今月の特集題 和解の福音

 キリストを通して  中井勇二

 

標記の題でみつばさの原稿依頼を、奥田さんからメールで受けたのは、9月12日でした。この日は朝から米国同時テロによる悲惨な事件を、どのテレビ局も終日報道していました。私は奥田さんに「現在のこの困難な時代に、ひとり個人として生きる時も広く世界に目を向けないわけにはいきません。このテロ事件や、さかのぼって日本人が北朝鮮に拉致された問題など、また日本と隣接国との間で議論になった過去の歴史問題など、国により個人によっても解釈が違います。国と国との和解がどうあるべきか、聖書を読んでも私にはよく判りません。・・・・」このようなメールを送り、お断りしましたが、再度、奥田さんから依頼されたので、改めて聖書を開いて見ました。和解という言葉は旧新約聖書に数十箇所も出てきます。

ロマ書には、神がキリストを通して私達をご自分と和解させたとあります。マタイ伝には、「あなたを訴える人と一緒に道を行く場合、途中で早く和解しなさい。」という主の御言葉があります。

「和解」を辞書で引いてみると、1.仲なおりする。2.法律で訴訟の当事者が互いに譲歩して争いをやめる、とあります。聖書の原文の言葉がどう書かれているかは判りませんが、訳された「和解」の言葉どおりとすれば、聖書はまことに重い課題を私に与えております。

例えば今度のようなアメリカにおける同時多発テロ事件に対して、アメリカ大統領が所在不明のテロ集団に和解のメッセージを表明した時、アメリカ国民が果たして納得するでしょうか。これまでのテロの概念をはるかに越えた今回の事件は、私達を平静な常識の世界から、異常な世界へと追い込んだように見えます。しかし過去の歴史を振り返れば、国家と国家、民族と民族、宗教間の争いが今にいたるまで続いています。中国の歴史を読むと、皇帝が変わる度に、自分の兄弟は勿論その子も殺すなど、人間不信があたりまえの歴史の連続です。このようなことは中国に限りません。

聖書に「太陽の下、新しいものは何ひとつない。見よ、これこそ新しい、と言ってみても、それもまた、永遠の昔からありこの時代の前にもあった。」と記されています。

現在のような激動する不安な社会にあっても、あらためて聖書に示された「私達が御子の死によって和解させていただいた」との福音の御言葉に、思いを深く沈め「和解」の福音を学びたいと願っています。

                                                            (なかい ゆうじ)

 

 

        甘 え     一柳民恵

 

私たちは週ごとの礼拝の中で十字架の「和解の福音」を知らされています。恐ろしいことに、居眠り半分で聞いている時もあれば、涙と共に正に福音として聞き取ることも大いにあります。それなのに、日々の生活の中で赦されているという実感はなくていつも自分流、聖書のみことばが私のどこに活かされているのだろうかと懺悔いたします。

車の運転では信号無視はできませんが、自転車や歩行中など急いでいるとエイッとばかり渡ってしまいます。無事通過してしまえば何事もなかったようにすまし顔、きたない話ですが、トイレで用を済ませ、水を流した時のように、その場で目に映るトラブルがころがっていない限り平気な顔をして生きている。

しかし、何かが露見すると全てが暴かれてしまいます。誰よりも自分自身が裁きだし、あのことも、このことも、自分自身がやったこと、裏切ったこと、不正を働いたこと、全て心得て自分の胸にしまってあることなのですから……。

政治家がよく不正を働いて新聞をにぎわし、くそみそに叩かれていますが、私も同じです。一気に自分の罪が噴き出し、「お前はなんだい、クリスチャン?聞いてあきれるよ」そうなると最も恐ろしい自分自身の裁きに耐えられなくなるのです。私はへとへとになってやっと神様のもとへ返るのです。

御子イエスキリストが私の耐えられない罪の一切を負って下さり、解放してくださる。まさに聖書において、はっきりと赦しの宣言がなされている「お前の罪は赦された」と。ありがとうございます 神様。

しかしです、泣きたいほどにしぷどい私めの罪は心の奥のかたく閉じたその中に、閉じ込めて私が解放させません。でも、この弱みがあるから他者のことを許すことができるんだと自分なりに納得しています。

神様は全てをご存知です、私が何重にも鍵を掛けて閉し込めたつもりでも完全に見透かしておられます。

こんなひねくれ者で、神様の前に言い訳ばがりしてぐずぐずしている面倒臭い私でも、神様の前に瞬時に立たされる時があります。それは病です、死の恐怖です、直ちに私を素直にさせます、神様、神様どうぞ、どうぞお助けください、ごめんなさい。涙と共に懇願し、ひれ伏し、絶対的に主を受け入れ、みことばに従順になり、私が最もクリスチャンらしくなるときでしょうか。何とでたらめな人間なのでしょう。 トホホ

(いちやなぎ たみえ)

 

 

    すべての時は、最善    篠崎誠吉

 

拙文ですが、福音を共に自覚することの出来る「時」は大きな喜びです。

主なる神からの和解を思う時、人間が如何に傲慢に自我に生きる存在になってしまっているかを省みる時、現在の混沌とした嘆かわしい状況を、又古くは旧約のバベルの塔を建てて神を冒涜した人間、その人間を「ドゥーイング」物質的でなく「ビーイング」存在、命への道へ歩ませて下さる為に、神は徹底的にへりくだって、和解すなわち、御子イエスを十字架上につけられた。

何の罪も無いイエスをと云う言葉がよく使われますが、全くその通りで普通和解と云うと、互いの非や落度を認め合って、納得し許すのが社会通念だと思います。

しかし神には全く非とする所は無く、只有るのは愛だけである。そのような一方的な赦しの愛を賜っているのです。

イエスをキリストと信じながらも日頃の生活では最善を備えて下さっている神の愛に反して、何と二元的な生き方をしていることでしょう。

自我による価値判断、様々なしがらみの踏襲、良い時悪い時を区別する愚かしさ、なぜ神は御子を十字架につけなければならなかったかと思う時、人間の罪深さや自分自身を省みる時、自分もイエスキリストを十字架につけた一人であることを思い知ります。

最近知らされたのですが、神の救いを信じ、救いの恵みに与っていて聖書の知識は良く知っておられるが霊的誕生、又精神的誕生をしていないと愛についての深い話になると判らなくなってしまうことを、学びました。そこで私は邂逅するか、しないかで大きな違いを心に覚えて深く感銘を受け、霊的誕生、精神的誕生は真にイエスキリストと邂逅されましたかと云う言葉だと思いました。

私は二十四歳の時、日毎会社帰りの際暗い夜道を歩き乍ら、星空を仰ぎつつ“神様っ”と、言葉に出して祈り乍ら家路に就いていた。その時、誰か一緒に歩いておられる気配がするのでしきりに目をこらしたのですが、人らしき者は見えないのです。すぐにこれはイエス様が伴って下さっているのだと直感したのです。

昨年暮れから国連ユニセフから世界の難民の惨状と、支援要請のメールが三回程参りまして、三回程少額ですが送付させて頂きました。

神様は、カを必要としている時は思いもかけなかった方法で、ことに当たって下さり助けて下さいます。確信を持って祈る時そこに宣言していく言葉が与えられます。

すべての「時は最善です。」感謝

(しのざき せいきち)

 

越谷教会月報みつばさ2001年10月号「和解の福音」より

 

 

 

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