないものであった。私にとって「皇帝」の生といったら昨年11月のブッフビンダーにとどめを刺すので、これと比べると酷だろう。 A最近この曲の演奏会が非常に多いので、少々辟易しているのは事実なのだが、聴いてしまえば大変心地よい名曲には違いない。大友氏の指揮にはなんの文句のつけようもないのだが、没個性的な演奏と言ったら失礼だろうか。これを佐渡裕氏がやったら大変なエネルギーを浴びせられたことだろう。そんな完全燃焼を期待したくなってしまう。金管さん、たまにはN響くらい完璧に吹いてほしい・・・ |
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@まぁ、いつも感じることだが、演奏会にしろCDにしろ、あまり馴染みのないソリストは世界中に沢山いるが、無名の演奏家に感動するということはままある。本日のピアニストはその最たるものだろう。 シューマンのピアノ協奏曲は、モーツァルト、ベートーベン、ショパン、チャイコフスキー、ラフマニノフらと比べれば地味かもしれないが、演奏会ではしばしば取り上げられる美しい名曲である。特に第一楽章の主題を聴いた瞬間から引き込まれていく。 フォークトというピアニストは豊かな力感と繊細さの対比が素晴らしい。憂いを秘めた影のある音色というよりは、春の陽光のような輝きを持った音色である。その音色はチョン氏の絶妙なオーケストラとのバランスの中で一際美しく溶け込んでいたのである。 A4番を聴くのは数年ぶりであった。私はコンサートの前に予習をすることはほとんどない。はて、4番はどんな曲であったか?聴けばすぐわかるだろう、という呑気な姿勢である。冒頭の鈴の音からフルート、弦楽と聴き始めた瞬間、今日の東フィルはいつになく美しい音色を奏ではじめた。 このマーラーの4番というのは、決して派手さはないが、全体を通して美しい旋律に溢れた作品であり、マーラーの聴き始めとしては1番と並んで最も親しみやすい曲だと思う。第4楽章のソプラノも美しい旋律であり、今宵の森 麻季も好演であったとい言える。ところで、チョン氏=東フィルだが、これまで私が聴いたこのオケでは最も美しい演奏であったと断言しよう。滑らかな弦、ふくよかな木管、輝かしい金管・・・どのパートも完璧な演奏だ。これは目を閉じれば外国のオケにも引けを取らない。最後の最後でチョン氏のタクトから、心地よい陶酔的な演奏を享受できたのであった。 |
第2の理由は以前書いたNHKの番組「マエストロの肖像」で、ブロムシュテットが取り上げられたのを見て、その人柄に感銘を受けたからである。今回、私は26年振りにコンサートで再会したことになる。@に於いてはその遠い過去のドレスデンの美音を回顧しながら聴いていたのだが、たとえ違うオケといえどもこのゲヴァントハウスは素晴らしい響きであった。ブロムシュテットは今年77歳になると思うが、年齢から来る老いは感じさせず、きびきびしたタクトから発せられた力みのない流麗な弦の美音に、私はなすがままに身を浸していればよいという心地よさを堪能した。 A私をブルックナー好きにさせたきっかけのCDは3枚ある。それは2月8日に書いたハイティンク盤(9番)、スクロヴァチェフスキ盤(6番)、そしてブロムシュテット盤(6番)である。 ブロムシュテットの音楽には奇抜なものは何もない。CDで聴いても生で聴いても実にオーソドックスで丁寧な音楽づくり。今宵もまた然りであったろう。ドレスデンもよかったが、このゲヴァントハウスの演奏は完璧である。弦は透明で繊細であり、特に低弦は深くどっしりとした重厚感と柔らかさ。木管もよいが、最良なのは金管だ。なぜかチューバが第1楽章では右、第2楽章では左、第3、第4楽章では再度右へ移動したのはユニークだが、どの金管も輝かしい朗々とした響きはブルックナー・ファンにはたまらない魅力であった。第2楽章「アダージョ」の深い低弦の祈りの旋律は、一昨年他界した愛妻に捧げていたのではないだろうか。実に感動的な表現であった。 オーケストラが引き上げた後も多くのファンの熱いスタンディング・オベーションに、指揮者は満面の笑みとともに1人舞台に現れた。 ブロムシュテットこそマエストロと呼ぶにふさわしい指揮者である。 |
