ヒミコさん
宮川 進
魏志倭人伝に書かれた邪馬台国がどこにあったかは、まだ決着がついていませんが、いま考古学者のなかで「これで決まり」とさえ言われているのが「ヤマト説」です。
たしかに北九州は当時、弥生時代の先進地であったが、その終末期には必ずしもそうとはいえないことが分かってきました。文化の先進地帯である韓半島に近いから…という単純な「邪馬台国北九州説」は成立しなくなったのです。魏志倭人伝にいう方角、旅程も、それを書いた本人が旅行したのではないのですから全く信頼に足るものではありません。
もうひとつ有力な「邪馬台国東遷説=邪馬台国は九州から、その後、近畿に移った」という説についても、移動したのなら、その時代の九州の土器が近畿から出土してよいはずなのに、それはなく、むしろ九州から近畿の土器がでることが多いということで否定されます。
邪馬台国の女王・卑弥呼が死んだのは247〜8年、3世紀のなかばです。
日本で最も古い古墳が造られたのは、4世紀の初めといわれてきましたが、年輪年代法や土器研究の成果により、それが3世紀末、3世紀後半とさかのぼっていまは「3世紀中頃」が定説です。
卑弥呼が死んだ頃が古墳時代の初めということになります。そして、その時期に造られた古墳が多いのはヤマト(奈良県)です。桜井市の三輪山の麓に有名な箸塚をはじめ、それより少し前に造られた纏向(まきむく)石塚、ホケノ山古墳等があります。
北九州にも当時の古墳がないことはないのですが、数も大きさもヤマトの比ではありません。3世紀の中頃、最も元気だったのはヤマトなのです。
当時、鉄は韓半島からの輸入に頼っていましたが、それを独占していた北九州勢力に対抗し、ヤマト、吉備など他の地域が連合してつくったのが「邪馬台国」ではなかったかと思われます。その女王が絶世の美女「卑弥呼」なのです。
10年前の「邪馬台国」についての考え方は大きくかわりました。これから10年後には、もっと正確に千七百五十年前の美少女のことがわかってくるでしょう。
しかし、美少女だと思っていたら、80すぎのおばあちゃんだったりして、それなら、私の家のなかでウロウロしている厄介者とあまり違わない…(ここまで書いている時、背後から首を絞められ、ウッ苦しい…息がつまる…助けてくれ…)。
(みやがわ すすむ)