一服いかが?

     

                        荻田香世子

 私は○○○に夢中!というと皆さんはきっとパソコンを思い浮かべることでしょう?勿論パソコンを駆使した作業は楽しく夢中になりますが、でももう一つ大切な時間があります。
 庭や路地を眺めその景観を楽しみ小さな部屋に入る、し〜んと静まりかえった室内、姿勢を正し、湯気のしゅ〜と言う音に耳を傾け、建具や軸や花一つ一つを味わう。今どきな〜んと悠長なことをやっているのかしら?と思いつつその時間にほっと一息つく自分がいます。
 そうです、お茶なのです。習い始めた当初は、お茶一つ戴くのにどうしてこんなに七面倒臭い作法をしなきゃなんないのかしら? さっさっとお茶を入れてかき回し、ハイどうぞ これでいいんじゃないの?と思っていましたが、年月を経るうちにいつの間にか茶道の奥深さに魅せられてしまいました。
キリスト教と茶道なんてなんとかけ離れたとお思いの方もおられるでしょうが、キリスト教の伝来とほぼ同時期に確立された茶道にはキリスト教にちなんだ作法が数多く残されているのです。今の茶道を確立した利休がキリスト教と深く係わっていたのは周知の事実です。まず濃い茶を回し飲みし各々が懐紙で拭うのは、儀式的にかつ共同飲食する聖体拝領からの影響だし、正直に慎み深くおごらぬ様という教えは正にキリストの教えでもあります。また狭い茶室のあの空間の中に宇宙があり、人の世の移り変わりがあり、それを無言のうちに相客達と感じあう、そこに何か秘められた大きな力を感じます。まるで神様の懐の中で自分自身と向き合って見つめ直す時間を戴いているようです。
 ただお茶事というとお寺で行われることが多く少し困ります。昨年は護国寺で御献茶の一役を担いました。大勢の方々が見ている中でお茶を仏前にお運びする役でしたが、でも仏前で深々とお辞儀をする儀式を抵抗なく行う事が出来ました・・・心はイエス様を感じながら。
 茶道は極められることがないと言います。ましてほんの10年やそこいらのしかも中途半端なお稽古ではその神髄を垣間見る事さえ出来ないとは思いますが、これからも茶道に係わって行けたらと思うものです。
 忙しい日々の合間に、ほっと一息の一服は至福です。貴方も一服いかが?

         (おぎた かよこ)





越谷教会月報みつばさ2005年2月号「私・・・に夢中です」より