自由において共に生きよう
(地区壮年部講演会テーマ)

江原 史雄

  寅さんをこよなく愛し、その生きざまの中に、キリスト者の有り様の一端を見ていく、それが今回の講演者、関田寛雄先生の、お話の流れであった。しかし私は、特に心に残ったお話を一つ書かせていただく。
 それは、芥川龍之介の「くもの糸」の話であった。この世に在った時、さまざまな悪業をし、血の池に落ち込んだ男があった。苦しみの中からお釈迦様に救いを願う。すると釈迦は、生前この男が一匹のくもを殺さずに助け、木の葉の上に置いてやったことを、思い出された。そこで天上から一本のくもの糸をたらされるのである。そうするとこの男は、喜んでこの糸をつかみ、昇って行くのである。しかし、しばらくしてふと下を見ると、大勢の人間が下から同じように昇ってくるのである。それを見てこの男は、これはおれの糸だ、お前たちは昇ってきてはだめだ、と言った時に、糸は切れて、この男もろ共、又血の池に落ちてしまうのである。このお話を引用して、先生は、この男がもし下を見て、「さあ皆で昇っていこう」と言ったらどうなったんだろうか、と語られた。皆が救われたのではないかと。
 そこで今度はキリスト様だったら、この人に対して何と言われるであろうか、一歩一歩と昇って行く男に「掴んでいるその手を離せ」と、言われるのではないかと、そんなことをしたら元の木阿弥、血の池地獄であると、人は考える。しかし、キリスト様の言葉を信じて、その手を離した時に、落ちて行く処は、支え賜うキリスト様の御手の中である。これが私達の信仰であると。
 そして、主に救われた者は、又、他人と比べないで、自分の持ち味を受け入れていくことである。人間にはそれぞれ持ち味がある。甘い人、からい人、渋い人、それぞれが個性としてキリスト様に受け入れられていることをおぼえ、喜んで生きることを教えられた。とかく、自分は甘くなく渋いからだめだと思ってしまう。しかし、その渋さも又、教会全体の益のためには必要と認めて主が生かしていて下さることを思う時、自由にさせられる気がするのである。キリスト様の体は、いろいろな持ち味を必要としているのである。
(えはら のぶお)