森谷 愛

 私が、陶器に興味を持ち始めた時期は定かではないが、無意識の内に何らかの感慨をもったのは事実の様だ。特に、昔から人々の生活の一部として存在し続けていた民芸品と名の付く物に興味をそそられた。私が子どもの頃、父は新聞社の文芸部に属していて、当時文芸同人会などに入り、自宅での集まりの中に長谷川町子さんのお姉さんの毬子さんがおられ、時々町子さんの本を頂いたりした。父は当時は知られて居なかった益子によく取材に出掛けては益子焼きの器を持ち帰っていた。それが、後の人間国宝浜田庄司氏の作品だったのである。何の変哲もないような丼や角皿が、何の気取りもなく、自己主張も無いのに、それで居て十分な存在感を示し生活の場に潤い感をもたせる。使ってみて温かく、親しみやすい。それが後に陶芸に夢中にさせる原点になったのかもしれない。
 日本は世界の中でも職人芸の国として知られ、固有の民芸を育ててきている。しかし、明治以降西洋の機械文明の波が押し寄せ、急速に産業の近代化が始められ、機械の大量生産方式によって、これまでの職人芸は零細化の方向を辿った。しかし、商業主義とは関わり無く素朴な味わいを保ち、生活の用具として、これら手工芸の実用的価値と美的価値をもう一度再評価し、現代の生活の中でその位置を回復させ、現代の器物として更に発展させようとしたのが、柳宗悦を主唱者とする民芸運動であった。そして、1927年6月に東京で第一回の民芸展開催されている。更に、1937年には、日本の民芸を常設展示する日本民芸館が東京駒場に実現した。この柳宗悦の運動には、陶芸の浜田庄司氏、河井寛次郎氏らも参加し、自ら地方に生活の根を下ろして活躍した。その後、浜田庄司氏、河井寛次郎氏の両者とも人間国宝に任ぜられた。途端に我が家の食卓、床の間から数多かった浜田庄司氏の作品が消え失せてしまった。貴重品としてしまいこまれてしまったのである。
 最初は土の器に興味を持って居た私も、陶芸をやり続けるに従って、その内容が変わってきた。陶芸は、炎の芸術である、と言う人がいる。幾ら人知を尽くして造型を深めても最終的な詰めの段階は炎と言う自然に頼る以外にない。人間とはいかに傲慢かと言う事がここで現れた。民芸品に於ける陶器とは、人間の技と自然の炎との融合である。その為に陶芸家は窯に火を入れるとき塩を撒きお神酒を捧げて成功を祈ると言う。と言う事を知りつつ今、私は、染め付けと言う出来るだけ自然に頼らない分野に移行しつつある。そんな傲慢さが許されるものでもないだろうが、暫くは集中力に頼る細かい模様を描き続けていくことだろう。ちなみに、現在では、民芸と言わず伝統工芸と名を変え、民芸品とは、温泉街の土産品売場に有る物を指すらしい。

(もりや めぐむ)

(みつばさ2003年5月号「私・・・に夢中です!」より)

(写真は、森谷兄の作品)