泳げるまで

荒瀬 牧子

 最近、水泳を習い始めました。
 以前は、友達と市民プールに行って、歩いていましたが、ある時から泳ぐコースに友達が行き始め、私はひとりで歩いていても面白くないので、泳げるようにならなければと思い、この歳にもかかわらず、スイミングスクールに入ったのです。今は中高年のために、様々なコースがあって、私のように、泳げなかった人も、泳げるようになったと聞きました。
 私は浮くことが出来ませんでした。水の中で目も開けていられませんでしたが、ゴーグルを付けると水の中で目を開けていられるのを知りました。
 最初は、水に慣れる所から始まります。さあ、次に浮いて行きましょう、と言われると、急に恐くなってしまいます。なにしろ私は、プールの底から足が離せないのです。ビート板を使っても、ビート板がフラフラするとバランスがとれなくて、やはり足が離せません。
そんな調子で、さんざんコーチに手を焼かせて、ようやくここ一ヵ月ぐらい前から浮くことができるようになりました。
 泳げない人が、浮いて、泳げるようになるのは、自転車に乗り始めの練習と同じ様な感じだと思う。後を持っているから大丈夫だと言われて安心していた気持ちと良く似ていると思う。コーチが、手を差し出していてくれると安心して浮いているけど、ちょっと手が見えないと不安になってしまう。とたんに水の中であわててバタバタして、おぼれそうになっている。考えて見れば、足が底に着く所でおぼれてしまうのも変なのだけど、なにしろ水が恐いんだからしょうがない。やっと浮くようになっても、一週間ぶりにプールに行くと、この前は浮けたのに、きょうは、何故だかこわくて、足が離せない。仕方ないからコーチにお願いする。「すみませんが、ビート板のはしっこ持っててくれませんか」。
 今度は、クロールの手の練習だけれど、片手を足のところに持ってくるのも難しい。こうしてだんだんと練習を重ねて、泳げるようになる事が目標だが、痛かった左膝がだいぶ良くなったのがうれしい。

      

  (あらせ まきこ)


越谷教会月報みつばさ2004年10月号「私・・・に夢中です」より