東フィル定期の今シーズンのラス前。このコンサートはどちらかというと@に興味があった。つまり小曽根真という著名なジャズ・ピアニストがどのようなクラシックを聴かせるのか、という点に。上記はパンフからの主な引用だが、今夜の曲は初めてではないようだ。私は「不安の時代」を聴くのは初めてである。交響曲とは言っても、実質的には2楽章からなるピアノ協奏曲となっている。現代音楽特有の捕らえどころのない旋律が終始するのであるが、時にピアノの煌めきを感じ、時に弦のリリシズムが聴かれ、時にジャズの要素が楽しめるためか、約37分の曲に飽きることはない。小曽根氏は少しラフなスタイルで現れると思いきや、バリバリの燕尾服と白い蝶ネクタイに驚いた。立派なクラシックのピアニストである。小曽根氏の演奏には派手さはまったくない。第1部ではもう少しリズムに乗って時には強い打鍵も欲しかったが決して不満の残るものではない。彼の演奏は実に丁寧だ。一つ一つの鍵盤を確かめるような打鍵は曲に対する繊細な愛情を感じさせるもので、YAMAHAのピアノから発せられた音は透明で綺麗な響きを奏でていた。視覚的にも指揮台が無かったり、首席コントラバス奏者が第2部の一部分で前に出てきてベース弾きしたりとなかなか面白い。小曽根氏は今後もクラシック界でもぜひ活躍してほしい。またいつかガーシュインが聴きたいものだ。彼の生真面目で妥協のない演奏と控えめな態度、また素敵な笑顔は好感がもてた。 A普通、ブルの8番の演奏会はこれ一曲ということが多いが今宵は@も長めの曲だから長丁場であった。井上道義氏はマーラーの演奏では定評があるが最近ではブルックナーに傾倒し始めたのであろうか。現在積極的にこの作曲家を取り上げているのは飯守泰次郎が代表的なのだろうが、ブル・ファンとしては井上氏が積極的に取り上げてくれるのは歓迎したい。私はこの指揮者の凛々しく厳しい眼差し、素敵な笑顔、毅然とした指揮振りは結構好きである。頭の薄いのが似合う指揮者もこの人くらいだろう。掲示板でも話題になったブルックナーだが、80分を要する大曲は苦手な人には苦痛だろう。私は大好きな曲であり名曲だと感じている。この曲の国内オケでは2002年のスクロヴァチェフスキ指揮/読売日本交響楽団の演奏に感銘を受けたが、残念ながらそこまでの感動はなかった。しかしながら第3楽章のアダージョは非常に丁寧な演奏で味わい深く、また終楽章での輝かしいブラスの響きは大変心地よい響きであった。今宵の東フィルは今シーズンでは大変素晴らしい演奏と言えるもので、おそらくは井上氏との密度の濃い練習によって結実した両者の緊密感がこのような快演を生んだのだろう。今宵のブラボーは指揮者が客席に向いてから発せられた。実に節度のあるブラボーで気持ちよい。私にとっては好演であった。 |
この大ホール(アークホール)のキャパは2002人。都心の大ホールと規模はほぼ同じ。シューボックス型ホールだが、オケの後ろ側、2階、3階サイドにも比較的席は多い。反面2階正面は舞台からかなりの距離があるから仮にここがS席なら、あまり良い席とは思えない。ホールの響きについて述べるなら、ここは素晴らしい。楽器の明瞭な響きが心地よく、自然な残響音と適度な広がり感といい申し分ない。このホールの演奏会を2月で見るとわずか6日間である。これほど素晴らしいホールを遊ばせておくのは随分と勿体ないものだ。埼玉では大宮ソニックでクラシック・コンサートがよく催されるが、音は比較のしようがない程歴然としている。もっとこのホールでやってもらいたいものである。 @昨年の3月25日の演奏会での金聖響の指揮について私はこう書いていた。「今宵の演奏会が緊張感を持続できたのは、ひとえに金聖響の躍動的な指揮によるオケの統率力のなせる技であったろう。」 この指揮者はいつから指揮スタイルを変更したのであろうか。タクトをほとんど振ろうとせず、左手を指揮台の手すりに時々置いたのはいただけない。 A及川浩治のラフマニノフは2年半ぶりとなった。今日はこれだけを聴きに来たようなものである。結論から言ってしまえば、金聖響と及川浩治はミスマッチだったろう。ピアニストへの配慮を欠いたオーケストラの大音量は第1楽章の前半部を台無しにしてしまった。第2楽章はSUOMIさんもご指摘されているように、もう少しゆったりと夢見心地にさせてくれるように歌ってもいいだろう。ここらへんはCDで聴くツィマーマンの演奏(聴きながら書いている)は卓越している。第3楽章はこの及川浩治でなければ表現出来得ないスケールの大きなもの。2年半前よりもさらに激しい情熱のほとばしりに唖然とした。ここでの信じがたい集中度、緊張度を伴った、鍵盤がいかれるくらいの激しい打鍵は、果たして常軌を逸した表現なのだろうか。いや、この作品は他のピアノ協奏曲とは比較出来ないくらい情熱的な旋律を伴うのだから、及川浩治はラフマニノフの譜面の要求にあらん限りの情熱をぶつけているということなのだろう。だから私にとっては、これほど共感をもって聴ける演奏は他にないのである。機会があったらぜひかつてのように佐渡裕と演じてほしい。熱いピアニストには熱い指揮者でないとバランスが取れない。 B私は、ここでやっと金聖響の躍動的な指揮が見られると思っていたが空振りである。この指揮者はまだ35歳。あまりにおとなしい指揮から発せられたオーケストラからは、格別熱気のある「春祭」は聴かれずじまいであった。もっとも、若き日にこの曲を夢中で聴いた時代は遙か遠くに過ぎ去り、今では食傷気味な作品であるということも一因なのかもしれないが。 |
@本日の演目の中ではわずか5分程度の曲だが、一番音楽的な響きのする作品だったろう、可もなく不可もなくサラリと流れて言った。 Aなんとこの人、作曲までこなしているとは驚きだ。マルチ・タレントである。 私は主にロマン派以降の作品を聴く事が殆どだが、もちろん一部の現代音楽も聴く。だが前衛的色彩の濃い作品は生理的に受け付けない。現代音楽から美的な旋律、民族的色彩感が感じられれば好意的である。この作品はそのどちらとも言えない、なにかとりとめのない旋律がだらだらと続き、まったく捕らえどころのない作品である。20分程度なら我慢もできるが、43分とは・・・一言で言ってしまえば冗長である。だが清水直子のヴィオラは音色の量感といい、深みのある響きといい、さすが元ベルリン・フィル主席ヴィオラ奏者らしい好演であった。また別の機会にロマン的な作品を聴いてみたいものである。ヴァイオリンに持ち替えることはないのだろうか。 B捕らえどころのない作品の連続である。しかしそこはさすがにAとは違って聴き所は存在する。この作品の最大の聴き所は第2楽章だろう。ここでチェロとヴァイオリンの独奏部が印象的であるが、このオケの首席チェロ奏者の響きは、ホールの隅々の空間に漂う滑らかな響きに唖然とする程の素晴らしさであった。プレトニョフの指揮は派手さはどこにも感じさせない実に堅実なものであった。 さて、終わりと思っていたらアンコールでなんと突然のシベリウスだ。クオレマから作品44−2「鶴のいる情景」であったがこれは珍しい。CDの録音もわずかしかない。クオレマは44−1の「悲しきワルツ」ばかりが目立つが、これは「トゥオネラの白鳥」を彷彿とさせる透明で繊細な美しい小品。これを聴けたことは驚きとともに嬉しかった。 |
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