朝 の 散 歩

            川端 秀子

 女学校では当時としては珍しく園芸の授業がありました。ばら、ダリア、万年青などの育て方を習い、やがて裏庭を耕してさつま芋や南瓜の畑にしました。土を掘って堆肥を埋め、種を蒔く作業で泥んこになり、先生の目の届かぬ所では皆、手を休めました。バケツで水や肥料を運ぶ重労働は、のろまでデブ、お人よしの私に押しつけられました。でも私にとって、手をかけた植物の成長を見るのは何より楽しみでした。「象みたい」と誰かが笑うと、英語力トップの人が「じゃあエレファントね」と言い、それ以来クラス中が私を「エレちゃん」と呼びました。今でも、電話で「川端です」と言うと、「え、どなた?」と訊かれ、「エレよ」と言えば、「ああ、エレちゃん!」と言われます。
 幼い頃、祖母の部屋も物干台も鉢植えや鳥籠で一杯でした。祖母は「花や小鳥を大事にする人に悪人はない。皆、小さな命なのだから」と言いました。都会育ちの母も病弱な弟の為に庭中を野菜畑にし、鶏を飼いました。そんな中に育った私は花や小鳥が大好きで、結婚後も、庭にトマトや莢豌豆を植え、家の中では祖父の形見の万年青を守り、リスを飼いました。
 前任地の清瀬では、大勢の方が花や果物の種や苗を下さり、教会の庭が花壇や果樹園になりました。入院中の方々のお見舞に花や果物をあげて喜ばれました。やがて病院や施設が拡大され、患者やお年寄りが増えて、それどころではなくなった後、私はその時々に合った聖句を選んで、季節の花の絵を添え、画用紙に書いて配ることを思いつきました。聖書の活字が小さくて読み辛いお年寄りには大変喜ばれました。枕許に張られたその月の聖句を憶えようと、毎日声を出して暗唱している九十代の女の方もありました。月毎に百人を超える方々のために同じ花の絵を描くのは大変な苦労でしたが、私にとって生き甲斐になりました。この作業は二十年も続き、十二ヵ月かける二十で二百種類以上の花を描いたことになります。
 退任して移り住んだ現在の家には、庭も空地もありません。また手仕事に集中する体力気力もありません。健康のために毎朝、夜明けの道を三十分程、夫と散歩します。垣根越しに香る木蓮や金木犀に見とれ、野辺の草花の名前を思い出そうと努力するのが何よりの楽しみになりました。

         (かわばた ひでこ)


越谷教会月報みつばさ2004年11月号「私・・・に夢中です」より