推 論

          江原 史雄

 『朝起きたら顔を洗いましょう』ということを、わざわざ大事な手紙や、後世に残る書簡等に書き記す人は居ないと思う。顔を洗うということは、ささいなことゆえ書かないという面があるが、もしこれが、あることの大事な生命線にかかわることであったとしても、当時のみんながもう、当然のこととして分かり合っていたら、改めてそれを、書き記すことをしないということになるのではないか、そうすると、その時代の様子を知らない後世の人が、それを読んだ時、あまり記されてないから、無視してしまうということがありはしないか。
 使徒言行録などを読む時、あの初代の弟子達が、御霊に導かれて、素晴らしい主にある働きをしていく姿を見せられる。又同時に、私のように弱き者は強められ、自立できない者も、立ち上がらされていく姿なども知らされる。そういうことを素朴な目で見ていくとき、私と初代の人達との信仰の質の違いは何に原因するのかと、問わされるのである。
 これはあくまで、私個人の探し求めた推論の一つだが、それは、初めに書いたように、その時代の使徒達や弟子たちには当然のごとく分かっていたことであった。それ故に信仰の命にかかわる大事なことであったんだけれども、改めてそれを書く必要がなかった、ということのうちにありはしないだろうか、それゆえ、そのあまり記さなかったことの中に隠されている命なるものを、祈り探し求めたいと思う。
 考古学者が、推論を立てて、そこを掘り始めるごとく、初代教会の宝を探し求めたいと願うのである。
 あわれみの主の与えて下さる宝ゆえ、むずかし過ぎて見出せぬというところには隠されていないだろう。
 神の愚かさは人よりも賢いと書かれてある。

   (えはら のぶお)

越谷教会月報みつばさ2005年3月号「信仰の先輩に聞く」より